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勇者様お支払いのお時間です〜魔王討伐にかかった経費を引かせていただきます〜

作者: MIYA
掲載日:2026/10/28

「勇者様への報奨金は金貨千枚。では、橋を直した人にはいくら払われますか」


 その質問をした途端、式典室の長机から笑い声が消えた。


 勇者ディオンの凱旋式(がいせんしき)まで、今日を含めて三日。壁には肖像画(しょうぞうが)が掛かり、床には金色の飾り布が広がっている。魔王討伐(まおうとうばつ)を祝う、王国始まって以来の大仕事らしい。


 私は王国会計院の第三支払係、エマ・ヴァレル。二十八歳。今朝まで任されていたのは、式典で使う飾り花の代金を確かめる仕事だった。


「ヴァレル君。橋の話はあとだ」


 式典長のロダン様は、金糸の手袋を机に置いた。


「今日決めたいのは、金貨千枚を入れる箱の寸法だよ」


「底板は厚くしてください。以前、宝物庫の箱が金貨の重さで抜けました」


「そういう助言はありがたい」


「それから、箱の横に未払いの請求書を置く場所が必要です」


 書記の筆が止まる。


「……請求書?」


「リューン谷から届きました。合計で金貨千五百十枚です。討伐隊(とうばつたい)へ食糧を送った商人、橋を架(か)け直した石工、負傷兵を運んだ人たちへの代金です」


 私は足元の麻袋を持ち上げた。青い伝票が束になっている。


「なぜ袋ごと持ってきたのかね」


「開くたびに紙が落ちるので。ひもは三人が結び直し、三通りの結び目になっていました」


 式典長は金貨箱の設計図を引き寄せた。


「財務長官へ回したまえ。式で払う金ではない」


「式場で払うつもりはありません。国庫から払えるようにする相談です」


「君はどこの係だね」


「第三支払係です」


「なら、使える金があるか調べなさい」


「調べました」


 二枚の表を机に置く。


「前線供給費の残りは九百四十枚。西門守備隊の臨時軍糧費に未使用の五百四十枚があります。ただし後者は転用の承認が必要です」


「合わせれば足りるじゃないか」


「いいえ。合わせて千四百八十枚。請求額には三十枚足りません」


「……なおさら払えないのでは」


「請求の内容をまだ確かめていません。重なった請求や記入の誤りがあれば額は変わります。足りない場合は、別の財源も相談します」


 式典長は箱の設計図を机の端へ押した。


「あと三日で間に合うのか」


「間に合わせたいんです。ただ、根拠のない支払いはできません」


「勇者の歓迎は予定どおり行う。それを忘れないでくれ」


「もちろんです。ただ、当日までに何も決まらなければ、あの箱の横へ麻袋を置きます」


「それは脅しかね」


「会計上の現状表示です」


 書記がとうとう噴き出した。


*


 支払係の部屋へ戻ると、同僚のネリが椅子(いす)の上に立っていた。


「エマ、ちょうどいい。去年の帳簿を取って!」


「脚立は?」


「総務が式典に持っていった。金貨箱を高いところから下ろす演出だって」


「どんな式典なの」


 部屋の壁には『伝票は折らない』と書いた紙。その下に、折り目だらけの伝票が刺さっている。


 ネリと机を寄せ、麻袋を開いた。薄い青札が何十枚も出てくる。荷の品名、数量、受け取った隊の印。裏には届けた人の名前がある。


「赤番号がないね」とネリが言った。


「うん。現場で受け取った証拠にはなるけれど、国庫の正式な支払命令にはならない」


「それじゃ、勝手に届けた品って扱い?」


「戦時臨時調達規則の第十四条がある」


 革表紙の規則集を開いた。前線指揮官が緊急に物資や人手を調達した場合、受領隊と届けた側の記録を照合し、監督官が確認すれば後から支払える。


「つまり今は、確認が足りないだけ」


「その監督官は?」


「三日前に帰還して、今は軍病院。腕を折っているそうよ」


「書類に署名できないじゃない」


「腕は折れていても、何があったかは聞けると思う」


 私は青札を三つの束に分けた。


 石工組合の橋工事、六百十八枚。医療と搬送、四百六十二枚。荷運び組合、四百三十枚。合計で確かに千五百十枚だ。


「橋だけで六百枚以上?」


「高いのか安いのか、私には分からない。夜通し橋脚を作り直したそうだけど、何が必要だったか聞かなくちゃ」


「三日で全部調べるの?」


「二日半かな。さっき式典長に三日と言ったから」


 ネリはため息をついた。


「まず昼ごはんを食べよう。お腹を空かせたら計算を間違えるよ」


