n回目の説得
黒い霧が濃くなっていく中、アリシアたちは北の森の奥深くへと進んでいた。視界が悪い。足元がおぼつかない。でも、止まるわけにはいかなかった。光の魔法で道を照らしながら、一歩ずつ確実に前へ。
「もうすぐ――」
アリシアが呟く。心臓が激しく鼓動している。胸が苦しい。でも、それは恐怖ではなかった。会いたい。早く会いたい。結城蒼に。彼を止めるために。いや――彼を救うために。
森が開けた。そこには、古い遺跡の残骸が広がっていた。崩れた石柱、苔むした壁、割れた床。かつて何かがあった場所。でも今は、ただ廃墟だけが残っている。
そして――その中央に、一人の青年が立っていた。
結城蒼。
黒い魔力が彼の周りを渦巻いている。まるで闇そのものが、彼を包み込んでいるかのように。空は黒く染まり、大地は割れ、世界が悲鳴を上げている。その中心に――彼がいた。
「結城さん――」
アリシアが声を震わせながら呼びかける。蒼がゆっくりと振り返った。その瞬間、アリシアの息が止まった。
彼の目が――空虚だった。
何の感情も映っていない。まるで、すべてを諦めたような目。生きることを、望むことを、すべてを捨てたような目。それを見た瞬間、アリシアの心が痛んだ。
「来たのか」
蒼が静かに言う。その声に、感情は宿っていなかった。
「アリシア。そして――」
彼の視線が、他の者たちへと移る。エリカ、セレスティア、リディア。ダミアン、シルヴィア、オズワルド。みんなが、彼を見つめていた。
「みんな、揃ったね」
蒼が小さく笑った。でも、その笑顔は悲しかった。まるで、別れを告げるような笑顔。
「蒼――」
エリカが一歩前に出る。彼女の手が震えていた。
「あんた――どうして、こんなことを」
「どうして?」
蒼が首を傾げる。
「僕は――悪役になりたかったんだ」
「悪役――」
セレスティアが呟く。蒼が頷いた。
「そうだよ。世界を脅かす存在になって、誰かに倒される。それが――僕の望みだった」
「そんなの――」
リディアが声を震わせる。
「そんなの、おかしいです」
「おかしい?」
蒼が静かに笑う。
「でも、これが僕の選んだ道なんだ」
彼が手を広げる。黒い魔力が膨れ上がり、周囲の空気が歪んだ。圧倒的な力。それが、彼の中にあった。創造神の力。世界を創造し、そして破壊する力。
「結城さん――」
アリシアが震える声で呼びかける。
「お願いです。力を、解いてください」
「無理だよ」
蒼が首を横に振った。
「もう、止められない。この力は――世界を飲み込むまで、止まらない」
「そんな――」
アリシアの目から涙が溢れた。蒼は、その涙を見ていた。ただ、静かに。何の感情も見せずに。
「だから――」
蒼が全員を見渡した。
「僕を止めてくれ。全力で。本気で」
その言葉が、宣戦布告だった。もう、話し合いの余地はない。戦うしかない。そう、蒼は言っているのだ。
「待ってください!」
アリシアが叫ぶ。
「まだ――まだ、話は終わっていません!」
「話すことなんて、もう何もないよ」
蒼が静かに言った。
「僕は決めたんだ。これが、僕の終わり方だって」
「そんなの――認めません!」
アリシアが杖を握りしめる。
「わたくしは――あなたを救います。絶対に」
「救う?」
蒼が首を傾げた。
「君には、僕を救えない」
「どうして――」
「君は優しすぎるから」
蒼が答える。
「だから――僕を裁けない」
その言葉の意味を、アリシアは理解できなかった。でも、彼の目に浮かぶ悲しみだけは、はっきりと見えた。
*
四つの魔法が、蒼に向かって放たれた。光、炎、氷、風。精霊の力を宿した強力な攻撃が、黒い魔力の渦に飲み込まれていく。爆発。閃光。轟音。森全体が揺れ、大地が悲鳴を上げる。
でも――蒼は、立っていた。
無傷で。黒い障壁が彼を守り、すべての攻撃を弾いていた。その姿を見て、アリシアたちは息を呑む。圧倒的な力の差。それを、まざまざと見せつけられた。
「やっぱり――」
蒼が静かに言う。
「君たちの攻撃じゃ、僕には届かない」
その言葉が、悲しげに響いた。まるで、それを望んでいないかのように。でも、彼の目には諦めが宿っていた。もう何も期待していない。そんな空虚な目。
