違和感の芽生え
あの夜、アリシアが部屋を訪ねてきてから――
僕の日々は、少しずつ変わっていった。
いや、正確には「変わってしまった」と言うべきか。
計画からの、逸脱。
目的からの、乖離。
それでも――僕は、生徒会でアリシアの補佐を続けていた。
ある日の午後、生徒会室で書類整理をしていると、エドワードが入ってきた。
「結城、少しいいか?」
「はい、何でしょう」
「アリシア会長のことなんだが……」
エドワードは、少し困ったような顔をしていた。
「最近、会長は少し無理をしているように見える」
「生徒たちの相談に乗りすぎて、自分の時間がないんじゃないか」
その指摘は、正しかった。
アリシアは、毎日多くの生徒の相談を受けている。
平民の学業相談、いじめの相談、貴族同士の人間関係の調整。
すべてを一人で抱え込んでいる。
「確かに……」
「お前から、何か言ってやってくれないか」
「会長は、お前の言葉なら聞くと思う」
エドワードは、真剣な目で僕を見た。
「分かりました。話してみます」
その日の夕方、僕はアリシアを中庭に呼び出した。
噴水の前のベンチに、二人で座る。
「お話とは、何でしょうか?」
アリシアが、不思議そうに尋ねた。
「アリシア様、最近少し無理をしていませんか?」
「無理? そんなことは――」
「毎日、遅くまで生徒会室にいます」
「昼休みも、相談に来る生徒たちに時間を取られています」
「ご自分の時間が、ほとんどないはずです」
アリシアは、少し困ったように微笑んだ。
「でも、困っている人を放っておけませんから」
「それは分かります。でも、アリシア様が倒れたら――」
「誰も、助けられなくなります」
その言葉に、アリシアは目を見開いた。
「結城様……」
「少しは、ご自分を大切にしてください」
アリシアは、しばらく黙っていた。
そして――小さく笑った。
「あなたに、そんなことを言われるなんて」
「どういう意味ですか?」
「だって、結城様こそ――」
アリシアが、僕を見た。
「自分のことを、まったく大切にしていないではありませんか」
図星だった。
言葉に詰まる。
「あなたは、いつも他人のことばかり考えています」
「私のために知恵を貸し、支えてくれる」
「でも、ご自分のことは――何も話してくれません」
アリシアの目が、優しく僕を見つめる。
「結城様、私はあなたのことを――」
そこまで言いかけて、アリシアは言葉を止めた。
少し頬を赤らめて、視線を逸らす。
「……心配しているのですわ」
その言葉が――温かかった。
でも同時に、痛かった。
「ありがとうございます」
僕は、微笑んだ。
でも、きっと空っぽな笑顔だ。
「でも、僕は大丈夫です」
「アリシア様こそ、ご自愛ください」
アリシアは、少し悲しそうな顔をした。
でも、何も言わなかった。
その後、僕たちはしばらく黙って噴水を眺めていた。
水の音だけが、静かに響いている。
「ねえ、結城様」
アリシアが、不意に話しかけた。
「はい」
「あなたは、この学院での生活を――楽しんでいますか?」
その質問に、僕は戸惑った。
楽しい?
この学校に来てからそんなこと、考えたこともなかった。
「どうでしょうか……」
「私は――」
アリシアが、噴水を見つめながら続けた。
「私は、楽しいですわ」
「生徒会の仕事は大変だけど、やりがいがあります」
「困っている人を助けられることも、嬉しい」
「そして何より――」
アリシアが、僕を見た。
「あなたと一緒にいる時間が、とても楽しいのです」
その言葉に――心臓が、大きく跳ねた。
「アリシア様……」
「だから、あなたにも楽しんでほしいのです」
「この学院での生活を。私と過ごす時間を」
アリシアの笑顔が――眩しかった。
こんな表情、原作ゲームでは見たことがない。
これは――本当のアリシアの笑顔だ。
「僕も――」
言葉が、喉の奥で詰まる。
何を言おうとしていたんだろう。
「楽しい」と言おうとしたのか?