「食べながら書類を――」


「またパンくずを帳簿に挟む気?」


「一度しかしていないわ」


「毎年一度ずつ、ね」


 その言い方は、訂正できなかった。


*


 軍病院の監督官ガルムは、右腕を吊(つ)ったまま豆の煮込(にこ)みを食べていた。


「今、いちばん聞かれたくないのは橋の代金だ」


「では話が早いですね」


「早くない。あの夜、正式な調達書は作っていない」


「なぜですか」


「敵に山道を塞(ふさ)がれ、橋を通さなければ薬が届かなかったからだ。命より紙を優先できなかった」


 彼は左手の匙(さじ)で豆をすくい、何度か膝に落とした。


「荷車の記録はありますか」


「第五補給隊の輸送簿だ。隊長のルシアが持っているはずだ。あれは帳簿を自分の馬みたいに大事にする女でな」


「なら、無事そうですね」


「明日、勇者と一緒に戻る。私は青札を使えと命じた。支払われなければ私の責任だ」


「責任は調べます。でも、働いた人の請求まで消えるわけではありません」


 ガルムは匙を置いた。


「お前、怒鳴られても平気な顔をしているな」


「平気ではありません。右耳は少し聞こえにくいので、できれば左からお話しください」


 彼は慌(あわ)てて椅子(いす)をずらした。


「本当か」


「昔、重い帳簿の棚(たな)が倒れてきたんです」


「帳簿は恐ろしいな」


「ですから高い棚(たな)へ重い物を置いてはいけません」


 帰り際、監督官が呼び止めた。


「王都の書類には載っていない仕事がある。橋を渡る車を数えたのは谷の宿屋の女将だ。二晩ずっと灯を見ていた」


「お代は請求されていますか」


「いや。誰に頼まれたわけでもない。だが、あの人がいなければ夜の橋はもっと危なかった」


 私はその話を手帳に書いた。支払う額がなくても、残すべき仕事はある。


*


 翌朝、王都の南門には討伐隊(とうばつたい)の荷物が先に届いていた。凱旋式(がいせんしき)は明日だ。


「馬車を止めないで!」


「止めないと車輪が外れるんだよ!」


 門の前で怒鳴っていたのは、日に焼けた女性だった。片輪を足で支え、車軸に巻いた布を押さえている。


「修理屋を呼びましょうか」


「助かる。でも、先にこれを見ておくれ」


 差し出された青札には『リューン谷・荷運び組合』とある。名はアダ・ペリン。昨日の請求の代表者だった。


「組合の六人分を背負って来た。王都までの車代も自腹さ。金を払ってくれるんだろう?」


「受領記録を確認中です。まだ渡せません」


「それは三日前にも聞いたよ。式を祝っている間に、うちの馬は冬の飼い葉がなくなるんだ」


 返す言葉がなかった。私は金貨箱の底板を気にしていたが、馬の餌のことを考えていなかった。


「会計院のエマです。請求書を見せていただけますか」


「ようやく名前のある相手が来たね」


 アダは布包みから帳簿を出した。四百三十枚の内訳が、働いた日ごとに書かれている。


「ここに赤い印が付いています。九十枚が支払済みという意味でしょうか」


「違う! あれは荷車を通していいって印だよ」


「会計院の支払簿にも、似た印があります。二重請求の可能性を――」


「あたしが嘘(うそ)をついてるって言うのか!」


 周囲の御者たちが振り向いた。


 私は慌てて紙の裏を確かめた。数字らしいものが薄く残っている。


「そう断定したわけではありません」


「人前で言えば、同じことだよ。返しておくれ」


 紙を引かれ、私は反射的に握りしめた。端が小さく裂ける。


「……すみません」


「謝るより、返して」


 アダは裂け目を指で確かめた。


「九十枚は、軍が先に借りていた荷車の代金だ。若い御者が受け取ったらしいけど、組合の金庫には入っていない。誰に渡したか、そこを調べておくれ」


 支払われた事実と、受け取るべき人に届いた事実は違う。先ほど自分が口にした数字が、急に心もとなくなった。


「明日までに軍の支払簿を確認します。組合の人に聞くときは、先にあなたへ連絡します」


「頼むよ」


 私は荷車の反対側を押さえ、アダと一緒に門の端へ動かした。


「腕はあるじゃないか」と彼女が言った。


「帳簿の入った箱は、いつも運んでいます」


「帳簿には車輪がないだろう」


「付けたい日もあります」


 アダは鼻を鳴らした。今度は笑ったようだった。


*


 昼過ぎ、第五補給隊のルシア隊長が城へ入った。


 彼女は泥だらけの外套(がいとう)を脱ぐより先に、馬の鞍(くら)から平たい木箱を下ろした。


