1.
青年はギプスを付けた右腕を抱えて、煌々と光る看板が並ぶ夜の街をさ迷っていた。丸まった背中に黒縁眼鏡の彼は、いかにも不運がまとわりついているようだ。
実際、その通りだった。
つい先日の出来事だ。青年は工事現場で交通整理をする仕事をしている。
いつもの通り、現場での仕事を終え、荷物を片付けに事務所へ戻った。ロッカーに作業着を押し込み、着てきた服を着こんで事務所を出る。
陽も完全に落ち、歩くのには街灯だけが頼りだ。ぼんやりと歩いていると、縁石につまずいてしまう。さらに運が悪いことに、倒れ込んでいくところに車が突っ込んできた。
車にはねられた青年は壁に打ち付けられ、命に別状はないものの利き腕を骨折。ギプスをはめることとなった。不自由極まりない。
ただ右腕が折れてしまったとはいえ、左腕はまったくの無事だ。
「じゃあ、明日までに連絡しますから」
交通量が少ない場所の交通整理なら大丈夫だろうと、会社の事務員の女性は配慮してくれる。しかし、青年は退職願いを差し出した。
「怪我のことは気にしなくてもいいですよ」
一瞬声を失いつつも事務員の女性は引き留めたが、青年が前々から考えていたと言うとすんなり受け取ってくれた。おそらく珍しくはないのだろう。
新森くんなら続くと思っていたんだけど、という囁きが去り際に聞こえて来たが、少ない私物を持って誰にも挨拶せずに会社を去った。
青年が仕事を辞めた会社の数は、これで二桁以上となる。仕事が続かないため金は常になかったし、何にも役に立たない自分に辟易ともしていた。
本格的に就活に打ち込むよう、奮起した方がいいのかもしれない。二十九歳の青年は、来年は三十歳になる。新しい仕事もこれまで以上に探しにくくなるだろう。
そう考えはするが、青年に何かに対する熱など湧かなかった。
十二月の夜は、空気が刺すように冷たい。暖を取りたかったが、カウンターに客の肩がぶつかるほど身を寄せあって並んでいる居酒屋に入ることはためらわれた。
そもそも、貯金は一か月の食費に足りるだろうか。無駄な金など一銭もない。
だからといって、家に帰っても鬱々と布団に包まるしかなかった。それならば当てもなく歩いている方がましだ。
いや、行きつく先は決まっていた。青年のノロノロとした歩みは、飲食店の通りから外れていく。もう何度も訪れて、周りの景色を見ずとも向かうことが出来た。
誰もいない、そこは橋の上だ。
周りは遊歩道に舗装されていて、一番近くのマンションからは距離がある。車通りもさほど多くなく、通っても赤いテールランプの残像を残して去っていくだけだ。
青年は橋の中央近くの欄干に左手を置く。ひんやり冷たいアルミの感触がするが、それ以上に青年の指は凍っているようだった。
欄干から顔を出し、星の光すらも吸い込んでしまうほど、暗い川面を覗き込む。
深さは十分なはずだ。ゆっくり飛び込めば音がしても、誰も気にしないだろう。右手は使えないから、もがいて岸にたどり着くことも出来ない。
「あれから、何年だ……。もういいだろ」
充分苦しんだ。楽になっていい頃だ。青年は足を欄干の柵にかける。
「――なんだ?」
デニムのポケットに突っ込んでいたスマホが震えている。すぐには止まないので電話に違いない。もしかしたら、退職した会社からかもしれない。
ふと自分が辞めたばかりで死体が浮かんだら、会社に要らぬ疑いをかけられてしまうかもしれないと脳裏をよぎった。
いまさら止まるつもりはないが、迷惑をかけないように電話に出ておこう。仕事には何も問題なかったと言い、通話を録音しておけば誰も疑わないはずだ。
欄干にかけていた足を引っ込め、ポケットからスマホを取り出す。液晶の画面を見て、眉間にしわを寄せた。
「瑠依?」
液晶画面には会社の名前ではなく、旧友の名前が表示されていた。小学校と中学校の同級生で上京してから再会した。以来頻繁ではないが、たまに飲みに行く仲だ。
しかし、瑠依から電話とは珍しい。青年から誘うことは滅多になく、メッセージで連絡してくることの方が多かった。
どうしたものかと迷いに迷ったが、彼に何があったのか気になるので電話に出ることにした。左手しか使えないので、欄干にスマホを乗せて通話ボタンをタップする。
「もしもし」
側には誰もいないので、スピーカーにして話しかけた。だが、中々反応がない。
もしかしたら、間違えて電話してしまっただけだろうかと電話を切ろうとしたときだ。
「……蛍くん」
蛍とは青年の名前だ。しかし、電話の向こう側の声は酷くかすれている。
「どうかしたのか?」
スマホに向かって、そっと話しかけた。
「俺さぁ。もう駄目かもしんない。いや、もう駄目だぁ」
珍しく瑠依が管を巻いていた。相当、酔っているようだ。この状態で尋ねても、まともな返事は返ってこないのかもしれない。それでも、蛍は聞いてみる。
「駄目って、どういうことだよ」
「あいつら、許せねぇ。呪ってやる。ムカデで満杯の壺に落してやりてぇ」
これほど憎悪を口にすることも、彼にはまた珍しかった。瑠依は電話をしたことも忘れたかのように恨み節を続けている。
青年――蛍は、スマホと川の水面を見比べた。
しかし、スマホから漏れて来る嗚咽を聞いていると自然とスマホに顔を寄せていた。
「瑠依、いつもの居酒屋だろ」
「……うん」
すぐに向かおうと、通話を切るボタンをタップしようとした。しかし、利き手ではない左手の親指だからか、上手く行かず手が滑ってしまう。カツンの耳に響く嫌な音を立ててアスファルトの地面に転がり落ちる。
地面に落ちたスマホを慌てて拾った。こんなことですらスムーズに出来ないのかと、今更ながらため息が出て来る。
ふと、拾ったスマホの画面を目にした。偶然触れたのか、ニュースのアプリが起動されている。ネット記事の見出しが目に飛び込んできた。大きく『炎上中の歌い手、クオン。自殺未遂で入院。未だ目覚めず』と書かれている。
自殺未遂。自分と同じだと、記事も読まずに見出しを注視した。
いや、同じではない。この人と自分では全く違う。違う世界の人間だ。一瞬でも何を思い上がったのだろうか。
こうしてぼんやり物思いにふけっている場合ではない。すぐに思い直して、画面を閉じてスマホをポケットに入れる。人の生き死にを騒ぎ立てるネット記事よりも、友人のことの方が気掛かりだ。
足を進めようとしたが、少しだけためらいが出て黒い水面を見つめる。
自分に出来ることと言えば、せいぜい瑠依から話を聞くだけになるだろう。気の利いた言葉の引き出しなど、とおの昔に失くしている。
何も持たない自分。行く意味はないのかもしれない。
ただ瑠依のためだけに、今日の予定は明日に後回しにすることにした。