「結城さん――」
アリシアが震える声で呼びかける。
「どうして、そんな目をするんですか」
「どんな目?」
蒼が問い返す。
「死んだような目、ですよ」
アリシアが涙を堪えながら言った。
「まるで――もう何も望んでいないような」
「その通りだよ」
蒼が答える。
「僕は、もう何も望んでいない。ただ――終わりたいだけだ」
「どうして!」
エリカが叫ぶ。
「どうして、そこまで死にたがるのよ! あんたには、まだやれることがあるでしょう!」
「やれること?」
蒼が首を傾げた。
「それは何だい、エリカ」
「あたしたちを――」
エリカが言葉を詰まらせる。
「あたしたちを、助けることよ。あんたは、いつもそうしてきたじゃない」
「それは――」
蒼が静かに笑った。
「僕の自己満足だったんだよ。誰かを助けることで、自分の価値を確認したかっただけ」
「違う!」
セレスティアが声を上げる。いつもは大人しい彼女が、必死に叫んでいた。
「蒼さんは――わたしの光でした。あなたがいてくれたから、わたしは変われたんです」
「それは、君が自分で選んだ道だ」
蒼が答える。
「僕は、きっかけを与えただけ」
「きっかけで十分です!」
セレスティアが涙を流しながら叫ぶ。
「あなたがいなければ、わたしはまだ――図書館の隅で、誰とも関わらずに生きていました!」
蒼の表情が、わずかに揺れた。でも、すぐに元の空虚な表情に戻る。
「それでも――僕は、もう決めたんだ」
リディアが一歩前に出た。
「あなたは――わたくしにとって、特別な人です」
その言葉に、蒼が目を見開く。
「リディア――」
「王女として生きることしか知らなかったわたくしに、あなたは教えてくれました」
リディアが続ける。
「一人の人間として生きることの意味を。だから――」
彼女の声が震える。
「だから、あなたを失いたくありません」
蒼は何も言わなかった。ただ、リディアを見つめていた。その目に、わずかな迷いが浮かんでいる。でも――
「ごめん」
蒼が首を横に振った。
「僕は――もう、戻れないんだ」
彼が手を上げる。黒い魔力が膨れ上がり、周囲の木々が倒れていく。地面が割れ、空気が歪む。創造神の力が、世界を侵食していく。
「止めてください!」
アリシアが叫んだ。
「このままでは、世界が――」
「それが目的だから」
蒼が答える。
「世界を脅かす悪役になって、誰かに倒される。それが、僕の望む終わり方なんだ」
「おかしい!」
エリカが剣を抜いた。炎が刃に纏わりつく。
「そんなの、おかしいわ! 悪役になりたいなんて、誰が望むのよ!」
「僕が望んでいる」
蒼が静かに言った。
「悪役として死ねば――僕の存在には、意味が生まれる」
「意味なんて――」
エリカが涙を流しながら叫ぶ。
「意味なんて、最初からあったのよ! あんたは、あたしたちにとって大切な人なの!」
「大切――」
蒼が呟く。
「それは、君たちの優しさだよ」
彼が首を横に振った。
「僕は――誰かにとって大切な存在になんて、なれない」
「どうして、そう思うんですか」
アリシアが問う。蒼がゆっくりと彼女を見た。
「アリシア――君は、優しすぎる」
蒼が言う。
「だから、僕を救おうとする。でも――」
彼の声が震える。
「僕が本当に望んでいるのは、救済じゃないんだ」
「では、何を――」
「断罪だよ」
蒼がはっきりと言った。
「僕は裁かれたい。罰を受けたい。そうして初めて――僕の存在に意味が生まれる」
「そんな――」
アリシアが言葉を失う。蒼が小さく笑った。
「でも、君は僕を愛している。だから、裁けない。その矛盾が――僕を苦しめるんだ」
その言葉に、アリシアの目から涙が溢れた。彼は知っていた。すべて知っていた。自分の想いを。そして――それが彼を苦しめていることを。
「結城さん――」
アリシアが震える声で呼びかける。
「わたくしは――」
「知ってるよ」
蒼が優しく言った。
「君の気持ちは、ずっと前から知っていた。でも――それを受け入れることができない」
「どうして――」
「信じられないからだ」
蒼が答える。