「輸送簿ならここよ。人間は雨に濡(ぬ)れたけど、帳簿は濡らしてない」


 油布で包まれた帳簿が二冊。私はすぐに開こうとして、止められた。


「先に手を洗って。荷車の油が付いてる」


「すみません」


「私も新人の頃、泥で七つの数字を消したことがある。あれは泣いたわ」


 中庭で手を洗い、青札と輸送簿を比べ始めた。横では兵たちが磨いた剣や鎧(よろい)を運んでいる。私たちだけが荷車を数えていた。


「橋が落ちた九月十七日の記録を」


「午後六時、橋脚用の石材が五台。午後九時、治療用の布箱が二台。十八日の朝は穀物が三台」


 青札と日時も荷物も一致する。


「この夜明け前、一台減っています」


「馬が足を傷めたの。代わりにペリン組合の荷車を使った」


「借り賃、金貨九十枚ですか」


「私が若い御者へ渡したわ。本人はトム・ベラン。写しがあるはず」


 木箱の底から、薄い支払票が出てきた。日付と金額、個人名の署名がある。


「組合ではなく個人が受け取っています。この金が組合へ渡ったかは、別に確認します」


「分かった。面倒でも必要なのね」


「必要です。今朝は、それを忘れて人を怒らせました」


 ルシアは私を見た。


「あなた、どうしてそんな仕事を続けてるの?」


「父が靴屋なんです。昔、修理代を一か月待たされたことがありました。やっと受け取ったとき、金額より忘れられていなかったことが嬉(うれ)しかったそうです」


「今度、うちの隊の靴も直してもらおうかしら」


「見積もりを取ってからにしてくださいね」


 ルシアはようやく、声を立てて笑った。


*


 勇者ディオンは、想像していたより地味な男だった。


 靴には補修の跡。立派な剣の鞘(さや)に、赤いひもが二本結ばれている。


「あなたが会計院のエマさん?」


「はい。勇者様に確認したいことが」


「勇者様はやめてくれ。式までに何百回も聞きそうだ」


「では、ディオン様」


「……それも堅いな。ところで、あといくら足りない?」


「ご存じだったんですか」


「谷の人たちが請求に来たんだろう。俺が何とかすると言おうと思ってた」


「それだけは言わないでください」


 彼が目を丸くする。


「払える日を決めずに約束すれば、相手は待ってしまいます。あなたの報奨金と、軍が調達した物の代金も別です」


「俺の金を出さなくてもいいのか」


「あなたが個人で借りた物でない限り、必要ありません」


 ディオンはしばらく考えた。


「じゃあ俺にできるのは、何が届いたか話すことだね」


「はい。それと、その赤いひもをどこで結んでもらったのか教えてください」


「橋だよ。石工の親方がくれた。一本は行き、もう一本は帰りの分。帰るときは人数が増えるだろうって笑ってた」


 討伐隊(とうばつたい)は実際に負傷者を連れて戻ったという。


「橋を急いで作ってもらった理由は?」


「砦(とりで)の手前でけが人が出た。谷へ戻る橋がなければ、俺たちは戦う前に薬が切れていた。あれは進む道でも、帰る道でもあったんだ」


「危険だったでしょう」


「渡るときは馬から降りたよ。石工の親方が最後まで橋から目を離さなかった。宿屋の女将も二晩ずっと車を数えていた」


 ガルム監督官が言っていた人だ。


「その方の名前は?」


「ベルナだったかな。帰還したら礼を言おうと思ってた」


「明日の式で、今の話をしてもらえますか」


「戦いの話を期待されてると思うけど」


「そうでしょう。でも、橋を渡った話も、勇者様にしかできません」


「……分かった。考えてみる」


 彼は箱いっぱいの報奨金を受け取る予定だ。その箱が壊れないか、私と同じくらい心配しているとも言った。


「底板なら、厚くしてもらいました」


「それは安心だな」


 世界を救った勇者と、今朝壊れかけた荷車の話までした。思ったより話しやすい人だった。


*


 財務長官ヴィルヘルムの執務室では、飾り棚に並んだ銀器より、壁の時計が立派だった。


「ヴァレル。勇者と話したそうだな」


「橋を渡った人数と、荷の到着について伺いました」


「勇者の口添えで支払命令を出せと言うのか?」


「いいえ。証言は記録と照らすためのものです。勇者様の名前を、領収印の代わりにはできません」


 長官は椅子の背に体を預けた。


「それを聞いて安心した。だが、今のままでは支払えん」


 机の上には、私が朝提出した仮集計がある。


「監督官の正式な調達書がなく、九十枚の受取先も不明。しかも請求額が予算を超えている。これを私が認めれば、明日から誰でも青札を持って金を取りに来る」


