第12話 不在の花
処刑場の石畳に花が咲くことを、お前は知っていたのか。——フローラ。
一年が経った。
北方から王都に戻ったのは、昨日の夜だ。馬を飛ばして二週間。ヴィンテル辺境伯との交渉をひとまず形にして、報告書を鞄に詰めて、まっすぐ帰ってきた。
一番に行ったのは、薬草園だった。
温室は変わっていた。
ガラスの内側に露がかかっている。あの柔らかい空気が戻っていた。棚の上には緑が並んでいる。フローラが育てていた品種ではないものが多いが、生きている。リリアーナとマリーが交代で世話をしていると聞いていた。手紙の通りだった。
真ん中の鉢に、月下草が一本。銀の葉脈を持つ、掌ほどの高さの苗。まだ花は咲いていないが、葉が光を受けて薄く光っている。精霊の子どもが傍にいた。俺を見て、少し揺れた。人見知りだな、とフローラなら笑っただろう。あの鼻にかかった笑い声で。
リリアーナが毎朝五時に水をやっていると、マリーの手紙に書いてあった。フローラと同じ時間に。同じ場所で。膝をついて、手を土について。——聖女がやることではない。でもリリアーナは、もう「聖女がやること」なんて気にしていないのだろう。
薬草園は以前の三分の一ほどに回復していた。フローラが一人で維持していた園を、七人がかりで三分の一。その数字が全てを語っている。あの人がどれほどのものを背負っていたか。一人の人間の「ついでの仕事」が、七人の大人の全力に匹敵する。
◇
処刑場は、王宮の南庭にある。
灰色の花崗岩の石畳。一年前、フローラがここに立った。白い囚衣を着て、背筋を伸ばして。俺はここに立って、何もしなかった。
今日は七人が集まる日だ。一年前のこの日を覚えている者たちが。
石畳に向かって歩く途中、足が止まった。
隙間に石畳の割れ目に、何かが生えていた。
花だ。
足の裏が、靴越しに熱くなった気がした。
月下草の花。銀の葉脈を持つ、小さな白い花。一輪だけ。誰も植えていない場所に。石畳の隙間から、硬い花崗岩を割って、咲いている。
フローラ。
お前は知っていたのか。処刑される場所に、種が落ちることを。石畳の下にも根が届くことを。精霊がいなくなってもいなくなっても、一輪だけは咲くことを。
……いや。知っていたわけがない。これは偶然だ。種が風に飛ばされて、たまたまここに落ちて、たまたま精霊の子どもの加護が届いて。
でも俺は偶然だと思いたくなかった。フローラが最後に残した奇跡だと、そう思いたかった。
◇
七人が集まった。
殿下は痩せたまま戻っていない。だが目の色が違った。朝の薬草茶はマリーの調合に変わり、完全ではないが効果はあるらしい。「味はフローラの方がうまかった」と殿下は言った。——フローラ、と。初めて敬称なしで名前を呼んだ。
リリアーナの手は、一年前より荒れていた。爪の間の黒ずみは、もう取れないのだろう。聖女の手ではない。園丁の手だ。本人はそれを恥じていなかった。
バルドゥールは杖をついていた。この一年で急に老けた。だが北方との同盟は修復の緒についている。フローラの手帳が鍵になった。「帳簿に載らぬ項目が——結局、帳簿を救った」と、老人は二度目の同じ台詞を呟いた。
マリーは薬草茶の新しい配合を持ってきていた。銀の水筒に入れて。「これが一番フローラ様の味に近いです。まだ全然足りないけど」。そう言って殿下に差し出した。殿下は受け取って、一口飲んだ。——何も言わなかった。何も言わないのが、答えだった。
クラウス公爵は、黙って処刑場に立っていた。月下草の花を見下ろしている。何を考えているかはわからない。あの人はいつもそうだ。言葉を呑み込む人間だ。ただ。一年前にはなかった白髪が、こめかみから側頭部まで広がっていた。五十二歳の顔ではない。
オスカーは精霊研究の論文をまとめている最中だと言った。「フローラ嬢の契約の正当性を、学問的に証明する。遅すぎるが書く」。あの老学者の目には、一年前にはなかった静かな火が灯っていた。
七人が、処刑場の石畳の花を見つめている。誰も口を開かない。
一年前、ここでフローラを殺した七人が。今はフローラが守ろうとしたものを、七人で繋いでいる。薬草園。北方との同盟。薬草茶の調合。精霊の研究。一人の令嬢が一人で担っていたものを、七人がかりで、やっと。
◇
他の六人が去った後、俺は一人で処刑場に残った。
月下草の花に手を伸ばした。花弁に指が触れると、かすかに光った。精霊の残り香。フローラの残り香だ。
北方で覚えた言葉がある。ヴィンテル語で「忘れない」は「シルバ・ノルト」。銀の記憶、という意味だそうだ。辺境伯が、別れの日に教えてくれた。「フローラ殿がよく使っていた言葉だ」と。
あの人なら、もっとうまく発音できたんだろうな。俺が言うと巻き舌が足りなくて、辺境伯に毎回笑いながら直される。
膝をついた。石畳が冷たい。一年経っても、変わらない冷たさだ。フローラもこの石畳に膝をついたのだろうか。あの朝、裸足で立った時に。
フローラ。
お前に言えなかったことがある。三年間、毎日お前の三歩後ろを歩いて、一度も言えなかったことが。
護衛は不要だと言われた。そうかもしれない。お前は精霊と話せたし、北方語も操れたし、薬草の調合もできた。俺がいなくても、たぶん。たぶん、大丈夫だった。方向音痴で薬草園にたどり着けないこと以外は。
不要だったかもしれない。でも俺はお前の隣にいたかっただけだ。
任務じゃなく。命令じゃなく。俺が、いたかった。
声に出した。
一年ぶりにいや、生まれて初めて、フローラに聞こえるように名前を呼んだ。
「フローラ」
月下草の花が、揺れた。風はなかった。石畳の隙間から伸びた細い茎が、銀色に光りながら、かすかにかすかに、傾いた。俺の方に。
シルバ・ノルト。
銀の記憶。忘れない。忘れないから。お前が残したものを、俺たちが繋ぐ。七人で。不器用で、遅くて、お前の足元にも及ばないけれど。
立ち上がった。膝が冷えていた。
処刑場を出る時、振り返った。灰色の石畳の真ん中に、白い花が一輪。夕日を受けて、銀色に光っている。
誰もいない場所で、誰にも見られずに咲いている。それでも咲いている。
フローラ。お前は、いつもそうだったんだな。




