第3話 聖女の手には何もない
誰が水をやるんですか。
そう呟いた自分の声が、まだ耳に残っている。温室のガラスに反射して、二重に聞こえた。か細くて、情けなくて、聖女らしくない声だった。
ハインツが首を横に振った。老人の皺だらけの手が、枯れた月下草の鉢を撫でていた。答えられる者はいない。答えるべきだった者はもういない。
どうしてわたしがここにいるのか。話さなければならない。
◇
始まりは、殿下の一言だった。
「精霊の契約はフローラの禁術だと、お前が報告したんだろう」。薬草園を引き継ぎたいと申し出たわたしに、殿下はそう返した。声の温度が低かった。その通りだ。わたしが報告した。「密談」という言葉を選んだのは、わたしだ。
密談。あの人はただ、花に話しかけていただけかもしれないのに。
だから翌朝、温室に来た。せめて自分の目で確かめなければ、と思った。
足元で乾いた葉がぱりぱりと砕ける音。甘い匂いが鼻についた。腐っていく直前の、重たい甘さ。村にいた頃を思い出す。秋になると、刈り入れの終わった畑で蕪が腐って、風下にいると吐きそうになった。あの匂いと同じだ。どれだけ聖女の僧衣をまとっても、わたしの鼻は村娘のままらしい。
ガラスが乾いている。以前は内側にいつも露がかかっていて、指で文字が書けるくらいだったのに。棚の上の鉢は半分以上が空で、残ったものも茶色く縮んでいる。
一番奥の棚にしゃがんだ。フローラ様がいつも膝をついていた場所。土にまだ指の跡が残っている。細い指。
わたしも同じように膝をつく。僧衣の裾が泥で汚れた。村にいた頃は気にもしなかったのに、今はそれが少し気になる。三年で変わったものと、変わらないもの。
治癒魔法の光を月下草に注いだ。両手を添えて、聖女としての全力を込めて。手のひらから白い光が漏れ、茶色い茎を包む。以前なら、これで萎れた花くらいは蘇らせることができた。
月下草は反応しなかった。光はただ空気に溶けて消えた。
◇
精霊の加護がなければ、わたしの治癒魔法は普通の魔法と変わらない。
ここ一ヶ月、宮中で怪我人や病人の治療効率が落ちていた原因が、やっとわかった。フローラ様が薬草園を通じて維持していた精霊の加護が、わたしの治癒魔法にも恩恵を与えていたのだ。
あの人がいたから、わたしは「すごい聖女」でいられた。お膳立てされた舞台で踊っていた。舞台係がいなくなって初めて、自分の足元がどれほど危ういか知った。
笑えない冗談だ。
◇
話を遡る。五年前のことだ。
聖女に選ばれた日。村の広場で神官が名前を読み上げて、母が泣いて、妹たちが手を振った。馬車に乗せられて、生まれて初めて村を出た。街道の砂埃と馬の匂い。荷台に敷かれた藁が腰に刺さって、王都に着く頃にはお尻が痛かった。聖女の旅立ちにしては、みすぼらしい道中だった。
王都に着いて、最初に見たのがフローラ様だった。
回廊を歩いていた。護衛の騎士が一人ついていて、小さな鉢を両手で持っていた。土がこぼれないように、子どもを抱くみたいに大事そうに。わたしに気づくと微笑んで、「聖女様ですね、ようこそ」と言った。
あの笑顔を見て思ったのだ。この人は、何もしなくても、ここにいることを許されている。
わたしは十五歳から毎日祈りの修行をして、治癒魔法の試験を七回受けて、冬の水浴びも夏の断食も耐えて、やっと聖女に選ばれた。フローラ様は公爵家の娘として生まれ、王太子の婚約者として存在しているだけで、皆がひれ伏す。
不公平だと思った。
その感情に名前をつけるのに、三年かかった。嫉妬だ。正確に言えば、あの人が「何もしていない」ように見えたのはわたしの目が節穴だっただけだ。毎朝五時の水やり。暗号書簡の解読。薬草茶の調合。目の前でやっていた。わたしが見ようとしなかった。
フローラ様が「悪役令嬢」だと噂された時、わたしは否定しなかった。それだけ。否定しなかったことが加担だと気づいたのは、今だ。
◇
話を温室に戻す。
治癒魔法が効かないと認めた後、わたしはしばらく月下草の前に座っていた。膝が冷たい。石畳の冷えが僧衣越しに骨まで届く。
立ち上がろうとした時だった。
何かが光った。
一瞬。空気の粒が銀色に輝いて、消えた。
わたしは息を止めた。ハインツも見たらしい。老人の目が見開かれている。
「フローラ様」
ハインツが、わたしにではなく、光が消えた空間に呼びかけた。
「フローラ様、おいでですか」
沈黙。枯れた薬草の甘い匂いだけが漂っている。
わたしは手を伸ばした。何も掴めない。光は二度と現れなかった。
でも確かに、何かがいた。
精霊はわたしの名前には反応しなかった。フローラ様の名前にだけ、何かが応えた。わたしが三年かけて積み上げた聖女の名前よりも、処刑された令嬢の名前の方が、この温室では重い。
鼻の奥が、つん、とした。泣くのかと思った。違った。枯れた薬草の匂いが粘膜を刺しただけだ。でも目尻が熱い。
村の薬草売りの老婆に言われたことがある。五歳の時だ。「お前には緑の指がないね」。意味がわからなかった。
今ならわかる。緑の指。それは才能のことではなくて、たぶん、触れたものを生かす力のことだ。
わたしの手には何もない。
でも、空っぽの手でも水をやることはできる。
だから聞いた。自分の鼓膜の裏側が、じん、と熱くなるのがわかった。
誰が水をやるんですか。
答えは、もう出ていた。
◇
温室を出る時、振り返った。
ガラスの向こう、奥の棚の上で、枯れた月下草がほんの少しだけ揺れた気がした。風はない。温室の中は無風のはずだ。
気のせいかもしれない。でもわたしは、明日もここに来ると決めた。明後日も。その次の日も。
フローラ様は毎朝五時に来ていた。雨の日も、体調の優れない日も、一日も欠かさず。
わたしにそれができるかはわからない。わたしは聖女だけれど、フローラ様ではない。緑の指もない。精霊に好かれてもいない。治癒魔法すらまともに使えなくなった。
でも。
水をやることは、誰にでもできる。才能はいらない。特別な契約も、精霊の祝福も、公爵家の血筋もいらない。ただ毎朝起きて、ぬるま湯を用意して、土に注ぐ。それだけだ。
それだけのことを、フローラ様は毎日、三年間、たった一人で続けていた。誰にも気づかれず。誰にも褒められず。誰にも——わたしにすら——感謝されずに。
わたしにできるのは、その「それだけ」を引き継ぐことだ。
遅すぎる。わかっている。何もかも遅すぎる。
でも、水をやらなければ、枯れたものは永遠に枯れたままだ。