「第十四条の確認をそろえます。九十枚は軍から出ていますが、組合への引き渡しを確認するまで請求額は減らしません」


「手元に残る時間は?」


「今日の夜までです。式典当日の朝には、財源を決めてもらう必要があります」


「では、今夜もう一度来たまえ。間に合わなくても数字を書き換えるな。正直な失敗なら、私は説明できる」


 長官は時計を見た。


「ただし、報奨金の千枚に触れる提案は受けない。あれは討伐の契約で決まった額だ」


「分かっています。働いた人たちにも、決めた約束を守るために来ました」


 私が頭を下げると、長官は初めて集計表へ筆を入れた。赤字で『要・裏付け』。否決ではない。それでも、部屋を出た足は重かった。


*


 午後、私は再び南門へ向かった。アダの荷車は修理が終わり、門の外の空き地に移されていた。


「会計院の人が来たよ!」


 若い御者が叫び、車の陰からアダが顔を出した。


「ああ、あんたか。今日はまた数字を引きに来たのかい」


「まず、お詫びに来ました」


 私は裂いてしまった請求書の端を、薄紙で補強して返した。会計院の控えも取ってあるが、原本を傷つけた事実は消えない。


「朝、皆さんの前で二重請求を疑いました。確認前に口にするべきではありませんでした。申し訳ありません」


 アダは黙って紙を受け取った。


「役所の人に面と向かって謝られるとはね。で、九十枚はどうなった?」


「軍の帳簿には、トム・ベランさんが受け取った記録があります。直接、確かめたいのですが」


「トム!」


 車の下から少年のような顔の御者が這(は)い出た。背は高いのに、呼ばれた瞬間だけ肩が縮む。


「こいつだ。最近、組合に入ったばかりでね。トム、軍から金を受け取ったのかい?」


「……受け取りました。九十枚」


 アダの目が大きくなった。


「どうして報告しなかった!」


「馬が倒れかけてたんです。補給隊を待っていたら、餌がなくなって。だからその金で干し草を買いました」


「九十枚、全部?」


「七十枚です。残りは持ってます」


 トムは上着の内側から小さな革袋を出した。金貨二十枚の音がする。


「黙っててすみません。勝手に使ったと怒られると思って」


 アダは深く息を吐いた。


「怒るよ。あんた一人の金じゃない。けど、あの馬を見殺しにできたかって聞かれたら、私だって餌を買う」


「餌を買った店の名前は?」と私は聞いた。


「谷の北口の飼料屋です。木札をもらいました」


 トムが差し出した木札には『干し草七十枚、九月十八日』と刻まれていた。受け取った店の焼き印もある。


「七十枚は組合の経費として認められる?」


「もちろん。ただし帳簿には書く。残り二十枚も金庫へ戻す。それで組合は九十枚受け取ったことになる」


 アダは私を見た。


「こっちの請求からも九十枚引いていいよ。四百三十から三百四十。計算は合ってるかい?」


「合っています。ですが、代表者の同意を記録してから訂正します」


 私は新しい用紙に、軍の前払九十枚、飼料七十枚、金庫返納二十枚、と分けて書いた。トムが受領の署名をし、アダが支出と返納を確認する。軍の支払票と組合の控えも添える。


「これで、帳簿を見た誰にも説明できます」


「初めから、そう聞いてくれればよかったね」


 返す言葉はなかった。アダは私の持つ新しい用紙を引き寄せた。


「今度は破かないようにね」


「気をつけます」


「どうしても破れたら、こっちで継いでやるよ。荷車の幌(ほろ)を直すより簡単さ」


 笑い声が起きた。トムもやっと顔を上げた。


 三百四十枚。そう書き直した請求書は、朝よりずっと軽いはずなのに、手には重かった。


*


 石工の親方ミロには、西の仮宿で会えた。大きな手で細い針を持ち、破れた上着を縫っている。


「六百十八枚だって? そんなに請求したかね」


「明細にはそうあります」


 私は紙を広げた。石材の切り出し、運搬、橋脚の補強、夜間の工賃。目に付いたのは、三日目だけ人数が増えていることだった。


「最後の日に十人追加していますね」


「村の若いのを呼んだ。討伐隊が戻るとき、担架(たんか)を載せた車も通ると分かったから、欄干(らんかん)を増やしたんだよ」


「支柱の材料代が二重になっていないか確認しても?」


「どれとどれだい」


 親方は工事の順序を一つずつ教えてくれた。同じ日付の石は、川底へ沈めたものと上の欄干用で、形も用途も違った。足りない証拠は村へ連絡して取り寄せ、現場から帰った若い職人の名簿とも照らした。


