第1話 書けない一文
二枚目の便箋を破いた。——あと一枚しかない。
看守が差し入れてくれた薄い紙が三枚。蝋燭が一本。インク壺は蓋が固くて、爪の間が黒ずんだ。土の汚れじゃない。今度はインクだ。
牢の石壁に背を預けて、残りの一枚を膝の上に広げる。石畳が冷たい。秋の夜の冷え方は膝から来る。温室の石畳も冷たかったけれど、あちらには精霊の温もりがあった。ここには何もない。
一枚目には「あなたたちを許さない」と書いた。
最後まで書けなかった。許さない、の先に何を続ければいいのか。「だから呪う」? わたしにそんな力はない。「だから後悔しなさい」? 命令する立場にもない。許さないと書いたところで、この紙は誰にも届かない。裁判で弁明の機会すら与えられなかったのだ。手紙だけ読んでもらえると思うほど、わたしは楽天家ではない。
くしゃくしゃに握りしめて、石畳の隅に投げた。
二枚目には「あなたたちのせいで」と書いた。
書きながら、嘘だと思った。あなたたちのせい。本当にそうだろうか。わたしは声を上げなかった。七歳の時、お父様に「精霊の話は二度とするな」と言われて、そのまま十五年黙り続けた。弁明しなかったのは法廷が初めてじゃない。ずっとだ。ずっと、黙ってきた。
黙ったのはわたしの選択だ。声を上げれば、シルヴァが——わたしの精霊が「禁術の証拠」にされる。黙ればわたしが死ぬ。シルヴァが生きるか、わたしが生きるか。選んだのはわたしだ。
でも。
選ばされたのだ。選択肢を二つしか残さなかったのは、わたしじゃない。
二枚目も破いた。紙片が膝の上で散らばって、白い蛾みたいだった。蝋燭の火に照らされた紙片が、ひらひら石畳に落ちる。
◇◇◇
わたしは怒っている。
認めるのに三年かかった。殿下に婚約者として迎えられた日から今夜まで、ずっと。
怒っている。お父様に。殿下に。リリアーナ様に。バルドゥール閣下に。オスカー猊下に。マリーにも——いや、マリーには怒れない。あの子はわたしの知らないところで何かあったのかもしれない。あの子の目が泳いでいた日があった。最後の一週間、コンポートを作ってくれなくなった。聞けなかった。聞く暇がなかった。
殿下。あなたは三年間、わたしの名前しか知らなかった。朝の茶を飲んで「構わん」と言った。構わないのはあなたの口癖で、あの言葉の裏に「不味い」があることくらい、わたしにはわかっていた。でもそれ以上のことは何も。あなたはわたしの顔と名前だけ知っていて、わたしが何をしているか一度も聞かなかった。
リリアーナ様。あなたが「密談」と報告したのは知っている。密談。わたしは花に話しかけていただけだ。あなたの目には密談に見えたのだろう。見えた、のではない。見たかったのだ。わたしが「悪役」であるほうが、あなたには都合がよかった。
お父様。——お父様のことは、怒りきれない。三万人の領民と、わたし一人。お父様が三万人を選ぶのは正しい。正しいと、頭ではわかっている。でも手紙を読まずに返したのは、領主の判断じゃない。お父様個人の弱さだ。それだけは——。
怒っている。届ける相手がいない。
法廷で弁明の機会があれば。獄中面会が許されていれば。手紙の返事が来ていれば。怒りを届ける窓口が、一つでもあれば。
全部閉じられている。だからわたしの怒りは、この牢の壁に跳ね返って、わたし自身に戻ってくる。
◇◇◇
三枚目の便箋を広げた。最後の一枚。これを破いたら、もう紙がない。
何を書く。
怒りは届かない。恨みも届かない。弁明は聞いてもらえない。
——あ。温室の月下草、今日水をやれなかった。明日ももう、やれない。
不意にそんなことが頭をよぎって、自分で笑ってしまった。明日死ぬのに、花の心配をしている。でも本当に心配なのだ。月下草は朝と晩に水が要る。冷たい水ではだめで、日向に半日置いてぬるくなったものを。シルヴァが傍にいないと機嫌を損ねて葉を丸める。人見知りの精霊と人見知りの花。
だから——手帳を残した。薬草の調合も。暗号体系も。精霊の契約の維持手順も。全部書いた。「もし私がいなくなった後のために」と。
あれは引き継ぎ書だ。わたしがいなくなっても、誰かが読めば、最低限のことは続けられるように。
手帳は私室の衣装棚に隠してある。マリーなら見つけてくれるはず。
便箋にペンを走らせる。手が震えている。インクが滲んだ。
「これを読んでいる方へ。」
引き継ぎの手紙にした。怒りも恨みも書かない。必要な情報だけを。月下草の水やり。薬草茶の配合。北方の暗号。シルヴァへの伝言。
書きながら、手帳の最後のページのことを思い出した。七人への言葉。感謝の言葉。——許すのではない。許してなどいない。ただ、感謝なら読んでもらえるかもしれない、と思っただけだ。恨みの手紙は破かれる。怒りの手紙は燃やされる。でも感謝なら——たぶん、最後まで読んでくれる。
ずるい考えだ。感謝という体裁を借りて、「あなたたちのせいで失われるもの」を突きつけている。わたしが淹れていた茶の味を思い出させ、わたしがやっていた仕事の重さを知らしめ、わたしがいなくなった穴の大きさを見せつけている。
許しではない。これは——わたしにできる、最後の抵抗だ。
◇◇◇
窓の格子の隙間から、銀色の光が差し込んだ。
シルヴァ。
手のひらに乗るくらいの、小さな光の塊。わたしの精霊。格子の隙間をすり抜けて、ふわり、とわたしの膝に降りた。温かい。ぬるま湯より少し熱い、生きている温度。シルヴァが来ると、牢の空気が変わる。石壁の冷たさが少し和らぐ。
シルヴァが光を強くした。怒っている。わたしより、ずっと。
「逃げない」
声に出した。シルヴァには言葉は通じない。でも声の響きで感情は伝わる。
「逃げたら、あなたも追われる。禁術の証拠として」
シルヴァの光が震えた。それでも、と言いたげに。
「大丈夫です」
——口癖だ。全然大丈夫じゃない時に出る。自分でもわかっている。
シルヴァがわたしの頬に触れた。涙が出ていたらしい。光の粒が涙を吸って、銀色の雫になって散った。蝋燭の火と混ざって、一瞬だけ牢が温室みたいに見えた。
便箋に戻る。引き継ぎの手紙はもうすぐ書き終わる。
最後の一行。ペンが止まった。
レオナルドさんへ——。
何を書けばいいかわからない。三年間、毎日三歩後ろにいた人。護衛は不要だと言ったのに、一度も離れなかった人。辞書に花の名前を書き込んでくれた人。巻き舌のコツを教えてくれた人。
あの人に、何を残せばいい。感謝? 謝罪? それとも——。
ペンを置いた。蝋燭の火が揺れた。便箋の上に、書きかけの一文。
「レオナルドさんへ。あなたに——」
続きが、出てこない。




