変わりゆく悪役令嬢
これは、蒼が闇落ちする少し前のお話――
リディア様が帰国されてから、一ヶ月が経ちました。
わたくしは――生徒会室で、書類を整理しています。
いつものように、優雅に、完璧に。
でも――
心の中には、小さな不安がありました。
「結城さん?」
わたくしは、隣で書類を確認している彼を見ます。
結城蒼。
わたくしの、大切な補佐役。
彼は――いつものように、微笑んでいます。
穏やかな笑顔で。
でも――
その笑顔が、少し違う気がするのです。
「はい、何でしょう」
彼が、顔を上げます。
「この書類、少し確認していただけますか?」
「もちろんです」
彼は、書類を受け取ります。
いつものように、的確に、完璧に。
でも――
何かが、変わった気がします。
エリカさんが学院を去ってから。
セレスティアさんが辞めてから。
リディア様が帰国してから。
結城さんは――
少しずつ、変わっていきました。
「アリシア様」
シルヴィアが、部屋に入ってきます。
「下級生が困っているそうですわ」
「どうされたのですか?」
わたくしは、立ち上がります。
「上級生に、無理な仕事を押し付けられたそうで」
「それは――」
わたくしは、眉をひそめます。
「すぐに対応しましょう」
生徒会長として。
いえ――
一人の人間として。
困っている人を、見過ごせません。
廊下を歩きながら――
わたくしは、考えます。
わたくしは、変わったのでしょうか。
入学した頃――
わたくしは、完璧な令嬢を演じていました。
気高く。
誇り高く。
感情を表に出さずに。
それが――
公爵令嬢としての、在り方だと思っていました。
でも――
結城さんと出会って。
エリカさんと友達になって。
セレスティアさんを受け入れて。
リディア様と心を通わせて。
わたくしは――
変わったのかもしれません。
「アリシア様」
下級生が、涙目でわたくしを見上げます。
「大丈夫ですよ」
わたくしは、優しく微笑みます。
「何があったのか、教えてください」
話を聞くと――
上級生が、無理な仕事を押し付けていました。
生徒会の雑用を、すべて一人にやらせようとしていたのです。
「分かりました」
わたくしは、その上級生を呼び出します。
そして――
優しく、でも毅然と、注意します。
「生徒会は、みんなで協力する場所です」
「一人に負担を押し付けるのは、間違っています」
上級生は――
最初は反論しようとしました。
でも、わたくしの目を見て――
黙って、頷きました。
「ごめんなさい」
そう言って――
下級生に、謝ったのです。
わたくしは――
二人が仲直りするのを、見守りました。
生徒会室に戻ると――
結城さんが、窓の外を見ていました。
「お疲れ様です、アリシア様」
彼が、振り返ります。
「いえ、大したことでは」
「また、誰かを助けたのですね」
その言葉に――
わたくしは、少し驚きます。
「見ていたのですか?」
「いえ」
結城さんが、微笑みます。
「でも、分かります」
「アリシア様は、いつもそうですから」
その言葉が――
何か、引っかかりました。
「結城さん」
わたくしは、彼を見ます。
「はい」
「最近、お疲れではありませんか?」
その問いに――
結城さんは、少し目を見開きました。
「いえ、大丈夫です」
「でも――」
わたくしは、続けます。
「少し、やつれているように見えますわ」
結城さんは――
微笑みました。
でも、その笑顔は――
どこか、空っぽな気がしました。
「心配していただき、ありがとうございます」
「でも、本当に大丈夫です」
その言葉が――
嘘のように聞こえました。
「結城さん」
わたくしは、もう一度呼びかけます。
「何か――わたくしにできることはありませんか?」
彼は――
少し、驚いたような顔をしました。
「アリシア様に、ですか?」
「ええ」
わたくしは、頷きます。
「あなたは、いつもわたくしを助けてくださいます」
「だから、今度はわたくしが――」
言葉を続けようとした時。
結城さんが――
笑いました。
でも、その笑い方は――
どこか、おかしかったのです。
「ははっ」
短く、乾いた笑い。
まるで――
何かを諦めたような。
「アリシア様は、本当に優しいですね」
彼が、小さく言います。
「僕なんかのために――」
「結城さん?」
わたくしは、不安になります。
彼の目が――
一瞬、何も映していないように見えたから。
「すみません」
結城さんが、首を振ります。
「少し、疲れているだけです」
「今日は、もう帰りましょうか」
その提案に――
わたくしは、頷きました。
でも――
心の中の不安は、消えませんでした。
*
それから、数日が経ちました。
結城さんは――
相変わらず、完璧に仕事をこなしています。
でも――
時々、ぼうっとしていることがあります。
窓の外を見つめて。
何も考えていないような顔で。
「結城」
ダミアンが、心配そうに声をかけます。
「ああ、すみません」
結城さんが、はっとして顔を上げます。
「大丈夫か?」
「ええ、大丈夫です」
でも――
その表情は、大丈夫には見えませんでした。
シルヴィアも、気づいています。
「結城様、最近おかしいですわ」
彼女が、小さく呟きます。
「何か、あったのでしょうか」
「分かりません」
わたくしは、首を振ります。
「でも――」
言葉を続けようとした時。
結城さんが、部屋に入ってきました。
「失礼します」
いつもの、穏やかな声。
でも――
その目は、どこか遠くを見ているようでした。
「結城さん」
わたくしは、彼を呼びます。
「はい」
「今日の会議の件ですが――」
仕事の話をしながら――
わたくしは、彼を観察します。
表情は、穏やか。
声も、落ち着いています。
でも――
時々、ふっと力が抜けたような瞬間があります。
まるで――
糸が切れた人形のように。
「――アリシア様?」
