カッコウが導く沼のほとりで
いま食べてんの人間のどの部分?茶化すように言ったらゲンコツをもらった。食べてるときに言うなと怒鳴られ、そんなら早いとこ食べてくれ、そしたら言ってもよかろうと気味悪く引き笑いをまじえて返したら今度は頬をひっぱたかれた。どうにも手の早い男でまいってしまうが自分の親だ、あきらめるしかない。
またひとり沼に落ちたと佐伯さんが来たとたん言った。「手伝ったほうがいいだろうかねえ」母が聞くと、
「いいや任せてしまったほうがいい」
佐伯さんは決めつけ、さっさと父と酒をやりはじめた。どうにもこの町の青年団は怠け者が多い。威勢だってたいしてよくない。法被姿が似合わなくてどの男の元にも嫁に行く気になんてなれない。臆病者たちの集まりは、でもここ数年、事故をひとつも起こしていない。死んだ者だってひとりも。
あくる日、人が落ちたという沼に行ってみた。映画などであれば足跡のいくつかがあるのだろうが、ぐるっとみてまわったけどどこにも落ちていない。死体は上がっていないと朝、母は言っていた。死んだと決めつけてることに腑に落ちず、でも生きてるとも思えない。死体が上がってこないのは水底の草が足を取ってるからだろう、確かめることができないけれど。姿はみえなくて、でもカッコウが自分の名を辺りに響かせ、それがやけに人の死の匂いを薄く和らげる。いくら鳴いたところで事実までは曲げられない。沼から戻っても、鳴いていたカッコウの声は、耳の奥にいつまでも残っていた。
沼のほとりで鳴いていたカッコウの声が今日はやけに大きい。開け閉めに手間取るようになった窓をそっと開けてみるとベランダの手摺にカッコウらしき鳥の姿があった。鳴く声の印象が強すぎて実際のシルエットよりいくぶんずんぐりにも思えるその姿に、みてはいけないものをみた気になって静かに窓を閉めた。カッコウが鳴いて、逃げていかなかったことに安堵した。
放課後はいつも騒々しい。
「プロット書かないとダメだよ」
ニヤつきながら言う文芸部の先輩はでも、プロットを書くことばかりに精を出す。いまだに完成させた原稿がなく、それはその先輩のこれから先の人生のようでもある。馬鹿にされた先輩はパソコンの画面に思いを打ち込む。
オマエらマメんじゃねえぞ
打ち間違えがやはりその先輩の歩んでいく将来にも思え滑稽で、そこから私たち後輩は「マメ先輩」と裏で呼ぶようになった。
ここ数日、雨が続いてる。沼には近づくなとホームルームはもちろん、授業で先生がかわるがわる言ってくる。近づきたくても沼に行くまでの道が水の下になってるはずで、そうまでして行くような用もなく、行くような場所でもない。
「死ぬって、どんなだろうね」
「え? 死にたいの?」
「そうじゃないけど…」
「興味?」
「あっ、そうそう、興味興味。たんなるね」
「ふうん」
この子は、この雨がやんだら学校に来ない気がする。理由は、これといってないけれど。
佐伯さんは今日も来て父と酒を飲んでいる。佐伯さんがこの家に来る理由を私は知ってる。父は佐伯さんとの会話に飽きたのかテレビで野球をみはじめた。それを合図にか、母が台所から居間に来て佐伯さんの相手をはじめる。佐伯さんが、佐伯さんの目が、ちょっとヘンだ。いけない目だ。いけない目で母をみてる。母は佐伯さんのその目をじっとみかえす。同じくらいにいけない目で。私は自分の部屋に行く。さっさと階段を上がっていく。汚染から身を逃がすようにすばやく、すり抜けて、あざやかに。すぐ自分の部屋、引っ込んじゃって、なんて言われない。むしろ早いとこ行ってくれないかって思われてる。あの目が、私に向いてこないことがせめてもの救いだ。
梅雨の寒さって嫌いだねえ。蒸し暑くってやんなっちゃう。表面上ひとまず取り繕ってクラスの子たちには合わせて言うけどそんな生ぬるいのじゃなくってもっと高尚な嫌悪。ほらね、やっぱりあの子、学校来なくなっちゃったでしょ。
「ああ、ちょうどよかった」
何がちょうどなのかこっちがわからずとも先生にはわかってるみたい。
「帰りにこれ、届けてやってくれんか」
何枚かのプリントをよこしてくる。なんで?心のなかで思う。なんで?私に頼むことへの疑問じゃない。なんで?あの子… まだ… 生きてるの?っていう疑問。
「頼むなあ」
のんきに言われる、背中で。先生と呼ばれてる生きものは、背中でものを言うのが上手い人たちの集まりだ。きっとそういう人がなっていく職業なんだ。
帰り、あの沼に行く。沼のほとりで辺りをみまわす。カバンを開けて先生からあずかったプリントを、みいんな沼に沈めていく。
「きちんと届けたからねえ」
沼からは、返事は聞かれない。姿はみえない。でもカッコウの声は、遠く響く―