「六百十八枚で間違いありません」


「よかった。削れと言われたら、どの子の工賃を減らすか悩むところだった」


 親方は上着を畳み、私を見た。


「式に出るって聞いたよ。勇者様の鞘に赤いひもが付いてただろう」


「ええ。橋でもらったと」


「帰りの分を先に渡した。戻ってこられる橋にしたかったからな」


 針のそばには同じ赤いひもの切れ端があった。私は手帳の端に『欄干を増設した理由』と書き、慎重にページを閉じた。


*


 医療費を確認する頃には、日が傾き始めていた。


 軍病院の医師オデットは、私の到着を待ち構えていたらしい。机に薬箱を三つ並べ、布の束を数えている。


「四百六十二枚。運んだ薬の記録、負傷者の治療記録、送り出した薬局の受渡書。全部そろえました」


「ありがとうございます。確認させてください」


「薬を使った兵の名簿もいる?」


「全員の名前は不要です。搬入した数量と、軍の受領印があれば照合できます。病名は会計用の紙に写しません」


 オデットは胸元で腕を組んだ。


「あんたたち会計院は、何でも書けって言うものだと思ってた」


「必要以上に書いて、見せなくていい人に見られるのも困りますから」


 最も高価な薬は、搬入簿では二箱、治療簿では一箱になっていた。見つけたとき、私は思わず指を止めた。


「残りの一箱は?」


「開けずに返したわ。封印も残ってる。谷の薬局に返送した証明がこれ」


 差し出された受渡書には、減額後の請求であることも記されていた。四百六十二枚は返送分を除いた額だ。


「分かりました。ここは一致します」


 オデットは息をつき、薬箱を閉じた。


「前線では、使わなかった薬を返す暇がないと思ってた。でも、あの子たちは帰ってきたんだね」


 箱の蓋がはまる音が、病室の廊下に小さく響いた。


*


 会計院へ戻ると、ネリが机の上に紙の山を三つ築いていた。


「お帰り。青札は全部で六十二枚。四十七枚は昨日のうちに確認して、残り十五枚のうち十二枚も受領簿と照合したところ。あと三枚」


「助かった。私は三件の代表者に会ってきたわ」


「橋は?」


「六百十八枚。材料と工賃を現場名簿で確認できた」


「医療は?」


「四百六十二枚。返した薬を除いた請求になってた」


「運送は?」


「九十枚の前払が判明して、三百四十枚に訂正した。アダさんから署名ももらったわ」


 ネリは途中まで書きかけていた合計額を、きれいに一本の線で消した。


「六百十八、四百六十二、三百四十。千四百二十枚ね」


「前線供給費の九百四十枚との差は、四百八十枚」


「西門守備隊の未使用予算、五百四十枚から出せる。六十枚残るね」


 ようやく、足し算が請求額に届いた。それでも支払えるとは限らない。別の予算を使う権限は、私たちにはなかった。


「ねえ、エマ。これだけは処理先が分からない」


 ネリが最後の束から一枚抜いた。ひどく薄い青札で、受取印も請求者の署名もない。


 品名欄には『橋の灯、二晩』。


「誰かが書いて、そのまま束へ入れたのかな。金額も空欄」


「監督官が言っていた宿屋の女将さんかもしれない。車の通行を見張ってくれていたそうよ」


「なら、請求してないの?」


「それは本人に聞かないと分からない。払う名目をこちらで作っても、払ったことにはできないから」


 私は紙に、金額未確定ではなく『請求の意思未確認・支払額に含めず』と記した。


「ないことにしちゃう?」


「しない。この札は別に保管する。記録に残す方法を本人に相談しよう」


 ネリは机に肘をついた。


