第6話 一人と三万人
冬薔薇が枯れた朝の、土の匂いを私は知っている。三十年前、妻を葬った日と同じ匂いだった。
【判断】フローラが七歳の時、私は「精霊の話は二度とするな」と言った。
【結果】精霊がローゼンベルク領から去った。領地全域の冬薔薇が一斉に枯れた。
この話は、判断と結果でできている。私の判断と、その結果。並べてみれば簡単な因果だ。なぜ当時の私にそれが見えなかったのか。見えていたら。
見えていても同じ判断をしただろう。それが問題なのだ。
◇
【判断】フローラが三歳の時、庭で花と話していた。妻が「ごっこ遊びね」と笑った。五歳になっても続いた。七歳の時、妻が病で亡くなった。葬儀の日、フローラは庭の冬薔薇の前で何かに話しかけていた。「お花の精霊さんが、お母さまのところへ行きたいって」。
私は怖かった。精霊と話す子ども。五十年前の精霊戦争の記憶が生々しい時代だ。公爵家の長女が精霊と話すなど、家の恥。
だから止めた。フローラは父の前では二度と精霊の話をしなかった。やめたのではない。隠しただけだ。父に言っても聞いてもらえないと学んだ七歳の子どもが、黙って精霊との関係を続けた。
【結果】フローラの沈黙が始まった。以来十五年、あの子は誰にも本当のことを話さなくなった。処刑の法廷で弁明しなかったのも、たぶんこの沈黙の延長だ。声を上げても聞いてもらえない。七歳で学んだことを、二十二歳で証明された。
◇
【判断】処刑が決まった時。王太子殿下から書簡が届いた。「フローラ・ローゼンベルクを処刑する。ローゼンベルク家に連座は及ぼさないが、公爵の態度次第である」。
つまり、「娘を切り捨てれば、家は見逃してやる」。
家臣を集めた。天秤に載せた。三万人の領民。五千の家臣。二百年の家の歴史。片方に、フローラ一人。
勘当を選んだ。面会も拒否した。フローラが獄中から手紙をよこしたと後から知った。侍従が「お嬢様から」と持ってきた封書を、私は開けずに返させた。封蝋に冬薔薇の紋章があったと、侍従は言った。あの子は獄中でも、ローゼンベルクの娘だったのだ。
一人の娘を切って三万人を守る。正しい判断だ。数の問題だ。一と三万なら三万を選ぶ。選ばない領主は領主失格だ。
だが、その「一」が自分の娘だった時に。七歳で花と話していた、あの子だった時に。同じことを言えるか。言える。言えなければならない。言えた。言えたから、勘当した。面会を拒否した。手紙を返した。
正しい判断だ。正しい判断のはずだ。
【結果】半年で領地の収穫高が三割落ちた。精霊の加護が消えた土地は、種を蒔いても根が張らない。水脈が濁り始めた。井戸の水が鉄の味になった。来年はさらに落ちるだろう。二十年かけて三倍にした収穫が、半年で崩れようとしている。
先週、古参の農夫が領主館を訪ねてきた。麦藁帽子を胸に抱えて、泥だらけの膝を折った。「お嬢様は、わしらの畑にもよう来てくださいました。精霊さんと一緒に。あの方が歩いた畝は、翌年ようけ実ったんです」。
私は何も答えられなかった。唇を動かしたが、声が出なかった。
家臣のヴァルターが報告に来た。
「殿、冬麦の作付けですが、三割減です。土が痩せて、種が根を張りません」
「……そうか」
「殿。領民の間で噂が広がっております。『フローラ様がいれば』と」
フローラ様がいれば。フローラ様がいれば。
守ったはずの三万人が、切り捨てた一人の名前を呼んでいる。
◇
【判断】三十年前のグレイシア侯爵家の前例があった。当主が王家に逆らい、一族郎党が流罪になった。領民は散り散りになり、領地は荒廃し、復興に二十年かかった。あの二の舞を避けるために、私はフローラを切った。
【結果】守ったはずの「家」が、娘を切ったことで傾いている。精霊が去り、作物が枯れ、経済が揺らいでいる。因果応報という言葉は嫌いだ。弱者の慰めだ。だが今は他に何と呼べばいい。
私が天秤に載せた「三万人」は、フローラに支えられていた三万人だった。フローラを取り除けば、三万人の足元も崩れる。天秤の両方に、フローラが載っていたのだ。
あの判断は正しかったのか。
今でもわからない。三万人を守るために一人を切った。領主としては正しい。父親としては間違っている。正しくて間違っている判断を、私は下した。両方が同時に成り立つ。だから苦しい。どちらか片方なら楽だった。完全に正しいか、完全に間違っているか。
人間の判断は、そんなに綺麗に割り切れない。私は二十年間、領地経営で数字を扱ってきた。数字なら割り切れる。三万割る一は三万だ。だが三万人と一人の娘は、割り算にはならない。
【判断】私は手紙を返した。娘の最後の手紙を、読まずに。
【結果】何が書いてあったのかは永遠にわからない。あの手紙は宰相府に回収され、行方が知れない。読めばよかった。少なくとも読むだけなら、三万人に影響はなかった。読まなかったのは、領主の判断ではない。怖かっただけだ。娘の言葉が怖かった。
◇
夕刻。領主館の書斎で一人になった。
窓の外に中庭の冬薔薇が見える。全部枯れたと思っていたが、一輪だけ残っている。フローラの旧部屋の窓辺。
お前の名誉は守ってやった。ローゼンベルクの名を汚さぬよう、勘当という形を取った。公爵家の恥にはならない。
誇りは知らん。お前の誇りを、私は守れなかった。精霊と話すことを。薬草を育てることを。北方の言葉を学ぶことを。そのすべてを否定したのは、七歳のお前に「二度とするな」と言った、この私だ。あの日が始まりだった。十五年前のあの日から、今日まで、一直線に繋がっている。
妻に似た顔を、二度見殺しにした。妻の時は病だった。どれだけ金をかけても薬師を呼んでも勝てなかった。今回は違う。手を伸ばせば届いた。伸ばさなかった。
フローラ、と口の中で呟いた。半年ぶりだ。この名前を声に乗せるのは。花の名前。妻がつけた名前。あの子が生まれた日にも、同じように口の中で転がした。
唇が震えた。声にならない。首の後ろの産毛が一本一本、逆立っていた。
窓の下で、最後の冬薔薇が風に揺れている。白い花弁が一枚、剥がれて飛んだ。行き先も知らずに。あの子もそうだったのだろうか。父に切り捨てられ、行き先も知らないまま。