でも、それを認めてしまったら――
「僕も、アリシア様といる時間は……」
そこまで言って、僕は口を閉じた。
言えない。
言ってはいけない。
なぜなら――
それを認めてしまったら、計画が完全に崩壊する。
死への願望が、消えてしまう。
「結城様?」
アリシアが、心配そうに覗き込んでくる。
「すみません。何でもありません」
僕は、また逃げた。
アリシアの優しさから、逃げた。
夕日が、二人を照らしている。
オレンジ色の光が、アリシアの金髪を染めている。
その姿は――とても美しかった。
「帰りましょうか」
アリシアが立ち上がる。
僕も立ち上がった。
寮へ向かって、並んで歩く。
アリシアは、何度か僕を見たが、何も言わなかった。
ただ、時々――少し寂しそうな表情を浮かべていた。
翌日。
僕は一人で図書館にいた。
生徒会の資料を調べるためだ。
でも――集中できない。
昨日のアリシアの言葉が、頭から離れない。
『あなたと一緒にいる時間が、とても楽しいのです』
その言葉が、繰り返し響く。
嬉しい。
でも、怖い。
「楽しい、か……」
小さく呟く。
楽しいという感情。
前世では、ほとんど感じたことがなかった。
孤独な日々。
誰にも必要とされない日々。
ただ、生きているだけの日々。
でも今は――
アリシアがいる。
一緒に過ごす時間がある。
必要とされている。
「これが、楽しいということか」
でも――
それを認めてしまったら、どうなる?
計画は? 目的は? 美しく終わるという願いは?
「分からない」
頭を抱える。
感情と理性が、戦っている。
心と計画が、ぶつかり合っている。
その時――
図書館の入口で、声が聞こえた。
「アリシア会長、本当に素晴らしい方ですわ」
「ええ、昨日も私の相談に乗ってくださいました」
「親身になって、アドバイスをくれるのよ」
「会長のおかげで、学院が変わったわ」
生徒たちが、アリシアを称賛している。
僕は、本棚の影から、その会話を聞いていた。
「でも、会長の隣にいる結城様も素敵ですわね」
「ああ、会長の補佐役の方?」
「ええ。いつも会長を支えていらっしゃる」
「二人とも、お似合いだと思いません?」
その言葉に――胸が、大きく鳴った。
「お似合い、か……」
小さく呟く。
僕とアリシアが、お似合い?
そんなこと、考えたこともなかった。
でも――
心のどこかで、嬉しいと思っている自分がいた。
「駄目だ」
首を振る。
そんなことを考えてはいけない。
僕には、目的がある。
美しく終わること。それだけが、僕の存在意義だ。
アリシアと、未来を考えるなんて――
許されない。
その日の夕方、生徒会室で仕事をしていると、アリシアが言った。
「結城様、来週末に学院の舞踏会がありますわね」
「ええ、そうですね」
「よろしければ――」
アリシアが、少し頬を赤らめる。
「私のパートナーになっていただけませんか?」
その言葉に――時が止まった。
「パートナー、ですか?」
「ええ。生徒会長のパートナーですから、補佐役のあなたが適任だと思いまして」
アリシアは、恥ずかしそうに視線を逸らす。
「もちろん、嫌でしたら無理には――」
「いえ」
僕は、答えていた。
「喜んで、お受けします」
その言葉が――自然に出ていた。
計算じゃない。計画でもない。
ただ――アリシアと一緒にいたかった。
「本当ですか!」
アリシアの顔が、パッと明るくなった。
その笑顔が――眩しかった。
「ありがとうございます、結城様」
「いえ、こちらこそ」
二人で微笑み合う。
その瞬間――
僕は、幸せだった。
確かに、幸せだった。
でも――
部屋に戻って、一人になると。
その幸せが、恐怖に変わる。
「僕は、何をしているんだ」
ベッドに座って、頭を抱える。
舞踏会でアリシアのパートナーになる?