「誰かが僕を愛してくれるなんて。誰かが僕を必要としてくれるなんて。そんなこと――信じられない」
その言葉が、深い闇から発せられたものだと分かった。アリシアは理解した。彼の苦しみを。彼の孤独を。そして――それがどれほど深いものなのかを。
*
ダミアンが一歩前に出た。彼は剣を構え、蒼を睨みつける。
「結城――お前は間違っている」
「ダミアン――」
「お前が何を考えているか、俺には分からない」
ダミアンが言う。
「でも、一つだけ言える。お前は――逃げているだけだ」
その言葉に、蒼の表情が変わった。
「逃げている?」
「そうだ」
ダミアンがきっぱりと言った。
「生きることから逃げている。幸せになることから逃げている。だから――死を選んでいるんだろう」
「それは――」
蒼が言葉を詰まらせる。ダミアンが続ける。
「俺は、お前のことが好きじゃなかった」
ダミアンが正直に言う。
「アリシアに近づくお前が、気に入らなかった。でも――今は違う」
彼の目が真っ直ぐに蒼を見る。
「お前は、アリシアを救った。いや、学院のみんなを救った。だから俺は――お前を認める」
その言葉に、蒼が目を見開く。
「認める――」
「そうだ」
ダミアンが力強く言った。
「お前は価値がある。お前は必要とされている。それを――自分で否定するな」
蒼は何も言えなかった。ただ、ダミアンを見つめていた。
シルヴィアも前に出る。
「結城さん――わたしも、同じです」
彼女が優しく微笑む。
「あなたは、アリシアを支えてくれました。彼女が笑顔になれたのは、あなたのおかげです」
「シルヴィア――」
「だから――」
シルヴィアが涙を浮かべた。
「だから、お願いです。自分を大切にしてください」
オズワルドも杖をつきながら前に出た。
「結城蒼――」
学院長の声が、重く響く。
「私は長く生きてきた。多くの生徒を見てきた。だが――」
オズワルドが蒼を見つめる。
「お前ほど、自分を粗末に扱う者は見たことがない」
その言葉に、蒼が俯く。
「自分を愛せない者は、他人からの愛も受け入れられない」
オズワルドが続ける。
「だが、それは間違っている。愛とは――受け入れることから始まるのだ」
「受け入れる――」
蒼が呟く。オズワルドが頷いた。
「そうだ。まずは自分を。そして、他人からの想いを」
蒼は何も言わなかった。ただ、黙って立っていた。周囲の黒い魔力が、わずかに揺らいでいる。彼の心が、揺れているのだ。
アリシアが、もう一度呼びかけた。
「結城さん――わたくしは、諦めません」
その声が、力強く響く。
「あなたが自分を見捨てても、わたくしは見捨てません」
蒼がアリシアを見る。
「どうして――」
「あなたを愛しているからです」
アリシアがはっきりと言った。
「わたくしは、あなたを愛しています。だから――あなたに生きてほしい」
その言葉が、森に響き渡る。蒼の目が、わずかに潤んでいた。でも――
「ごめん」
蒼が首を横に振った。
「僕は――それを受け入れられない」
彼が手を上げる。黒い魔力が再び膨れ上がった。
「もう、遅いんだ。僕は――創造神の力を解放した」
蒼が静かに言う。
「この力は、もう止められない。世界を飲み込み、すべてを終わらせる」
「そんな――」
「だから――」
蒼が全員を見渡した。
「僕を止めてくれ。倒してくれ。それが――僕の最後の願いだ」
その言葉が、最後通告だった。もう、言葉は届かない。戦うしかない。彼を止めるために。いや――彼を救うために。
「分かりました」
アリシアが杖を構えた。
「ならば――力ずくでも、あなたを止めてみせます」
エリカが剣を構える。セレスティアが魔法書を開く。リディアが風を纏う。ダミアンが雷を放つ。シルヴィアが花の精霊を呼ぶ。オズワルドが大地を揺らす。
全員が、蒼に向かって構えた。
「行きます――結城さん」
アリシアが叫ぶ。
「あなたを救うために!」
光が放たれた。炎が燃え上がる。氷が舞う。風が吹き荒れる。雷が轟く。花が咲き誇る。大地が唸る。
すべての力が、蒼に向かって放たれた。世界を救うために。そして――一人の少年を救うために。
戦いは、激しさを増していく。