「働いても請求書を書かなければ、お礼も言われないのは変な話だよね」


「請求書を書いた人まで、お金を待っているんだけどね」


「そっか。順番を間違えちゃいけないか」


 私たちは残りの三枚の青札を確かめた。最初の五十九枚と番号がつながり、輸送簿の受領欄とも合う。六十二枚全部を二人で読み直すころ、窓の外の灯が一つずつ消えていた。


 日付が変わる直前、長官の執務室へ集計を届けた。


「遅いな、ヴァレル」


「式典前には間に合いました」


「それはまだ明日だ」


 長官は書類をめくった。九十枚の受領票、組合の訂正署名、橋と医療の証拠、青札六十二枚の照合表。そこには、昨日の赤字『要・裏付け』の横に新しい余白がある。


「九十枚、引けたのか」


「軍が既に払っていました。組合の代表者と使途を確認しています」


「で、千四百二十枚。前線供給費だけでは足りんな」


「守備隊の臨時軍糧費から四百八十枚の転用を申請します。残額は六十枚。守備隊と市参事会の承認が必要です」


「明朝、軍司令官と参事会代表を呼ぼう。国王の決裁も要る」


 長官は書類の端を揃えた。


「一つ聞く。この束に綴(と)じていない青札は何だ?」


「橋で灯を守った人の仕事です。支払いの請求は確認できていません。千四百二十枚には含めていません」


「金額のないものを金庫から払うことはできんぞ」


「分かっています。ですが、記録を捨てる理由にもなりません」


 長官は青札を見つめた。返されると思っていたが、彼はそっと私の集計表の隣に置いた。


「それは君が預かりなさい。今夜はもう帰れ」


「でも、明朝の説明用に――」


「寝不足の会計係に足し算をさせたくない。命令だ」


 執務室を出ると、廊下でネリが私の鞄(かばん)を持って待っていた。


「お父さんのお店、明日は開いてる?」


「朝から靴を直してると思う」


「帰りに寄って、新しい靴底を頼みなよ。あなた、今日ずっと走ってたじゃない」


 私は自分の靴を見た。右の踵(かかと)が、いつの間にか少し剥がれている。


「そうする。支払いはその場でするわ」


「お父さんなら、娘の分は帳簿につけるって言いそう」


「それなら、明日払うって書いてもらう」


 ネリは笑った。私もようやく少し笑えた。


*


 式典当日の朝、私は磨かれた靴で会議室に入った。


 軍司令官ホルツは軍服の上着を椅子に掛け、開口一番に言った。


「四百八十枚も軍糧費から出すのか。守備隊は冬の前だぞ」


「使い残しは五百四十枚あります。六十枚は守備隊へ残します」


「その六十枚では足りなくなるかもしれん」


「それはあり得ます。だから次の補給計画も確認したいんです」


 私は西門守備隊の来月の配給計画を広げた。冬の備蓄は既に別予算で確保されている。臨時軍糧費は、戦時に増員した兵のための枠だ。討伐隊は帰還して、増員は解除された。


「移す四百八十枚は、守備隊が今後使う予定のない部分です。ただし六十枚を残したまま、次の臨時出動があれば不足する可能性は報告します」


 市参事会の代表ナーヴァ夫人が、指先で机を叩いた。


「それで今回を認めたら、また誰かが『戦時だから』と青札を持ってくるでしょう。毎回この騒ぎをするの?」


「今の仕組みでは、そうなるかもしれません」


「正直ね。だったら改善策は?」


 私は封筒から新しい様式の案を出した。


「現場で渡す青札を、同じ番号の二枚一組にします。届けた人と受け取った隊が一枚ずつ持ち、数量と受領者を同時に記録する。戦場から戻ったあとで、片方を失くしても照らし合わせられます」