それは、恋人のすることじゃないか。
「計画から、完全に外れている」
アリシアは、悪役にならなかった。
むしろ、聖女になった。
そして僕は――彼女に惹かれている。
「違和感」
小さく呟く。
計画と現実の、齟齬。
目的と感情の、乖離。
原作ゲームでは、アリシアは冷酷な悪役だった。
でも今のアリシアは、優しく、温かく、誰よりも人を思いやる。
「本当の悪役なら、こんなことはしない」
困っている人を助けたり。
平民を支援したり。
僕に優しく微笑んだり。
そんなことは――悪役のすることじゃない。
「でも――」
それが、アリシアなんだ。
本当のアリシアの姿なんだ。
僕が求めていた「完璧な悪役」は――
最初から、存在しなかった。
「なら、僕は――」
どうすればいい?
計画は崩壊した。
美しく終わる方法が、見つからない。
でも――
アリシアと過ごす時間は、確かに温かい。
彼女の笑顔を見ると、嬉しい。
必要とされていることが、心地よい。
「これは――」
生きるということなのか?
前世で経験できなかった、「生きる」ということなのか?
でも、認められない。
認めてしまったら――
また、前世と同じ恐怖に襲われる。
誰かに必要とされること。
誰かと繋がること。
それは――失う恐怖と、セットになっている。
なら――失う前に、死んだほうがいい。すくなくとも、僕はそう思う。
「怖い」
小さく呟く。
幸せになることが、怖い。
誰かを大切に思うことが、怖い。
そして――生きることそのものが、怖い。
「だから――」
僕は、やはり終わりを求める。
美しく終わること。
それだけが、僕の存在意義だ。
アリシアを巻き込まない方法で。
彼女を悲しませない方法で。
でも、確実に終われる方法で。
「どうすれば……」
答えは、まだ見つからない。
ただ一つ、分かることがある。
違和感は、日に日に大きくなっている。
計画と感情が、激しくぶつかり合っている。
死にたい自分と、アリシアと一緒にいたい自分が、戦っている。
でも――
最後に勝つのは、どちらだろう。
窓の外には、月が浮かんでいた。
満月。
五歳の時に見た、あの月と同じ。
あの時、僕は決めた。
美しく終わると。
その決意は――
今も、変わらない。
たとえアリシアの優しさに触れても。
たとえ温かさを感じても。
たとえ幸せを知ってしまっても。
「僕は、終わりを選ぶ」
小さく呟く。
それが、僕の答えだ。
ただ――
アリシアとの時間を、もう少しだけ。
この温かさを、もう少しだけ。
感じていたかった。
それは、贅沢な願いだろうか。
死ぬと決めた人間が、生の温もりを求めるなんて。
「矛盾している」
創造神の言葉を思い出す。
確かに、僕は矛盾だらけだ。
死にたいのに、生きている。
終わりたいのに、アリシアと過ごす時間を楽しんでいる。
冷酷になりたいのに、優しさに心を動かされている。
違和感。
それが、今の僕を表す言葉だ。
計画と現実の違和感。
目的と感情の違和感。
そして――
死への願望と、生への未練の違和感。
「僕は、どうなってしまうんだろう」
答えは、まだ分からない。
ただ――
この違和感が、いつか決壊する日が来るような気がした。
そして、その時――
僕は、選択を迫られるのだろう。
死を選ぶのか。
それとも――
アリシアと共に、生きることを選ぶのか。
「でも、答えは決まっている」
小さく呟く。
僕は、死を選ぶ。
それだけは、確かだ。
たとえ、どれだけアリシアに惹かれても。
たとえ、どれだけ温かさを感じても。
最後に選ぶのは――死だ。
それが、結城蒼という人間だから。




