終わりの始まり
学院の中庭で、生徒たちが不安そうに空を見上げていた。いつもなら青く澄んでいるはずの空が、今日は灰色の雲に覆われている。重苦しい空気。風も止まり、まるで世界が息を潜めているようだった。
「なんだか、変な感じだな」
一人の生徒が呟く。周囲の生徒たちも頷いた。
「昨日からずっとこうだよ。魔法の授業でも、魔力がうまく制御できないって先生が言ってた」
「結城先輩、どこ行っちゃったんだろうね」
その名前を聞いて、生徒たちの表情が曇る。結城蒼。彼が学院から姿を消して、もう三日が経っていた。最初は誰も気にしていなかった。彼は平民だし、生徒会の手伝いをしている程度の存在だと思われていたから。でも、彼がいなくなってから、学院の雰囲気が変わった。
――何かが、おかしい。
生徒たちはそれを感じ取っていた。具体的に何がとは言えない。でも、空気が重い。息苦しい。まるで、何か悪いことが起ころうとしているような。
*
学院長室で、オズワルド・クロンウェルは窓の外を見つめていた。長い白髭を撫でながら、深いため息をつく。彼の目には、生徒たちには見えないものが見えていた。世界を流れる魔力の乱れ。精霊たちの不安。そして――どこか遠くから押し寄せてくる、巨大な闇。
「始まったか――」
オズワルドが小さく呟く。執務机の上には、各地から届いた報告書が積み上げられていた。辺境の村での異変。突然現れた黒い霧。作物が枯れ、家畜が倒れる。住民たちが原因不明の体調不良を訴える。そして、魔物の出現頻度が異常に上がっている。
すべての報告に共通していること。それは――結城蒼が姿を消した方向と、災厄が発生している場所が一致していることだった。
「結城蒼――お前は、本当にそれを選んだのか」
オズワルドの声が重い。彼は知っていた。結城蒼が抱える闇を。彼が転生者であることを。そして、彼が創造神と契約していることを。学院長として、そしてこの世界最高峰の精霊と契約し――すべてを見通す力を持つ彼には、蒼の本質が見えていた。
――孤独な魂。誰にも救われず、誰にも必要とされず、ただ死を望む悲しき少年。
オズワルドは何度か、蒼に声をかけようとしたことがある。でも、できなかった。彼の目を見た時、そこに映る絶望があまりにも深すぎて。言葉が、届かないと分かっていたから。
「すまない――」
オズワルドが呟く。救えなかった。一人の少年を。そして今、その少年は世界を脅かす存在となろうとしている。
扉がノックされた。
「入りたまえ」
オズワルドが言うと、扉が開いた。入ってきたのは、アリシア・ヴァンクレールだった。彼女の顔は疲労で青白く、目の下には隈ができている。それでも、その目には強い意志が宿っていた。
「学院長」
アリシアが言う。
「結城さんの行方について、何かご存知ではありませんか」
オズワルドは少し考えてから、頷いた。
「――おそらく、彼は北の森にいる」
その言葉にアリシアが目を見開く。
「北の森――」
「そこから、災厄が始まっている」
オズワルドが報告書をアリシアに見せる。彼女が内容を読むにつれ、顔色がさらに悪くなった。
「これが――結城さんの?」
「おそらく」
オズワルドが答える。
「彼は創造神と契約している。その力を解放すれば、世界そのものを脅かすことができる」
アリシアの手が震えた。
「どうして――」
彼女の声が震える。
「どうして、そこまで――」
「彼は死を望んでいる」
オズワルドが静かに言う。
「美しく、意味のある死を。だから彼は、自分が悪役となり、誰かに倒されることを選んだのだろう」
その言葉に、アリシアが唇を噛む。涙が溢れそうになるのを、必死にこらえていた。
「止めなければ――」
アリシアが言う。
「わたくしが、彼を止めます」
「アリシア様」
オズワルドが彼女を見る。
「それは、大変な覚悟が必要になる」
「分かっています」
アリシアが真っ直ぐに学院長を見た。
「でも――諦めません。絶対に、彼を救ってみせます」
その目に迷いはなかった。オズワルドは小さく笑った。
「そうか――では、私も協力しよう」
アリシアが驚いた顔をする。
「学院長が?」
「彼は、私の教え子でもある。見捨てるわけにはいかん」
オズワルドが立ち上がった。
「生徒たちを守りつつ、結城蒼を止める。それが我々の使命だ」
―――これまで動いてこなかったのに、ようやく今になって、か。
そんな、自嘲ともいえる笑いをこぼしながら、オズワルドは歩き始めた。
*
生徒会室では、ダミアンとシルヴィアが地図を広げていた。北の森周辺の地図。赤いペンで、災厄が報告された場所に印がつけられている。
「ここ、ここ、そしてここ――」
ダミアンが指差す。
「すべて北の森を中心に、同心円状に広がっている」
「つまり、震源地は――」
シルヴィアが言いかける。その時、扉が開いた。エリカ、セレスティア、リディアの三人が入ってきた。彼女たちの手には、精霊との契約の証である紋章が光っていた。
「話は聞いたわ」
エリカが言う。
「蒼は北の森にいるんでしょ?」
「ええ」
ダミアンが頷く。
「おそらく、そこで創造神の力を解放し始めている」
「なら、行くしかない」
リディアが静かに言う。
「わたくしたちが、彼を止めなければ」
「でも――」
セレスティアが不安そうに言う。
「蒼さんは、本当に止められるのでしょうか」
その問いに、誰も答えられなかった。創造神の力。それがどれほど強大なものか、彼女たちには想像もつかない。でも――
「止めるしかない」
部屋の入り口に、アリシアが立っていた。彼女の後ろには、学院長オズワルドの姿もある。
「学院長まで――」
ダミアンが驚く。オズワルドが頷いた。
「これは学院全体の問題だ。いや、世界全体の問題だろう」
老学院長の声が響く。
「結城蒼を止めるため、学院の総力を挙げて動く。生徒諸君、教師陣、そして私も――共に戦おう」
その言葉に、生徒会室にいた全員が頷いた。彼らの目には、同じ決意が宿っている。結城蒼を止める。そして、彼を救う。それが――彼らの使命だった。
*
その頃、学院の外では、街の人々も異変に気づき始めていた。商店街で買い物をしていた主婦が、突然空を見上げる。
「あれ、何かしら――」
空が、さらに暗くなっていた。まるで夜が近づいているかのように。でも、まだ昼過ぎのはずだ。周囲の人々も、不安そうに空を見上げている。
「魔力が――乱れてる」
魔法使いの商人が呟く。彼の手から、制御できない魔力が漏れ出していた。
「これは、まずい――」
彼が慌てて店を閉める。周囲の店主たちも、同じように店を閉め始めた。何かが起ころうとしている。それを、本能で感じ取っていた。
街の教会では、神官たちが祈りを捧げていた。
「神よ、この世界をお守りください」
彼らの祈りが響く。でも、その声は震えていた。恐怖で。何か巨大な闇が、世界を覆おうとしている。それを、感じていたから。
そして――北の森の奥深くで、結城蒼は立っていた。彼の周りを、黒い霧が渦巻いている。創造神の力。それが、ゆっくりと解放されつつあった。
世界が――震え始めていた。