「それだけで不正はなくならないでしょう」


「なくなりません。だから監督官の確認と、後日の支払審査は残します。今回も、実際に払われた九十枚をそこから見つけました」


 ナーヴァ夫人は二枚の見本を重ね、窓の光に透かした。番号がぴたりと合う。


「持ち帰って検討します。今日の四百八十枚については、私は賛成するわ」


 ホルツ司令官は腕を組んだまま黙っていたが、やがて太い筆を取った。


「現場の者が立て替えた金を、そのままにしておくわけにはいかん。軍として承認する。ただし残額六十枚は帳面に明記しろ」


「はい」


 財務長官も署名し、三人分の印が揃った。私は息をつく間もなく、書類を抱え直した。


「次は陛下の決裁です」


「式の直前だぞ」と司令官が言う。


「ですから、急ぎます」


 扉に向かったところで、長官が私を呼んだ。


「ヴァレル。昨日の赤字は覚えているか」


「『要・裏付け』です」


「今日の分には書かん。誰に払う金か、説明できるようになったからな」


 その一言で、書類の重みが少し変わった。


*


 国王は式典用の長い外套(がいとう)を着せられている最中だった。


「今度は何だ、財務の者か」


「第三支払係のエマ・ヴァレルです。緊急の転用申請にご決裁をお願いしたく」


「報奨金の件なら、とうに署名したはずだ」


「そちらは変更ありません。討伐隊が使用した橋と、医療と、運送の代金です」


 王は侍従(じじゅう)に外套を押さえさせ、三人の署名を確かめた。


「千四百二十枚か。報奨金より多いのだな」


「働いた人が多く、材料も必要でしたから」


「この金を、誰のために払う?」


「最初に約束した相手へ、遅れてしまった代金を払うためです。戦いが終わっても、彼らの日々の仕事は終わりません」


 王は筆を取った。侍従が袖を慌ててまくり、私は押さえる側へ回った。


「予算の移し替えは認めよう。だが、それで終わりとは思うな。実際に払った証拠を、一週間後に見せよ」


「はい。受領記録を揃えます」


「それと、式の進行を少し変えたい」


「変更、ですか?」


「勇者に何を渡したかは皆が見る。なら、その旅を支えた者に何を返すかも、皆に知らせよう」


 私は国王の顔を見た。


「勇者様の演説の後に、支払状況を説明させていただけますか」


「許す。ただし、数字は間違えるなよ」


「それだけは、何度も確かめました」


*


 王都の大広場には、午前のうちから人が集まっていた。


 赤と金の旗が揺れ、楽隊が行進曲を繰り返している。飾り花の代金は支払済み。私が最初に確認した仕事だ。


 台の中央には、分厚い底板を付けた箱が据えられていた。蓋を開ければ金貨千枚。式典長は緊張した顔で、その蝶番(ちょうつがい)を指で撫(な)でている。


「ヴァレル君! 箱は大丈夫だろうね」


「金貨を入れた状態で試しました。台も補強済みです」


「よし。それより君、式の途中で話すんだって?」


「短く済ませます」


「短くしてくれ。行進曲を一曲減らしたんだ」


 私は懐から集計表を出し、数字を読み直した。千四百二十枚。前線供給費九百四十枚。守備隊から四百八十枚。残額六十枚。


 何度読んでも同じだ。


 人波の端に、見覚えのある顔があった。アダとトム、少し離れてミロ親方。軍病院のオデットは仕事着の上に外套を羽織り、職人たちに何か話している。


 アダが私を見つけて手を振った。私は小さく頭を下げた。向こうも、今度は笑ってくれた。


 やがて鐘が鳴り、楽隊が止まった。


 国王が戦いの終結を告げ、勇者ディオンが台へ上がる。大きな歓声が上がった。ディオンは深々と頭を下げたあと、千枚の金貨を収めた箱の前に立った。


「立派な箱ですね」


 最初の言葉がそれだったので、式典長が顔をほころばせる。


「底板を厚くしてもらったんです。運ぶ人が困らないように」


 笑い声が広がった。ディオンは剣を抜かず、鞘の赤いひもを指で持ち上げた。


「これは、リューン谷の橋で、石工の親方にもらいました。一本は出発するとき。もう一本は、帰りの分です」


 ざわめきが少し静まる。


「魔王との戦いを聞きたい人が多いでしょう。でも、俺が覚えているのは、夜明け前に届いた薬と、崩れそうな橋を直していた人たちの顔です」


 彼は一度言葉を切り、群衆の向こうを見た。


「帰りには、戦えなくなった仲間もいました。石工の親方は、来るときより幅を広げた橋で俺たちを迎えてくれた。あの橋がなければ、俺がここに立っていても、帰ってこられなかった人がいます」


 ミロ親方は首をすくめ、弟子に肩を突かれて前を向いた。


「水と食糧を運んでくれた人、傷を手当てしてくれた人、馬と一緒に谷を走ってくれた人。みんなに礼を言いたいです」


 広場に拍手が起きた。剣を掲げる代わりに、ディオンは赤いひもの結び目をもう一度見た。


 それで終われば、きっと美しい式典だった。


 しかし私の仕事は、まだ終わっていない。


 国王に呼ばれて台へ進むと、歓声とは別の汗が背中を伝った。金貨千枚の箱より、人の顔のほうがずっと多い。


「王国会計院、第三支払係のエマ・ヴァレルです」


 私は集計表を開いた。


「討伐隊を支えた物資と作業のうち、未払いだった請求を調べました。橋の工事代は六百十八枚、医療と搬送は四百六十二枚、荷運びの代金は三百四十枚。合計、金貨千四百二十枚です」


