第2話 正しかったはずの剣
私は正しいことをした。
二ヶ月前まではそう思っていた。いや、今もそう思っている。思っているはずだ。
フローラ・ローゼンベルクを処刑した判断に、瑕疵はない。
聖女リリアーナからの報告。「フローラ様が夜な夜な精霊と密談しています」。神官長オスカーの鑑定。「精霊契約は五十年前に禁じられた禁術です」。宰相バルドゥールの進言。「法に照らして裁くべきです、殿下」。
三者の見解が一致した。私は決断した。それだけだ。
王太子が迷えば国が揺らぐ。南部紛争の時にそう学んだ。三千の兵を率いて前線に出た時、部隊を分けるか集中させるかで一晩悩んだ。結果、一日の遅れが味方の砦を一つ失わせた。あの夜から、私は迷わないと決めた。
決断は早いほどいい。前線が崩れる前に手を打つ。退路を断ってから進む。それが指揮官というものだ。
だから、裁判は一週間で結審させた。
フローラは法廷で一言も弁明しなかった。
傍聴していた者は皆、同じ解釈をした。弁明しない、すなわち罪を認めた。私もそう理解した。合理的な判断だ。無実なら弁明するのが道理だろう。
ただ。今になって、一つだけ引っかかることがある。
法廷でのフローラの顔だ。私はよく覚えている。うつむいてはいなかった。真っ直ぐ前を見ていた。怯えてもいなかった。泣いてもいなかった。
諦めていた、と言うのが一番近い。
壇上の私を見上げて、静かに何かを見定めるように。
弁明しなかったのではなく、弁明しても聞いてもらえないと知っていたのではないか。
くだらん。死人の表情など、今さら分析しても何も変わらない。
それより気になるのは、あの裁判中、フローラと私がまともに会話を交わしたのは何度あったかということだ。
婚約期間は三年だった。公式の場での挨拶は数え切れないほどした。舞踏会で手を取って踊りもした。だが二人きりで何を話した? 具体的な会話が、一つも浮かばない。
フローラが何を好み、何を嫌い、何を考えていたのか。
私は婚約者の顔は知っていた。名前も知っていた。それだけだった。
◇
二ヶ月が経ち、問題が山積している。
まず茶だ。あの薬草茶がなくなってから、朝の倦怠感が日に日にひどくなる。侍従に命じて王都中の薬師を当たらせたが、フローラの配合を再現できる者はいなかった。
原料の薬草は温室で栽培していたが、精霊の加護がなくなった今、新しい株は育たない。残っている乾燥薬草の在庫は、あと二ヶ月分だそうだ。それが尽きたら——何も起きないかもしれないし、何かが起きるかもしれない。侍医は「体調不良の原因が特定できません」と首を傾げるだけだ。
まさか毎朝の茶が薬だったとは、侍医にも言えていない。言えるわけがない。「処刑した元婚約者が淹れていた茶が体に必要だった」など、冗談にもならない。
次に北方だ。先月届いた暗号書簡は、未だに解読できていない。外務卿が北方語の学者を三人連れてきたが、暗号体系が独自すぎて歯が立たないと言う。
フローラがどうやって解読していたのか、手がかりすらない。あの女は——フローラは、自分の仕事について一度も説明したことがなかった。
いや、違う。私が聞かなかったのだ。婚約者が毎日何をしているか、一度も尋ねなかった。政務と軍事で手一杯だった、と言えば聞こえはいいが、つまりは関心がなかったということだ。
そしてもう一つ。先日、護衛騎士のヴェルナーが異動願いを出してきた。
レオナルド・ヴェルナー。平民上がりの近衛騎士で、剣の腕は騎士団で三本の指に入る。フローラの護衛を任せていた男だ。処刑の後、報告書を一通出してきた。「護衛対象の消失につき、任務完了を報告いたします」。事務的な一文で、そこに何の感情も読めなかった——はずだが。
異動願いの理由欄には、こう書いてあった。
「辺境の任地を希望します」
それだけ。理由は空欄。
あの男、やけにフローラの弁護をしていた。裁判の前にも「もう少し調査の時間をいただけませんか」と進言してきた。却下した。当然だ。護衛騎士が判決に口を挟む権限はない。
却下した時のヴェルナーの顔を、私は覚えている。無表情だった。無表情のまま、拳だけが白くなっていた。
あれは何だったのか。任務を超えた忠誠心か。あるいは、もっと別の。
左の奥歯の裏側が、じん、と痺れた。苛立ちが来る時の癖だ。南部紛争の時もそうだった。なぜ今そんなことを考えている。処刑は終わった。判決は覆らない。覆す理由もない。
◇
今朝、リリアーナが執務室を訪ねてきた。
「殿下、薬草園の件ですが……」
白い僧衣を着た聖女は、以前よりどこか疲れて見えた。目の下に薄い隈がある。彼女もここ最近、治癒魔法の効率が落ちていると報告を受けている。
「わたし、薬草園を引き継ごうかと思いまして」
「お前に薬草の知識があるのか」
「いえ、でも治癒魔法は使えますし、精霊にもきっと——」
「精霊の契約はフローラの禁術だと、お前が報告したんだろう」
言ってから、少し強く出すぎたと思った。リリアーナの唇が薄く引き結ばれた。「禁術」と言ったのは神官長の方で、リリアーナは「密談している」と報告しただけだ。正確に言えば。
だが、あの報告がなければ裁判は開かれなかった。それは事実だ。
「……ええ。そうですね、殿下」
リリアーナは微笑んだ。いつもの穏やかな笑み。ただ、口元と目の温度が違う。
聖女が退室した後、執務室に沈黙が降りた。
窓の外では、薬草園の温室のガラスが白く曇っている。中の湿度が下がったのだろう。精霊がいた頃は、内側にいつも薄い露がかかっていたらしい。今はただの乾いた箱だ。
机の引き出しを開ける。北方からの暗号書簡。銀木犀の封蝋。フローラ・ローゼンベルク宛。
これを読めれば、何かがわかるのかもしれない。
読めない。
こめかみが脈を打っている。倦怠感が肩から首筋に広がっていく。まさか、あの茶に何か。毒を盛られていたのか。
いや。毒なら、茶がなくなった今、体調が良くなるはずだ。
悪くなっている。
つまり——毒ではなく、薬だった?
考えるな。結論を急ぐな。これは戦場ではない。
戦場ではないのに、退路がどんどん断たれていくような気がする。
私は書類に目を戻した。穀物の相場、辺境伯の陳情、南部の治安報告。文字が並んでいる。
一行も、頭に入らなかった。




