第4話 八人目
北方から持ち帰ったものが二つある。同盟の草案と、毒の証拠だ。
馬を降りたのは王都の北門。十月の朝は冷える。鎧の内ポケットに入ったフローラの封書が、肌に触れて温かい。もう一つ——辺境伯から預かった羊皮紙の束が、鞍の横の革袋に入っている。北方側に保管されていた過去五年分の通信記録の写し。
辺境伯は言った。「フローラ殿の名前に懸けて、真実を明かせ」と。
記録を精査したのは北方の滞在中だ。フローラの暗号体系を辺境伯の協力で部分的に復号した結果、正規の外交通信とは別系統の通信が混在していた。宛先は「D・H」。文面は銀鉄鉱の取引量と代金の精算。
D・H。ディートリヒ・ヘルツォーク。王太子付きの筆頭侍従官。
◇◇◇
宰相バルドゥールの執務室に直行した。
老人は机の上にフローラの手帳を広げていた。老眼鏡をかけた目が、羊皮紙のページを睨んでいる。俺が入ると、顔を上げた。
「ヴェルナーか。北方の件は」
「同盟修復の草案を持ち帰った。それと——もう一つ」
革袋を机に置いた。バルドゥールが中身を引き出し、最初の一枚に目を通した。老人の皺だらけの指が、ぴたりと止まった。
「D・H」
「筆頭侍従官ディートリヒ・ヘルツォークだ」
バルドゥールは黙って次のページをめくった。三枚目で眼鏡を外した。手が——震えていた。三十年の宰相歴で、公文書を読んで手が震えたのは初めてだろう。
「……老生の弟子だ。二十年前に宰相府で育てた」
「知っている」
「知っていて持ってきたのだな」
「ああ」
会話が噛み合っているようで噛み合っていない。バルドゥールが聞いているのは事実の確認ではない。覚悟の確認だ。
老人が手帳を引き寄せた。
「手帳の第二部——暗号体系の核心ページが三枚欠けている。破り取られた跡がある。この手帳が保管されていたのは宰相府の証拠保管庫だ。管轄は——」
「ディートリヒだ」
「左様」
◇◇◇
告発状を準備した。殿下に提出する前に、ディートリヒに動かれた。
俺が王都に戻った翌日の朝。殿下の執務室に呼び出された。入ると、ディートリヒがすでにいた。背の高い男で、灰色の目。表情は作り物みたいに整っている。
「殿下。レオナルド・ヴェルナーは北方滞在中に辺境伯と不審な接触を持っています。北方への内通の疑いがあり、拘束を進言いたします」
声に抑揚がない。事務報告と同じ調子で、俺の人生を終わらせようとしている。
殿下が俺を見た。一年前より痩せた顔。疲れた目。だが——あの目は、一年前とは違った。迷っている目ではない。見定めようとしている目だ。
「ヴェルナー。弁明はあるか」
「あります。——ただし、証拠はバルドゥール閣下が保管しています」
ディートリヒの灰色の目が、一瞬だけ揺れた。
「殿下、バルドゥール元宰相は——」
「黙れ」
殿下の声が低かった。一年前に「却下する」と言った時と同じ低さだ。だが方向が違う。
「一年前、私は調査の時間を与えなかった。同じ過ちは二度と犯さん。——バルドゥールを呼べ」
◇◇◇
広間に集まったのは、七人とディートリヒだった。
マリーが立ち上がったのは、バルドゥールが手帳の欠損ページについて報告した直後だ。末席から立ち上がり、椅子が倒れる音が広間に響いた。目が赤い。泣いていたのではない。泣くのを堪えている目だ。
「あたしを脅したのは、ディートリヒ様です」
広間が静まった。暖炉の薪が爆ぜる音すら遠い。
「裁判の三日前。廊下で呼び止められました。妹が二人、東街区のパン屋にいること。共犯と見なされれば家族に累が及ぶこと。——あたしは手帳を渡しました」
マリーの声は震えていた。だが止まらなかった。
「もう黙りません。——あたしが黙ったから、フローラ様は死んだ。もう一度黙って、誰かが死ぬのを見るくらいなら」
ディートリヒの顔を見た。平坦だった。鉄面皮、という言葉が頭をよぎったが、俺が使っていい言葉じゃない。この男の鉄面皮と、フローラの前で何もできなかった俺の無表情と、何が違う。
バルドゥールが立ち上がった。杖をついた手が、机の上の帳簿の束を示した。
「老生は宰相として、過去二十年分の北方関連公文書を精査した。帳簿に記載のない支出が七十三件。金貨にして一万五千枚。すべてディートリヒの署名が入った決裁書類の裏に隠れている」
帳簿に載らぬ項目を探す。三十年来の宰相の仕事が、ここで実を結んでいた。
オスカー神官長が禁書庫の文献を机に置いた。「祝福契約は禁術ではない」——三十五年前に読むべきだった一冊。
クラウス公爵がローゼンベルク家の精霊資料を提出した。二百年分の記録。「家の恥」として封印されていたものを、娘の名誉のために開封した。
七人がかりの立証。一人の令嬢を殺した七人が、一人の黒幕を追い詰めている。
◇◇◇
ディートリヒは最後まで平坦な顔を崩さなかった。——崩さなかった、と言うべきか。崩せなかった、と言うべきか。
証拠が積み上がるたびに、灰色の目の奥で何かが消えていくのが見えた。計算していたのだろう。最後まで。反論の余地を。だが反論の材料がすべて塞がれた時——あの男の口元が、初めて歪んだ。
殿下が立ち上がった。
「ディートリヒ・ヘルツォーク。北方との不正取引、証拠の改竄、裁判の誘導、侍女への脅迫。——お前は八人目だった」
「殿下。私は宮廷のために——」
「宮廷のため。その言葉で、何人の人生を処理した」
ディートリヒが黙った。初めて、黙らされた側に立った。
バルドゥールが歩み寄った。杖の音が石畳に響く。老人は元弟子の前に立ち、老眼鏡越しに見上げた。
「師匠」
ディートリヒの声が、初めて揺れた。
「あなたの帳簿に、私の名前は——」
「載っていない」
バルドゥールの声は静かだった。
「最初から載せるべきではなかった」
ディートリヒの灰色の目から光が消えた。計算する目ではなくなった。記録に残る男が、記録から消される瞬間の目だった。
俺はフローラの封書に手を当てた。鎧の内側で、紙が体温を吸っている。
フローラ。八人目がいた。お前を殺したのは七人だけじゃなかった。だが——八人目を見つけたのも、お前が残した手帳と種のおかげだ。
死んでなお、この国を守っている。お前は本当に——どこまで先のことを考えていたんだ。
いや。たぶん、考えていたんじゃない。ただ、やるべきことをやっていただけだ。帳簿に載らない仕事を、毎朝五時に、一日も欠かさず。




