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悪役令嬢の処刑を見届けた七人が、一人ずつ壊れていく話  作者: 秋月 もみじ


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第5話 手帳


 あたしは、フローラ様を売りました。銀貨三十枚じゃないですよ。脅されたんです。


 ——林檎のコンポート。干し林檎を蜂蜜で煮たやつ。フローラ様が作ってくれた。甘すぎるって言った。次の日から砂糖を減らしてくれた。味見して、「これでどうですか」って聞いてくれた。


 あたし、お礼言いましたっけ。


 ◇


 順番に話す。あたしの名前はマリー。フローラ様の侍女だった。三年間、毎日あの人の傍にいた。朝起きて、着替えを手伝って、髪を梳いて。あの人の生活の、一番近くにいた人間。だからこそ、手帳がどこにあるか知っていた。


 王太子派の侍従官が来たのは、裁判の三日前だ。廊下で呼び止められた。背の高い男で、名前は覚えていない。覚えたくもない。


「フローラ嬢の所持品に、手帳があるはずだ」


 あたしは首を横に振った。知りません、と。嘘だった。フローラ様が毎晩、寝る前に何かを書き込んでいたのは知っていた。時々あたしに見えないように背を丸めて、でも隠しているつもりもなさそうに。「日記ですか」と聞いたら、「日記……のようなものですね」と曖昧に笑った。


「お前の家族のことは調べてある。妹が二人、東街区のパン屋で働いているな。お前がフローラの共犯と見なされれば、家族にも累が及ぶ」


 それだけだった。

 それだけで、あたしの手は動いた。脅された。守りたいものがあった。妹二人。あたしにとって世界のすべてだ。フローラ様と妹、どっちを取るかなんて聞かれたら——あたしは妹を取る。取った。取ってしまった。


 ——フローラ様の爪は、いつも少し黒かった。土が入り込んでいて。「お手を洗いましょう」って言うと、「ああ、そうですね」って恥ずかしそうに笑う。あの笑い方。公爵令嬢なのに気取ったところがない。


 その夜、フローラ様が薬草園に出かけた隙に、私室に忍び込んだ。衣装棚の二段目、冬物のショールの間に挟まれていた手帳。革表紙の、掌に収まるくらいの小さなもの。角が擦れていて、何度も持ち歩いた跡がわかる。

 渡した。渡す時、手帳の角があたしの親指に引っかかって、小さく切れた。血が一滴、革表紙に落ちた。傷はとっくに塞がっているのに、いまだに右手の親指が疼く。


 ◇


 五ヶ月経って、手帳の中身がわかった。


 第一部。薬草の調合記録。殿下が幼少期に患った呪い病の進行を抑える処方。あの朝の茶は、ただの健康茶じゃなかった。

 第二部。北方ヴィンテル王国との暗号体系と、フローラ様が個人的に結んだ密約の草案。北方が南部への侵攻を控える代わりに、交易路を優先整備するという内容。

 第三部。精霊契約の維持手順。加護の範囲。王宮全体の治癒魔法効率に影響していたこと。


 手帳の冒頭に、フローラ様の手書きの序文があった。


「もし私がいなくなった後のために、必要な情報をここに記します」


 あたしの膝の力が抜けた。壁に手をついた。手帳を握った指の腹が、あの日の革表紙の感触を思い出して、ぶるっと震えた。最初に来たのは吐き気だ。胃の底から何かが押し上げてきて、口を押さえた。

 嘘だ。嘘。嘘でしょう。だってあたし。あたしは。知らなかった。こんなものだとは。


 フローラ様は知っていた。自分がいなくなる可能性を。だから引き継ぎ書を作っていた。あたしが渡したあの手帳は、王国を守るための記録だった。

 あの序文を読んだ時、あたしの頭の中でぐちゃぐちゃに色んなことが混ざった。フローラ様が毎晩ペンを走らせていた姿。あたしに背を向けて、蝋燭の明かりの下で。何を書いているんだろうと思っていた。日記だと思っていた。恋文かもしれないと思ったこともある。

 違った。あの人は毎晩、自分がいなくなった後の世界の設計図を書いていた。誰に頼まれたわけでもなく。誰に感謝されるわけでもなく。


 ◇


 フローラ様のことを、思い出す。記憶が勝手に溢れてくる。順番もなく。


 ——フローラ様は薬草園にいる時だけ笑っていた。護衛の騎士がいる時だけ。レオナルド様。寡黙な人で、あたしに話しかけることはほとんどなかった。でも薬草園での空気が違った。護衛の時はいつも三歩後ろなのに、薬草園では二歩になる。水やりの時は、背後じゃなくて隣にいた。


 フローラ様が北方語の練習をしている時、レオナルド様が横で黙って聞いていた。発音を間違えて、三回言い直して、四回目に自分で笑い出した。レオナルド様の口元がほんの少し動いた。あの鉄面皮の騎士が。


 あの二人の間にあったものの名前を、あたしは知ってる。

 でもフローラ様は知らなかったと思う。自分が誰かに愛されていることに、びっくりするほど鈍い人だったから。マントを椅子にかけて黙って去っていくレオナルド様を見て、「風で飛んできたのかしら」と本気で首を傾げていた。あれは、あの騎士の精一杯だったのに。


 ◇


 手帳には、もう一つ問題がある。

 最後のページが破られている。あたしが破った。渡す前に。


 七人の名前が書いてあった。殿下、聖女様、宰相閣下、旦那様、神官長猊下、レオナルド様。そしてあたしの名前。一人一人に宛てた短い言葉。


 あたしは自分宛の一文を読んで、そのページを破り取った。何が書いてあったかは、まだ言えない。言ったらあたしはここで壊れる。もう半分壊れてるけど。


 ——フローラ様。あのコンポート。あたしが「もうちょっと砂糖控えめの方が好みです」って言ったら、次の日から減らしてくれた。味見して、「これでどうですか」って。


 あたし、お礼言ってない。

 言ってない。


 あたしが渡したんだ。あの手帳を。あの人が、いなくなった後の王国のために、たった一人で書き残していた手帳を。脅されたから? そうだ。脅されたから渡した。妹を守るためだった。


 でも——でも、フローラ様だって、あたしの妹のパン屋の話を楽しそうに聞いてくれたじゃないか。「今度お取り寄せしてもいいですか」って言ってたじゃないか。妹が焼いた黒パンを持ってきた時、「マリーの妹さんは才能がありますね」って言った。嬉しそうに。本当に嬉しそうに。あの人にとっても、あたしの妹は。


 だめだ。考えるな。考えたら壊れる。もう壊れてるけど。もう。

 指が震えている。右手の親指。あの日、手帳の角で切れた指。傷はないのに、まだ疼いている。ずっと。ずっと疼いている。

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