第4話 帳簿に載らぬ項目
項目一。処刑に伴う人員補填の件。
フローラ・ローゼンベルク嬢の処刑後、以下の業務に欠員が生じた。
一、薬草園の管理。二、北方ヴィンテル王国との暗号通信。三、王太子殿下の薬草茶の調合。
いずれも正式な官職ではなく、予算も割かれていない。王太子の婚約者という立場に付随する「ついでの仕事」として処理されていた。帳簿に載っていなかった。
老生は四十年間、国家を帳簿として運営してきた。収入と支出。利益と損失。功績と罪科。すべては数字に還元でき、数字に還元できぬものは存在しないに等しい。
帳簿に載らぬ項目があることを、老生はこの四ヶ月で知った。
項目二。暗号書簡未解読の件。
処刑から四ヶ月。執務室の卓に、未解読の暗号書簡が七通積まれている。銀木犀の封蝋。すべてフローラ嬢宛。外務卿が連れてきた北方語の学者は三人とも匙を投げ、暗号解読の専門家は「体系が独自すぎて基盤がわからない」と報告してきた。
フローラ嬢が構築した暗号の記録は、手帳にあったはずだ。あの手帳は裁判の証拠として押収され、その後の所在は老生にもわからない。
老生はフローラ嬢の通訳室を訪ねたことがある。一度だけ。
北の塔の三階。狭い小部屋だった。窓が一つ。壁に沿って棚が並び、北方語の辞書と羊皮紙の束が几帳面に積まれていた。鉄製の古いインク壺が三つ、中身がこびりついて黒ずんでいた。インクと、乾いた羊皮紙と、それから薬草の匂い。窓辺に鉢植えが一つ。
あの部屋に辿り着くまでに、フローラ嬢は二度道を間違えた。自分の仕事部屋に行くのにだ。北の塔の階段を上がって右に曲がるところを左に曲がり、行き止まりの倉庫の前で「あら」と首を傾げていた。老生が「こちらです」と声をかけると、少し頬を染めて「すみません、いつも迷うんです」と笑った。悪びれない顔だった。自分の欠点を隠す気がない。
北方語の暗号を自在に操る頭脳と、自分の仕事場に辿り着けない方向感覚。帳簿では説明のつかない人間だった。
用件は条約更新の翻訳確認だった。フローラ嬢は辞書を三冊広げ、条文のニュアンスの差を指摘した。
「この語は北方の宮廷では”約束”ですが、辺境伯領では”誓い”に近くなります。使い分けないと、辺境伯が過大な義務を読み取る恐れがあります」
三十年の外交経験を持つ老生が気づかなかった語義の差を、この若い令嬢があっさりと。舌を巻くとはこのことだ。老生は通訳室を出る時、振り返ってフローラ嬢を見た。もう辞書に没頭していた。羊皮紙にペンを走らせながら、口元で何かを呟いている。北方語の発音練習だろう。巻き舌がうまくいかないらしく、同じ音を何度も繰り返していた。
帰り際に辞書の余白が目に入った。花の名前が書き込まれている。銀木犀——シルバモンド。冬薔薇——ヴィンターローゼ。フローラ嬢の筆跡とは違う、角張った字で「シルバモンド」と添えてあった。護衛の騎士の字だろうか。条約翻訳に花の名前は不要だ。当時は気にも留めなかった。
今思えば、あの通訳室にはフローラ嬢の人生の断片が詰まっていた。辞書も、インク壺も、窓辺の鉢植えも、余白の花の名前も。老生はそのどれにも、帳簿上の価値を見出さなかった。
項目三。処刑判断の費用対効果。
老生がフローラ嬢の処刑に賛同した理由は明快だ。政治的コストの計算である。精霊契約の嫌疑をかけられた王太子の婚約者を放置すれば、王家の権威が傷つく。神官長の鑑定は「禁術」。聖女の証言は「密談」。宰相の職務として、裁くのが合理的だ。南部の平定直後で、殿下の求心力を損なうわけにはいかなかった。
フローラ嬢一人の命と、国家の安定。天秤は明らかだった。
——そう計算した。三十年間、一度も計算を間違えたことはなかった。
老生の見積もり:処刑コスト=公爵家の不満+社交界の噂数ヶ月分。
実際のコスト:北方同盟の崩壊+精霊加護の消失+王太子の健康悪化+薬草供給の断絶。
桁が四つ違う。間違えなかったのではない。帳簿に載せるべき項目を、そもそも認識していなかったのだ。
「ついでの仕事」が国を支えていた。フローラ嬢には官職がなかった。予算もなかった。給与も支払われていなかった。王太子の婚約者という肩書きに付随する無償の労働。それが国家の屋台骨だったとは、帳簿のどの欄にも書かれていなかった。
項目四。北方からの通告。
今朝、正規の外交書簡で北方から通告が届いた。
「同盟の見直しを検討する。貴国との外交窓口の再設定を求める」
翻訳すれば、こうだ。「窓口が機能していない。このままでは同盟を維持できない」。
老生は書簡を卓に置いた。指先に力が入らない。唇の端が勝手に下がった。顔の筋肉が、老生の意思とは無関係に動いている。
三十年だ。三十年かけて老生が築いた北方との関係が、わずか四ヶ月で崩れようとしている。五つの戦争を回避し、七つの条約を締結して維持してきた同盟が。
一人の令嬢の不在で。たった一人の。帳簿上は「欠員一名」。それだけのことだ。
若い頃、師匠に言われたことがある。「お前は数字で世界を見すぎる。帳簿に載らぬものを見落とすぞ」。あの老人は三十年前に亡くなった。あの老人もフローラ嬢のような人間だったのかもしれぬ。帳簿に載らないまま国を支えていた人間。
書簡の最後に、一文が添えてあった。
「なお、フローラ・ローゼンベルク殿の安否をお知らせいただきたい」
北方はまだ、フローラ嬢の死を知らない。
——ここから先を、帳簿の形式では書けない。
知らせなければならないのだ。老生の手で。「あなた方が信頼していた外交窓口を、我々は禁術使いとして処刑しました」と。北方がどう受け取るか。老生の三十年が、一通の書簡で終わるかもしれない。
その文面を、老生はまだ一字も書けずにいる。紙を広げ、ペンを取り、インクに浸し、紙の上に置く。そこで止まる。何度やっても同じだ。ペン先からインクが垂れて、紙に黒い染みが落ちる。三十年間、外交書簡を何百通と書いてきたこの手が。
四十年間、帳簿を信じてきた。数字は嘘をつかないと。
嘘をつかなかった。ただ、帳簿に載っていない項目は、最初から数字にもならなかった。
初めて、計算ができなかった。この損失をどの項目に記帳すればいいのか。
帳簿に、そんな欄はない。




