禁断の契約
氷の大地を、小さな足が踏みしめる。
六歳になった僕は、両親に「冒険者になる修行に出る」と嘘をついて家を出た。
嘘、というか半分は本当だ。確かに力を手に入れに行く。ただし、その理由が彼らの想像とは真逆なだけで。
終焉の氷原。世界最北端に位置する、人を寄せ付けない死の領域。
気温はマイナス五十度を下回り、吹雪は視界をゼロにする。魔物も近づかない、本当の意味での「終わり」の場所。
寒い。体の芯まで凍りつくような寒さ。
六歳の体には、あまりにも過酷すぎる環境だった。
防寒具は村で買える最高級品を用意した。それでも、この寒さは防げない。
足の感覚がもうない。手もかじかんで、動かすのがやっとだ。
でも、不思議と恐怖はなかった。
「ここで死んでも、それはそれでいいか」
小さく呟く。吐息が白く凍る。
もし創造神に辿り着けなかったら、僕はここで凍死する。それも一つの終わり方だ。
物語にはならないけれど、少なくとも前世のような孤独死よりは、ずっと綺麗な気がする。
目的を持って死ぬ。それだけで、意味があるように思えた。
ゲームの知識を頼りに、氷原の奥へ奥へと進む。
本来なら、レベル90以上の冒険者が、完全装備で挑むべき場所。六歳児が来る場所ではない。
でも、僕には前世の記憶がある。安全なルート、魔物の出現位置、すべて頭に入っている。
それに――死ぬことを恐れない覚悟がある。
この覚悟だけが、僕を前に進ませていた。
三日目。
食料が底をついた。水も残り僅かだ。
体力の限界が、すぐそこまで来ている。
それでも足を止めなかった。止まったら、本当に終わってしまう。まだ、まだ駄目だ。創造神に会わずに死ぬのは、ただの無意味な死だ。
そして――見えた。
氷の宮殿。
吹雪の中に浮かび上がる、幻想的な建造物。氷でできているはずなのに、内側から淡い光が漏れている。
神秘的で、美しくて、そして圧倒的な存在感。
前世で、何百回も挑戦した場所。画面越しに見た、あの場所。
それが今、目の前にある。
「着いた……」
膝が、がくりと崩れた。
気力だけで歩いていたんだと、今になって気づく。体はとっくに限界を超えていた。
宮殿の扉まで、あと百メートルもない。でも、もう一歩も動けない。
意識が遠のいていく。ああ、駄目か。ここまで来たのに、あと少しなのに――
『――――興味深い』
声が、した。
性別不明の、透き通るような声。
次の瞬間、僕の体が浮き上がった。いや、誰かに抱き上げられた。
「……え?」
視界がぼやける。でも、見える。
銀色の髪。紫色の瞳。中性的で、神秘的な顔立ち。
創造神だ。
ゲームで何度も戦った、あの圧倒的な存在。
『六歳の人間が、この地に辿り着くとは。しかも一人で』
創造神は僕を宮殿の中へと運んでいく。吹雪が止んだ。いや、宮殿の中に入った瞬間、すべての寒さが消えた。
柔らかな場所に寝かされる。毛皮の寝台だった。
『さて、お前は何者だ?』
創造神が、僕を見下ろす。
その瞳には、好奇心の色があった。
「僕は……結城蒼」
かすれた声で答える。喉が渇いていて、うまく声が出ない。
創造神が手をかざすと、水の球体が現れた。それが僕の口に流れ込む。
甘い。いや、甘くはないのかもしれない。でも、今までで一番美味しい水だと思った。
『結城蒼。奇妙な名だな。この世界の命名規則に合わない』
「……転生者、です」
もう隠す意味もない。どうせ創造神なら、すべて見抜いているはずだ。
『転生者。なるほど、それは興味深い』
創造神の瞳が、さらに輝きを増した。
まるで珍しい宝石を見つけた子供のような、純粋な好奇心。
『異世界から来た魂か。前世の記憶を持ったまま、この世界に生まれ落ちた。実に稀な現象だ』
「あなたなら……知っているんですか? 転生のことを」
『私は世界を創造した神だからな。世界の法則の外から来た存在は、すぐに分かる』
創造神は僕の隣に座った。
神という存在にしては、随分と人間らしい仕草だった。
『で、転生者。お前は何故ここに来た? 死にに来たのか?』
「いえ……力を、手に入れに」
『力? 六歳児が、私のもとに力を求めに来た?』
