2.
足早にやって来たのは、赤い提灯の下がる格子状のドアの前だ。
カラカラと軽い音を立てて開けると、中はスーツ姿のサラリーマンの喧噪で包まれていた。モクモクと上がる煙の下で、炭火の上で焼き鳥がじゅうじゅうと音を立てている。
瑠依と飲むときは毎回この店だった。本人はテーブル席の隅で突っ伏すように座っている。目に前には空のジョッキがいくつも並んでいた。
「やぁあと来た。ほぉたるくーん」
普段は絶対に飲まない酒の量と電話の様子から予想はしていたが、瑠依はかなり泥酔している。頭はフラフラ落ち着かないし、ひとつも呂律が回っていない。突っ伏した上半身を上げようともせず、顔だけをこちらに向けている。
元来細い目をさらに細くして、いつもは後ろで縛っている髪が解けてバサバサと乱れていた。散髪に行く金が勿体ないからと長髪を維持していが、酔っていても陰気に見えた。
蛍は向い側の座敷に座った。
「そんなになるほど飲むなんて。大丈夫か、瑠依」
「あれぇ? 蛍くん、その腕どーしたのぉ?」
瑠依がビールジョッキを掲げて、蛍の右腕のギプスを示す。たまに顔を合わせて飲みはするが、わざわざ些細なことを報告し合う仲ではない。
蛍は少しだけ視線を逸らす。
「いや、ちょっとした事故にあって、折っただけだから。気にすんな」
骨折のついでに仕事も辞めたことは言えなかった。右腕を包むギプスをぐっと握る。蛍の言うことで納得したようだ。
「そっかー」
いつもは陰気な声の青年が酒のせいか、声のトーンが明るい。
だが、話す内容はとても笑えるものではなかった。自嘲するように瑠依は語り出す。
「実はさ。ははっ! 俺のネタ盗られちゃってさ」
「盗られた?」
ネタというのは間違いなく、お笑いのネタだろう。
背が少し曲がって見た目は陰気な青年に見えても、瑠依は本職のお笑い芸人だ。高校を卒業してから上京し、お笑い養成学校を経て、舞台デビューした瑠依。
かれこれ、芸歴九年にはなるだろう。以前はコンビを組んでいたが、相方が芸人を辞めて実家を継ぐというので、瑠依はピン芸人となった。ルイ500号という芸名で活動している。
ほとんどがシュールなネタで、人気があるとはお世辞にも言えなかった。
「誰に」
まだ手を付けていないだろう山盛りの枝豆をつまむ。
「先輩芸人……、モツタローの野郎だ!」
あまり大きな声で言うので、店内の視線が集まる。瑠依よりも蛍の方が視線を敏感に気にした。
「あの、モツタローが」
顔を寄せ、声を潜めて蛍は尋ねる。
モツタローといえば、モツナベサンダーズという漫才コンビだ。ボケのモツタローとツッコミのキャべジローの二人組。テレビにもよく出て来る太鼓持ちと言っても良いタイプの芸人で、多くの先輩芸人に可愛がられている様子だ。
瑠依の先輩芸人でもある。漫才としてはとにかくモツタローがボケ倒し、キャべジローが緩いツッコミを入れるスタイルだ。
よく瑠依に絡んでくるから、芸能の情報に疎い蛍でも知っていた。
「盗るって言っても、どうやって」
瑠依は腕の中に顔を隠して、うめくように話す。
「ネタ帳……。ネタ帳が無くなったんだ。最初はどこかで落としたのかと思ったんだけど、間違いない、くそっ」
ドンドンと拳でテーブルを叩きつけ始める瑠依。
「モツタローがいつの間にか鞄から抜いたんだ」
「抜いたって……。どうやって分かったんだよ」
瑠依がぐっと顔を上げる。
「使ってやがったんだよ! 俺のネタを、漫才の舞台で! さも自分のものかのように、一言一句一緒だった!」
ギリリと奥歯を噛み締めているかの表情は、長い付き合いの中、一度も見たことがないものだ。瑠依から痛々しいほど尖った棘が生え自らを刺しているかのようだった。
人間関係がうまくいかない。近くに嫌な奴がいる。そんなことは世の中いくらでもある。とはいえ、自分の過去を思い浮かべて胸がうずいた。
蛍は胸の痛みを押し殺して尋ねる。
「それ、ちゃんと言って」
「言った! 言ってやったさ! でも、しらばっくれる上にお前のシュールな笑いじゃ、ああは出来ないだろって言うんだ。……その通りなんだよ……。小気味いいツッコミまで加えやがって」
勢いが一転して、しおしおとしぼんでいく瑠依。自分のネタを自分よりも上手く使っている漫才を見て、かなり自信を無くしてしまったようだ。
「畜生ぉ。ネタ帳が無ければ、元々俺のもんだって言うことも出来ないじゃねぇか」
「瑠依……」
蛍には何も言えなかった。また新しくネタを考えればいい。そう言ってやればいいのかもしれない。
だが、この事件を機会に芸人を辞めるという選択も出来る。
瑠依も蛍と同じ年齢、間違いなく決断のきっかけにはなるだろう。正直、蛍の眼から見ても、瑠依のネタを作りは他の芸人より一段上だと思う。
だが、それを上手く操れるだけの弁が立たない。たまのひな壇でのフリートークも今一つ冴えなかった。つまり、芸人として売れる可能性は限りなく低い。
「どうしようもないんだろ。もう苦しむなよ」
「うぅ、蛍くん……」
全く気の利かないと自覚さえある慰めの言葉にも関わらず、瑠依はボロボロと堪えていた涙をこぼし始めた。これ以上悪酔いしないようにビールジョッキを取り上げるも、瑠依は嗚咽を漏らし続ける。
蛍は枝豆をもう一つしか、つまむことしか出来なかった。