結城さんの声で、我に返ります。
「あ、すみません」
「何か、気になることでも?」
その問いに――
わたくしは、言葉に詰まりました。
どう言えばいいのでしょう。
あなたがおかしいです、なんて――
失礼すぎて、言えません。
「いえ、何でも」
わたくしは、首を振りました。
結城さんは――
小さく微笑んで、部屋を出て行きました。
その背中を見ながら――
わたくしは、思います。
あの人は――
何かを、隠している。
それも――
とても、大きなものを。
*
ある日の放課後。
わたくしは、結城さんと二人きりになりました。
他の生徒会メンバーは、全員帰った後。
静かな生徒会室で――
わたくしたちは、向かい合っていました。
「結城さん」
わたくしは、意を決して言います。
「正直に、答えてください」
彼が――
少し、驚いたような顔をします。
「何か、悩んでいることがあるのではありませんか?」
その問いに――
結城さんは、しばらく黙っていました。
そして――
小さく、笑いました。
「バレていましたか」
その言葉に――
わたくしの胸が、痛みました。
「やはり――」
「でも、大丈夫です」
結城さんが、続けます。
「もうすぐ、全部終わりますから」
その言葉が――
何か、引っかかりました。
「終わる、とは?」
「ああ、いえ」
結城さんが、慌てて訂正します。
「悩み事が、解決するという意味です」
「本当ですか?」
わたくしは、彼の目を見ます。
彼は――
わたくしの目を、じっと見返しました。
その瞳には――
何が映っているのでしょう。
わたくしには――
分かりませんでした。
「本当です」
結城さんが、静かに言います。
「アリシア様は、何も心配する必要はありません」
「でも――」
「僕は、大丈夫です」
その言葉が――
まるで、別れの挨拶のように聞こえました。
わたくしは――
何も言えませんでした。
ただ――
胸の奥に、冷たいものが広がっていくのを感じました。
その日の夕方。
わたくしは、一人で中庭を歩いていました。
夕日が――綺麗に沈んでいきます。
赤く染まった空が――美しくて。
でも――
心の中は、晴れませんでした。
結城さんのことを、考えてしまいます。
彼は――いつも、わたくしを支えてくれました。
的確な助言。
完璧な補佐。
信頼できる、存在。
でも――
最近、何かが違う気がするのです。
エリカさんが去る時――
結城さんは、複雑な顔をしていました。
セレスティアさんが辞める時も――
何か、苦しそうでした。
リディア様が帰国する時――
彼は、一人で中庭にいました。
何を――
考えていたのでしょう。
「アリシア様」
声がして――
振り返ると、ダミアンが立っていました。
「ダミアン」
「一人ですか?」
彼が、隣に立ちます。
「ええ。少し、考え事を」
「結城のことですか?」
その問いに――
わたくしは、驚きます。
「なぜ、分かるのですか?」
「アリシア様は、最近ずっと彼のことを気にしています」
ダミアンが、静かに言います。
「心配なのですか?」
「……ええ」
わたくしは、頷きました。
「彼、最近――」
「変わった、と?」
ダミアンが、先に言いました。
「気づいていたのですか?」
「ええ」
ダミアンが、空を見上げます。
「結城は――何か、抱えている」
「前から、そう感じていました」
その言葉に――
わたくしも、頷きます。
「彼の笑顔は――」
ダミアンが、小さく言います。
「空っぽです」
その言葉が――
胸に、深く突き刺さりました。
空っぽ。
そう――
その通りなのです。
結城さんの笑顔は――
いつも、どこか空虚な気がしていました。
まるで――
何も感じていないような。
まるで――
生きることに、意味を見出していないような。
「わたくしは――」
小さく呟きます。
「彼のこと、何も知らないのかもしれません」
ダミアンが、わたくしを見ます。
「知りたいのですか?」
「……ええ」
わたくしは、頷きました。
「彼が何を考えているのか」
「何を求めているのか」
「何のために――」
言葉が、詰まります。
「何のために、生きているのか」
その言葉を――
口にした瞬間。
わたくしは、気づきました。
結城さんは――
もしかしたら。
「生きる意味を、見出していないのかもしれない」
小さく呟きます。
ダミアンが――
何も言いません。
でも、その沈黙が――
肯定のように感じました。
「わたくしは――」
拳を、握りしめます。
「彼を、助けたい」
その言葉が――
心から、出てきました。
結城さんは、わたくしを助けてくれました。
生徒会の仕事。
学院での立場。
ヒロインたちとの関係。
すべて――
彼のおかげです。
だから――
今度は、わたくしが彼を助けたい。
彼が何を抱えているのか。
何に苦しんでいるのか。
それを――
知りたい。
「アリシア様」
ダミアンが、優しく言います。
「無理はしないでください」
「でも――」
「結城は――」
ダミアンが、小さく続けます。
「深い闇を、抱えているかもしれません」
その言葉に――
わたくしは、頷きました。
「それでも――」
わたくしは、決意します。
「わたくしは、諦めません」
結城さんを――
救いたい。
彼が、笑顔を取り戻せるように。
彼が、生きる意味を見つけられるように。
それが――
わたくしの、願いです。
夕日が――完全に沈みました。
空が、暗くなっていきます。
星が――一つ、また一つと、輝き始めます。
わたくしは――
その星を見上げながら、誓いました。
結城蒼を――
必ず、救ってみせると。
たとえ――
彼が何を抱えていても。
たとえ――
どんな闇が待っていても。
わたくしは――
諦めません。
それが――
わたくしの、在り方だから。
完璧な令嬢ではなく。
冷たい悪役でもなく。
一人の――
人間として。
大切な人を――守りたいから。




