婚姻届とプロポーズ
「美弥子、君の事が大好きだ。君を誰よりも愛している」
そう言って、僕は愛しの彼女に熱い接吻を交わした。
僕からの唐突なキスに驚いたのか、美弥子は瞳を見開いてされるがままになっていたが、次第に瞼を閉じ始め、彼女自身も僕を求めるようにその柔らかな唇を押し付けてきた。
密着し合う唇と唇。クチュクチュと濡れた音を立てながら、僕達は激しく求め合う。
いつまでそうしていたのだろうか。ふと気が付いた時には、どちらからともなく唇を離して互いに見つめ合っていた。
彼女の愛らしい瞳が僕の姿を捉える。その穢れの知らない澄みきった瞳を見るだけで、身も心も吸い込まれてしまいそうだ。
プロポーズするなら今しかない――。 僕はそう決意して、ずっと前から考えていたプロポーズの言葉を彼女に向けて言った。
「美弥子、僕は君を愛している。どうか僕と結婚してほしい」
僕の決死の思いで言ったプロポーズに、美弥子はキョトンとした様子で瞳を瞬かせた。プロポーズだと認識されなかったのだろうかと内心焦ったが、少ししてようやっと意味が通じたのか、彼女は嬉しそうに目を細めた後、ゆっくりと僕に近付いて頬を擦り寄せて来た。
「……それは、イエスと受け取っていいって事かい?」
僕の言葉に、美弥子は何も答えずにスッと体を預けてきた。まるでこれが全ての答えだと言わんばかりに。
そして僕は悟る。
美弥子は、僕の事を心から愛してくれているのだと。
美弥子も、僕と一緒にあり続ける事を望んでくれているのだと。
「ありがとう美弥子。すごく嬉しいよ……」
感激のあまり、僕は腕を広げて美弥子を強く抱き寄せた。
美弥子の温もりが僕の肌に伝わる。彼女とこうして触れ合っているだけで、胸が幸福感で満ち溢れてくる。美弥子も僕と触れ合って、同じように思ってくれているのだろうか。そうだとしたら、この上なく嬉しい。
「さあ、前は急げ。早速婚約届けを書いて市役所に出しに行こうか」
若干名残惜しくも、僕はそう言って美弥子を離して、そばに置いてあるタンスへと近付き、引き出しを開けて一枚の用紙を取り出した。
ゆらゆらと眼前で揺れる紫煙。煙草の先から上がるその小さな煙を見つめながら、俺は深く息を吐いた。
とある市役所内の喫煙所。俺と同じように煙草を求めてわらわらと集まった喫煙者が、もうもうと副流煙を漂わせながら周りの人間達と雑談に花を咲かせていた。
やはり仕事の後はここでの一服に限る。40後半の良い歳したオッサンなのだから、そろそろ健康に気を付けるべきなのだろうが、こればっかりはどうにもやめられそうにない。
そんな事を考えながら、そろそろと仕事に戻ろうかと灰皿に煙草をこすり付けた。あともう一本だけ吸いたいところなのではあるが、それはまあ後のお楽しみという事にしておこう。
「立花さん。ちょっといいですか?」
吸い殻をゴミ箱に捨てて喫煙所を出ようとした所で、今年入ったばかりの新人がドアを開けてひょっこりと顔を覗かせて俺の名前を呼んできた。
「おう。なんだ、どうかしたのか?」
まだ新卒だからか、どこかガキ臭さが抜け切っていない目の前の青年は、いかにも困ってますと言った風に眉をしかめた後、「それがどう対応したらいいか分からない状態に陥ってまして……」と頬を掻きながら俺にそう言ってきた。
「あん? どういう意味だ?」
「実はさっき、婚約届を出しに来られた方がいるんですが、明らかにおかしい箇所がありまして……。とりあえず、これ見てもらっていいですか?」
そう言って、新人は手に持っていた用紙を俺に手渡してきた。
俺は新人から用紙を受け取り、ざっと目を通す。
「はあ? 何だこりゃ……」
婚姻届に書かれている内容を見て、俺は一瞬我が目を疑ってしまった。
夫となる人の記載に、特におかしな点は見当たらない。だが問題なのは夫の方ではなく、この美弥子とかいう妻となる側の方だった。
何がおかしいのかって、生年月日が平成20年の2月22日になっているのだ。という事は、今年でまだ4歳という事になってしまう。一般的に女性が婚姻できるとされる年齢の半分にも満たない。
言わずもがな、こんな年端のいかぬ年齢で婚姻などできるわけがないし、そもそも受理されるハズがない。ひょっとしたら単なる記載間違いという可能性も捨て切れなくはないが、しかし間違いではないというのを裏付けるような印が、そこに施されていた。
それは――。
「この実印部分、どう見ても猫の足跡で押されてるじゃねぇか。猫と婚姻するなんて、一体何考えてんだこの男は……」