創造神が、くすりと笑った。
その笑い声は、意外なほど優しかった。
「あなたと……契約を、結びたい」
『契約? 人間と神が契約を? 面白い。理由を聞こう』
僕は息を整えてから、答えた。
「美しく、終わりたいから」
『……美しく、終わる?』
「僕は……生きることに、意味を見出せない。前世も、今も」
言葉が、ぽつりぽつりと零れ落ちる。
「でも、ただ死ぬのは嫌だ。意味のない死は、前世で経験した。今度は違う終わり方をしたい」
「だから……物語の中で、美しく終わりたい」
「悪役として、完璧に散りたい」
「そのためには……力が必要なんです」
創造神は、しばらく黙っていた。
紫の瞳が、僕を静かに見つめている。
『――――奇妙な願いだ』
ようやく、創造神が口を開いた。
『生きるために力を求める者は多い。しかし、美しく死ぬために力を求める者は初めて見た』
『それに、お前はまだ六歳だ。これから楽しいことも、嬉しいことも、たくさんあるはずだ』
『なのに、もう終わりを見ている』
「……変、ですか?」
『いや』
創造神は首を横に振った。
『興味深い、と言っている』
そして、不意に笑った。
本当に、人間みたいな笑顔だった。
『いいだろう。契約を結ぼう、結城蒼』
『お前という転生者が、どのような物語を紡ぐのか。私は見てみたい』
「本当に……?」
『ああ。ただし条件がある』
『お前は九年間、ここで修行をする。私が直々に、お前を鍛える』
『九年後、お前が十五歳になったとき――お前は学園に入学し、物語を動かせ』
九年。
僕が物語の開始時期と同い年になるタイミングだ。
『それまでは、私のもとで過ごすことになる。家族とも会えない。覚悟はあるか?』
「……あります」
即答していた。
家族と離れることへの悲しみは、確かにある。両親の顔が、脳裏に浮かぶ。
でも、それよりも強い気持ちがあった。
美しく終わりたい。その一心が、すべてを上回っていた。
『では――』
創造神が手を伸ばす。
その手のひらに、複雑な魔法陣が浮かび上がった。
『契約成立だ。お前は私の力を得る。その代わり、物語を動かすことを誓え』
僕は創造神の手を、小さな手で握った。
瞬間、体中に力が流れ込んでくる。
圧倒的な魔力。前世でゲームの中でしか見たことのない、創造神の力。
それが今、僕の中に流れている。
「――――っ!」
痛い。いや、痛いというより、熱い。体中が焼けるように熱い。
でも、不思議と嫌な感覚ではなかった。
むしろ、生きている実感がした。
『さあ、始めよう。九年間の修行を』
『お前が求める「美しい終わり」のために』
創造神の言葉が、氷の宮殿に響く。
そして、六歳の結城蒼の――歪んだ物語が、動き始めた。
九年間の修行は、過酷だった。
毎日毎日、体を限界まで追い込まれる。魔法の訓練、剣の訓練、戦術の勉強。
創造神は容赦がなかった。というより、人間の限界を知らなかった。神の基準で僕を鍛えようとするから、何度も気を失った。
でも、不思議と苦痛ではなかった。
目的があるから。終わりが見えているから。
前世のような、終わりの見えない虚無の日々よりは、ずっとマシだった。
創造神は、時折不思議なことを言った。
『お前は、生きることを諦めている』
『でも、死ぬために努力している』
『矛盾しているな』
その言葉に、僕は答えられなかった。
確かに矛盾している。死にたいのに、死ぬために努力している。
でも、それが僕なんだ。
九年が過ぎた。
僕は十五歳になった。
圧倒的な力を手に入れた。創造神から直々に学んだ魔法と剣技。
この世界で、僕に勝てる者はほとんどいないだろう。
でも――
心の虚無は、何も変わらなかった。
「力を得ても……何も変わらない」
氷原を見下ろしながら、僕は呟いた。
創造神が隣に立つ。
『そうだろうな。力は手段でしかない。お前の心は、力では満たせない』
「……分かっていました」
『ならば、学園へ行け。お前が求める「美しい終わり」を、見つけに』
僕は頷いた。
これから始まる。
悪役として、物語の中で生きる日々が。
そして、いつか――美しく散る、その日が。