 遠くの誰かが声を上げた。


「払うのか!」


「はい。支払命令の決裁が下りました。前線供給費から九百四十枚、未使用の臨時軍糧費から四百八十枚を充てます。確認した方から、順次受領の手続きを進めます」


 数字を読み終えても、拍手はすぐに起こらなかった。


 その静けさに、私は少し安心した。支払うと決まっただけで、まだ一枚も本人の手へ渡していないのだから。


「ただし、一つ、額のない記録が残っています」


 手帳に挟んでいた青札を取り出した。


「『橋の灯、二晩』。夜の橋を見守り、渡る車を数えてくれた方の仕事です。お名前と、記録に残してよいかを、まだ確認できていません」


 人波の向こうで、女性が手を上げた。


「あたしのことかい?」


 宿屋の女将ベルナだった。誰かに前へ押され、困った顔で台の下へ来る。


「そうだと思います。お名前を記録してもよろしいでしょうか」


「ベルナでいいよ。宿の名前も書いておくれ。あの橋が通れなきゃ、うちへ客も来られないんだから」


 彼女は照れたように笑った。


「けど、灯を出したのはあたしだけじゃない。向かいの家のマイロも手伝った。あの子の名前は、勝手に書いちゃいけないよ。親御さんに聞いておくれ」


「分かりました。確かめてから記します」


 ベルナは大きく頷(うなず)いた。


「金はいらないよ。橋の向こうから人が戻ってくるか、見ていたかっただけなんだ」


 私は青札を折らずに手帳へ戻した。請求のない仕事へ勝手に値段を付けることはできない。でも、本人が望むなら、何をしてくれたかを書き残せる。


 台を降りるとき、ミロ親方が声を掛けた。


「うちの若いのの名前も、ちゃんと控えてくれよ!」


「名簿にあります。後でご本人にも確認します」


「なら、よし!」


 今度は拍手が起きた。何人かが「橋を直した人にも礼を」と叫んだ。私は恥ずかしくなって、書類を抱えたまま台の陰へ隠れた。


 そこへディオンが来た。


「いい演説だったね」


「勇者様のあとに額を読み上げるのは、心臓に悪いです」


「その数字が何の仕事か分かって、俺は嬉しかったよ」


「でも、まだ支払いは終わっていません」


「それじゃ、これからが本番か」


「はい。私のほうは、今からです」


 彼は金貨箱を指した。


「この箱、誰か一緒に運んでくれるかな」


「手配してあります。二人では腰を痛めますから、四人で運んでください」


「分かった。ありがとう、エマさん」


 勇者は素直に係員を呼びに行った。彼が世界を救ったのは間違いない。だからこそ、彼に箱の運搬まで任せてはいけないと思う。


*


 式典が終わっても、第三支払係には人が列を作った。


 名簿と領収書を照合し、支払先を確認する。本人が受け取れない場合は、委任の記録を用意する。ネリは窓口の隣で、名前を読み上げる順番を整理していた。


「エマ、最初の方」


 窓口へ来たのはアダだった。トムを後ろに従え、昨日補強した請求書を差し出す。


「荷運び組合、三百四十枚。これでいいね」


「はい。軍の前払九十枚は差し引き済みです。こちらの内訳と受領額を、もう一度確認してください」


 アダは数字を一行ずつ追い、トムにも見せた。二人で頷いてから、代表者として署名する。


 金貨が数えられ、袋へ入れられた。三百四十枚。アダはそれをすぐに抱えず、私の目を見た。


「昨日は腹が立ったよ」


「はい」


「でも、あんたが確かめなきゃ、トムは黙ったままだったかもしれない。九十枚の行方も、皆で話せなかった」


「だからといって、人前で疑っていい理由にはなりません」


「分かってるならいいさ」


 アダは袋を受け取り、重さを確かめた。


「これで冬の飼い葉を買える。こいつにも、次は黙るなって言っておく」


「もう黙りません」とトムが答えた。


 二人が出ていくと、ネリが小声で言った。


「エマ、笑っていいんだよ」


「まだ二件残ってるもの」


「だからって、ずっと怖い顔してたら、次の人が帰っちゃう」


 私は深呼吸し、受領簿の一行目に支払済みの印を押した。


 父が代金を一か月待たされたとき、金額よりも、自分の仕事が忘れられていなかったことが嬉しかったと話していた。昨日まで、その言葉を帳簿の外側から聞いていた気がする。


 今は少しだけ分かる。支払う相手の顔も、ここに書かれた数字の一部なのだ。


 窓口の向こうに、次の客が待っていた。土の付いた帽子を胸に抱えた、石工の若い職人だった。


 外では、勇者を祝う鐘がまだ鳴っている。


 その音を聞きながら、私は新しい受領書を取り、顔を上げた。


「次の方、どうぞ」

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