第7話 花の名前
獄の床から、紙片が一枚見つかった。
改修工事のために取り壊しが始まった旧牢獄。石畳を剥がした作業員が、隙間に挟まった紙片を見つけて報告を上げた。小さな、掌に収まるくらいの紙。くしゃくしゃに握りしめた跡。インクが滲んで、文字は半分しか読めない。
俺のもとに届いたのは、三月の初め。春の風が北門から入ってくる日だった。
文字を判読した。フローラの字だ。見間違えない。右に傾いた、丁寧だけど急いでいる字。
「あなたたちを ゆる ない」
滲みで欠けている部分を補えば、「あなたたちを許さない」。
紙の端が涙で波打っていた。乾いて硬くなった波。半年前に読んだ手紙——「私のことは忘れてください」と書いたあの手紙の、裏側にあった言葉。
フローラは許していなかった。
許した聖人ではなかった。怒っていた。恨んでいた。「許さない」と書いて、握りしめて、破いて、それでも最後には感謝の言葉を選んだ。選ばなければならなかった。怒りを届ける相手がいなかったから。
許したのではない。許せなかった自分を抱えたまま、別の言葉を選んだだけだ。
俺はその紙片を、フローラの封書と一緒に鎧の内ポケットに入れた。二枚重ねると、体温の伝わり方が少し変わった。重みが増えた。
◇◇◇
処刑から十八ヶ月。三月。春の始まり。
処分後の七人は、それぞれの場所にいる。
殿下は摂政補佐として政務にあたっている。実権は制限されているが、書類を読む姿は以前より真剣だ。朝の薬草茶はマリーの調合。「味はフローラの方がうまかった」と、まだ言っている。
リリアーナは王都近郊の神殿で贖罪奉仕をしている。だが毎朝五時に温室に通う日課は変わらない。神殿から王宮まで片道三十分を歩いて、水をやって、また歩いて戻る。聖女の手は園丁の手になった。
バルドゥールは顧問として北方同盟の修復を続けている。杖をつく回数が増えた。だが帳簿を読む目は衰えていない。「帳簿に載らぬ項目を見落とさぬよう、老生は最後まで目を光らせる」と、若い書記官たちに言っているらしい。
マリーは薬草茶の改良を続けている。配合を書き込んだ手帳はもう三冊目だ。フローラの手帳の隣に、マリーの手帳が並んでいる。丸っこい字と、右に傾いた字。
クラウス公爵は領地にいる。精霊の加護が薄れた土地で、新しい農法を試みている。収穫はまだ回復していない。だが井戸の水から鉄の味が少しずつ消え始めたと、老農夫トマスの手紙にあった。
オスカーは精霊研究の論文を書いている。タイトルは「祝福契約の再評価——フローラ・ローゼンベルクの遺産」。遺産、という言葉を使うことに三日間悩んだと、若い神官エミルが教えてくれた。
◇◇◇
処刑場の跡に碑が立った。
灰色の花崗岩を削って作った碑。高さは俺の胸くらい。表面に文字が刻まれている。
「フローラ・ローゼンベルク。花の名を持つ人。この地に咲く花は、彼女を愛した精霊の最後の贈り物である」
碑の足元に、月下草が一輪咲いている。石畳の隙間から。白い花弁に銀色の葉脈。誰も植えていない。誰も水をやっていない。それでも咲いている。
精霊の子どもが、その答えを教えてくれた。
温室の月下草の傍に留まっている小さな銀色の光。あの精霊が、俺の手に触れた時——光の中に、映像のようなものが見えた。精霊の記憶だ。言葉ではない。感覚として流れ込んでくる。
処刑の朝。シルヴァが最後の力で、フローラの足元の石畳の隙間に月下草の種を一粒飛ばした。自分の存在の大半を注ぎ込んだ種。シルヴァが百年の眠りについたのは、フローラの死だけが原因ではない。この一粒の種に、命の欠片を注いだからだ。
だから処刑場の月下草は水がなくても咲く。踏まれても枯れない。一輪だけ。増えることはない。精霊の命で守られた花。
シルヴァの——フローラへの、最後の贈り物だ。
精霊の子どもの光が少し揺れた。フローラの名前を聞いた時と同じ揺れ方。この子は母の記憶を受け継いでいる。フローラを知っている。会ったことはないのに、知っている。
◇◇◇
碑の前に立って、紙片を広げた。「あなたたちを許さない」。
フローラ。お前は聖人じゃなかった。
怒っていた。恨んでいた。怖かった。それでも手帳を書いた。手紙を書いた。種を埋めた。怒りながら、恐れながら、それでもやるべきことを一つずつやった。
俺はそれが嬉しい。聖人に許されるより、人間に許されない方が——いや、許されていないからこそ、俺たちの行動に意味がある。
許されたから続けているのではない。許されていないから続けている。フローラの怒りを背負ったまま、水をやり、茶を淹れ、帳簿を開き、論文を書き、畑を耕し、同盟を繋ぎ、剣を持って北方に立つ。
それが七人の——八人目を含めれば、残った者たちの、生き方だ。
碑の前にしゃがんだ。月下草の花弁に指を伸ばした。触れると、かすかに光った。銀色の残り香。温かい。フローラの手の温度だったのか、シルヴァの命の温度だったのか。もう区別はつかない。
「フローラ」
声に出した。石畳に膝をついて。碑の前で。
俺は三年間、お前の三歩後ろにいた。一度も言えなかった。護衛だから。騎士だから。お前の邪魔になりたくなかったから。
今はもう護衛じゃない。騎士としての任務は終わった。だから——お前が方向音痴で、一人では薬草園にたどり着けなくて、北方語の巻き舌が下手で、マントを「風で飛んできた」と本気で思い込む人だったことを、俺は一生覚えている。
シルバ・ノルト。銀の記憶。忘れない。
◇◇◇
温室に向かった。春の朝の温室は、一年前とは違う空気に満ちていた。
ガラスの内側に露がかかっている。棚の上に緑が戻っている。フローラが育てていたものとは違う品種が多いが、生きている。リリアーナが毎朝通い、マリーが苗を植え、ハインツが棚を直した。七人の——いや、もっと多くの人間の手が、この温室を支えている。
真ん中の鉢。月下草の苗が、初めて花をつけていた。
白い花弁。銀色の葉脈。精霊の子どもが傍で光を強めている。処刑場の一輪とは違う。これは土から育った花だ。水をやり、世話をし、精霊が加護を与えて、半年かけて咲いた花。
フローラが一人で育てていたものを、七人が引き継いで、やっと一輪。
不器用で、遅くて、お前の足元にも及ばない。でも咲いた。お前が残した種から。お前が書き残した手順書の通りに。お前が信じた「誰か」の手で。
花に触れた。花弁が朝日を受けて、薄く光った。温室の空気が甘くなった。腐敗の甘さではない。生きている甘さ。芽吹きの匂い。
フローラ。お前は、いつもそうだったんだな。
誰にも気づかれず、誰にも褒められず、それでも咲いていた。
——俺たちは、今やっとお前が見ていた景色の端に立っている。




