第11話 芽吹き
温室の土は、まだフローラ様の手の温度を覚えているように思えた。——わたしの思い込みだ。土に記憶はない。でも、毎朝この場所に膝をつくたびに、そう思わずにはいられない。
処刑から十一ヶ月目の朝。わたしは薬草園にいた。
いつもと同じように、五時に起きて、温室に入って、月下草に水をやる。日向に半日置いたぬるま湯。フローラ様の手紙に書いてあった通り。もう二ヶ月続けている。
芽は出ない。毎朝、土の表面を確かめる。何もない。湿った黒い土があるだけ。
でもやめない。やめたら。やめたら、わたしには何も残らない。
「緑の指がない」と言われた村娘が、枯れた薬草園で水をやり続けている。滑稽だろうか。フローラ様が見たら笑うだろうか。——笑わないだろうな。あの人はたぶん「ありがとうございます」と言う。あの穏やかな声で。
園丁のハインツが、温室の修理を手伝ってくれている。割れたガラスを入れ替え、棚を補強し、床の石畳の隙間に詰まった枯れ葉を掃除してくれた。「フローラ様がいらした頃は、この温室が一番きれいな場所でした」とハインツは言った。わたしにできるのは、せめて掃除くらいだ。
月下草以外の薬草は、少しだけ息を吹き返し始めていた。マリーが市場で仕入れた普通の薬草の苗を植えたのだ。精霊の加護がなくても育つ品種。フローラ様が育てていたものとは違うけれど、棚の上に緑が戻ったのを見ると——少しだけ、温室が生き返ったように見える。
◇
その日の朝は、空気が違った。
温室に入った瞬間、肌に触れる空気の質が変わっていた。冷たくもなく、暑くもなく、ぬるま湯のように柔らかい。この感覚を、わたしは知っている。三ヶ月前、枯れた薬草園で最後に感じた、あの空気。精霊がいた頃の空気だ。
月下草の鉢の上に、何かがいた。
銀色の光。手のひらに乗るくらいの、小さな光の塊。揺れている。呼吸するように明滅する。フローラ様の精霊シルヴァとは違う——もっと小さくて、もっと頼りない。
精霊の子どもだ。
わたしは動けなかった。息を止めた。光が消えてしまうのが怖くて。
精霊がわたしの方を向いた。ように見えた。顔があるのかどうかもわからない。光の塊が、少しだけ傾いた。
「……フローラ様の?」
名前を出した瞬間、精霊が強く光った。銀色の光が温室の中を走り、ガラスの内側に露が浮かんだ。精霊がいた頃の温室の露。あの、指で文字が書けるくらいの。
「フローラ様」
もう一度呼ぶと、精霊はさらに光った。温室の空気が変わる。土の匂いが濃くなる。枯れかけていた棚の薬草が、わずかにほんのわずかに、葉の先が持ち上がった。
精霊はわたしに近づいてきた。おそるおそる。という表現が光の塊に合うかわからないが、そうとしか言いようがない動き方だった。手を伸ばした。指先を差し出すと——光が触れた。温かかった。ぬるま湯より少し熱い、生きている温度。
フローラ様の手も、こんな温度だったのだろうか。あの人が精霊に触れている時、こんな温かさを分け合っていたのだろうか。
「あなたのお母さん……シルヴァは、フローラ様のことが好きだったの?」
精霊が小さく明滅した。肯定なのか否定なのかわからない。でも光が少し強くなった気がした。
「……そう。わたしにはわたしのことが好きな精霊は、いないけど」
嫉妬ではなかった。嫉妬はもう、とっくに使い果たした。残ったのは寂しさだ。フローラ様にはあって、わたしにはないもの。緑の指。精霊の信頼。静かに誰かを支える力。
でも精霊がわたしの手から離れなかった。逃げなかった。わたしの指先に留まって、かすかに震えている。人見知りだとフローラ様は書いていた。この子も、怖いのだ。新しい人間が。
わたしは動かなかった。精霊が慣れるまで、じっと手を伸ばしたまま。フローラ様も、きっとこうしていたのだろう。
◇
同じ日の午後、バルドゥールのもとに北方から返信が届いた。
「同盟の修復は検討に値する。ただし、フローラ殿の遺志を証明する文書を提示されたい」
手帳だ。フローラ様の手帳に書かれた北方との密約の草案——あれが「遺志の証明」になる。マリーが保管していた手帳が、ここにきて鍵になった。
バルドゥールが宰相の執務室でその書簡を読んだ時、あの老人は笑ったらしい。笑って、それから泣いたと、侍従が噂していた。「帳簿に載らぬ項目が、帳簿を救った」と呟いたそうだ。
レオナルドからも手紙が届いた。北方辺境伯との面会に成功した、という報告。事務的な文面だった。辺境伯はフローラの名前を聞いて長い沈黙の後に表情を変えたこと。「あの方は我が国の友人だった」と言ったこと。暗号書簡の一部を解読する手がかりが見つかり、フローラが個人的に結んでいた密約の全容が少しずつ明らかになっていること。北方語で交渉するレオナルドの発音がひどくて、辺境伯に「フローラ殿の弟子にしては出来が悪い」と笑われたこと。
レオナルドの字は角張っていて、短い文が多い。あの人らしい手紙だった。
最後に一行。
「薬草園はどうなっていますか」
フローラの代わりに聞いている。あの人が聞けなくなったことを、レオナルドが北方の地から聞いている。あの騎士の不器用な優しさが、この一行に詰まっている。
わたしは返事を書いた。「精霊が一匹、戻ってきました」と。それから少し迷って、もう一文加えた。「月下草に、毎日水をやっています。フローラ様の書いた通りに」。
◇
翌朝。温室に入ると、精霊がまだいた。月下草の鉢の上で、銀色に光っている。昨日より光が安定していた。わたしを見ても逃げなかった。
そして土の表面に、何かが突き出ていた。
芽だ。
緑の、小さな、月下草の芽。二ヶ月間何もなかった黒い土から、たった一晩で。精霊が来た翌日に。芽は指の先ほどの大きさで、朝日を浴びて薄く光っていた。銀色の葉脈が、すでにうっすらと見える。
わたしは膝をついたまま、しばらく動けなかった。涙が出た。嬉し涙ではない。この芽が意味するものの重さにフローラ様がいなくなっても、あの人が残したものはまだ生きているという事実に——打たれたのだ。
精霊が芽の上で、かすかに光を強めた。歓んでいるように見えた。
わたしの指先に、まだ精霊の温度が残っていた。




