第1話 茶が不味い
——茶が不味い。
もう三杯目だ。侍従が淹れた茶は、どれも同じ味がする。薄くて、ぬるくて、何の変哲もない麦茶。蜂蜜を足しても駄目だった。以前はこんなものだったろうか。
以前——つまり、一ヶ月と少し前。
私は杯を卓に戻した。少し乱暴に、と自覚はあった。陶器の底が樫の卓にぶつかる音が執務室に響く。
「殿下、お味がお気に召しませんか」
「……構わん。次の書類を」
侍従が慌てて茶器を下げていく。銀の盆が廊下を遠ざかる足音。その気遣いが、やけに耳障りだった。
別に茶の味にこだわりなどない。少なくとも、一ヶ月前まではそう思っていた。いつからだ。いつから私は朝の茶にこれほど注文をつけるようになった?
つまり、以前は不味くなかったということだ。
以前は。
書類に目を戻す。南部の治安報告。穀物の買い付け相場。辺境伯からの陳情書。どれも読んだ端から頭を抜けていく。今朝も倦怠感がひどい。肩が重く、こめかみの奥がずんと鈍い。ここ数週間、朝が来るたびに身体が鉛を飲んだようだ。
まだ二十五だぞ。南部の紛争鎮圧で野営を三ヶ月続けた時でさえ、こんなことはなかった。
窓の外に目をやる。南庭の向こうに、ガラス張りの温室の屋根が見えた。薬草園。あそこの管理を誰がやっていたか、一ヶ月前まで知らなかった。知る必要がなかった。王太子が薬草園の水やりに関心を持つ道理はない。
「殿下」
侍従ではなかった。園丁長のハインツが扉の前で頭を下げている。六十過ぎの小柄な老人で、手の甲が土で黒ずんでいる。呼んだ覚えはない。
「何だ」
「薬草園の件でございます。ご報告が」
「報告は園務官に上げろ。私に直接来る話ではない」
ハインツは動かなかった。白髪交じりの頭を下げたまま、泥のついた靴先を見つめている。
「……園務官では判断がつかぬと申されまして。温室の植物が、半数以上枯れております」
半数以上。
私は立ち上がった。椅子が後ろに滑り、書類の束が卓の端でばさりと崩れた。構わなかった。
◇
温室に足を踏み入れた瞬間、匂いでわかった。
甘い腐臭。枯れかけた薬草が発酵する、独特の重たい甘さだ。鼻の奥にまとわりつく。以前ここに来た時はもっと清涼な。いや。以前、いつ来た? 覚えていない。
ガラス越しの午後の光が、茶色く変色した葉を照らしている。銀の葉脈を持つ見慣れない草。月下草、とハインツが教えた——は根元から黒ずんで倒れていた。隣の棚では、名前も知らない薬草の束が干からびて粉になりかけている。かつては瑞々しい緑だったのだろう。今はただの枯れ草だ。
「いつからだ」
「フローラ様がいらっしゃらなくなってからです」
ハインツは事実だけを述べた。非難の色はない。老人の皺だらけの目が、枯れた月下草を見つめている。その視線に、私への怒りではなく、もっと単純な。悲しみがあった。
「フローラ様は毎朝五時にいらしておりました。精霊に——いえ、植物にお水をやるのだと。雨の日も、ご体調の優れない日も。一日たりとも欠かしたことがございません」
「毎朝五時」
私は繰り返した。意味のない反復だ。ただ、その時間に自分が何をしていたかを考えてしまった。眠っていた。当然だ。
「精霊、と言ったな」
「はい。フローラ様がお話しになると、温室の空気が変わるのです。わしには見えませんでしたが、何かがおったのは確かで。草花の色が違いました。フローラ様がお声がけされた後は、葉の先まで光っているようで」
精霊と話す。
——あれは禁術の契約だと、神官長が断定した。だから裁判にかけ、処刑した。正当な手続きだ。王国法に照らして、何一つ間違っていない。
くだらん。温室が荒れたなら園丁を増やせばいい。薬草など市場で買い付ければ済む。
「殿下」
ハインツが口ごもった。革手袋をはめたまま、指先を擦り合わせている。言いにくいことがまだあるらしい。
「市場の薬師を三人呼びました。どなたも、この種の薬草は扱えぬと。精霊の加護がなければ育たぬ品種が大半だそうです。特にこの月下草は王国中探しても、栽培できる者は」
言葉を切った。いない、と言いかけてやめたのだ。いた人間はもういない、と。
「……それから、殿下。フローラ様が独自に配合されていた薬草茶の原料も、この温室で育てておいででした」
薬草茶。
毎朝、執務室の卓に置かれていた。湯気の立つ、ほのかに苦い茶。いつから始まったのか覚えていない。フローラが淹れていたことすら先月まで知らなかった。侍従が用意するものだと、ずっとそう思っていた。
あの茶が「不味くなくなった」理由が、枯れたこの棚の上にあるのか。
私は月下草の前にしゃがんだ。根元の湿った土に、小さな手形のようなくぼみがある。毎日同じ場所に膝をつき、手をついて、水をやっていた跡だ。指の形まで残っている。
細い指だった。
それが何だというのだ。
耳の後ろが、不意に冷たくなった。
立ち上がる時、膝の裏側が妙に重かった。倦怠感のせいだと思うことにした。
◇
温室を出ると、侍従が小走りで駆けてきた。封蝋のついた書簡を両手で捧げ持っている。
「殿下、北方ヴィンテル王国より外交書簡が届いております」
「読め」
「それが暗号書簡でございまして。解読できる者がおりません」
「担当は誰だった」
侍従の目が泳いだ。答えを知っているのに口に出すのをためらっている。
「……フローラ様でございます」
つまり、フローラが北方との外交書簡の暗号を解読していた。通訳も兼ねていた。
それも知らなかった。
婚約者が何をしていたか、私は何一つ知らなかったらしい。いや。元婚約者、だ。
書簡を受け取った。封蝋にヴィンテル王家の紋章——銀木犀の意匠が刻まれている。宛名は流麗な北方文字で、フローラ・ローゼンベルク。
死者宛の手紙だ。
裏返す。何も読めない。北方語の一文字すら、私には判別がつかない。三年前に南部紛争を鎮圧した時、北方が援軍を出してくれた。あの同盟の交渉を誰が取り持っていたのか。それすらも、今日になって初めて考えている。
書簡を懐にしまった。開封する権限を持つ者は、もうこの王宮のどこにもいない。
執務室に戻り、冷めきった茶を一口含んだ。
不味い。
たったそれだけのことから、何かが綻び始めている。
気のせいだと、思いたかった。




