62話
隣のキッチンからは閉めた扉越しに電話中の母の甘い声が聞こえて来てきた。しかし此方にとってはよくあることで、気にしていなかった。
電話を終えて母は扉を開けた。
「此方、お母さんちょっと出かけてくるから、先に寝てて」
「うん…」
あの男の人のところだろうか。これは朝まで帰ってこないだろう。相手は30代で母と同じくらいの歳。この前見た時は本気には見えなかったが…。
お母さんが再婚して私の居場所がなるよりかはその方がいい…。でも再婚しようにも子連れだからできなくても私は邪魔者だ。どちらに転んでも邪魔者。
でも私は死にたくない。稼げるようになって家を出れば解決できる。ごめん、お母さん、もう少しだけ待っていて。
深夜、此方が布団で寝ていると苦しさで目が覚めた。隣の部屋からの明かりが差し込み、此方の上に馬乗りで首を絞めている母の姿が見えた。
逆光で表情がよく分からないが、此方は怒りや悲しみの雰囲気を感じ取ることができた。
ああ、やはり私が邪魔で失敗したんだ。私がいなくなればお母さんは幸せになれる。
「や…やめて…お母さん…」
それでもやはり死ぬのは嫌でとっさに声を絞り出した。娘の悲痛な声に母は動揺して手を緩め、此方は寝ぼけてもたついた手で母の手を首から押しのけ、咳をして再び呼吸をした。
「あいつ…あんたが目当てだってよ…最悪ッ」
母は拳を握り、此方の頬をなぐりつけた。
「痛い!」
「娘に負けるなんて!若いだけの!ガキんちょにッ!」
此方は殴り続けられて死を覚悟し、もう終わるようにと念じた。母の地面が崩れ、下へと落ち続ける光景が浮かんだ。
すると母は急停止し、此方に覆いかぶさるように倒れた。此方はもたつく手で母を横に押しのけて息を吸い、布団にもぐって丸まって目を瞑った。
これは夢だ。悪い夢だ。目を覚ませば何もない。
翌朝、此方は目覚ましで目を覚まして、ぼーっとしたまま洗面台へと歩いて行った。蛇口を捻って水を出し、顔を洗うと痛みが走った。顔を上げて鏡を見ると殴られた跡が残っていた。
眠い目で不思議そうに鏡をじっと見ていると徐々に深夜の出来事を思い出し、恐怖で目を見開いていった。
此方は部屋に戻ると外行きの服を着たまま倒れている母を見つけた。
「あ、ああ…」
まさか…昨夜のは現実…?
此方は恐る恐る母に近づき、呼吸を確かめた。浅いながらも息はしていた。脈を取ると動いて生きているのは分かったが、それが正常なのか異常なのか此方には分からなかった。
「お母さん、起きて!目を覚まして!」
此方は懸命に声をかけたが目を覚まさず、此方は気が動転して部屋を出た。洗面台に戻って顔を洗い、口をゆすぎ、痛みで我に返った。
そうだ、救急車を…。もし深夜からこの様子なら今更もう遅い…?分からない、とにかく分かる人に…。
…どうして助けようとしている?目を覚ましたらまた同じ目に遭わされるかもしれないのに?大切なお母さんだから?それとも稼げない私が生きるためにこの人が必要だから?目を覚ましたら反省してもうぶたないかも?そんな保証ある?ああ、もう分かんない!
此方は電話で救急車を呼び、救急車が来るまでの間に着替えて準備した。そして駆けつけた救急隊と共に母を乗せた救急車で病院へ向かった。
病院に着き、此方が母の検査を待合室で待っていると張戸が呼ばれてやってきた。張戸は医者から説明を聞き、此方のもとへ来た。
「此方、どうしたんだその顔?」
「どうしよう…伯父さん…私のせいでお母さんが…」
此方は昨夜あったことを張戸に話した。
「君には超能力があるのかもしれないな。だが君のせいではない。悪いのはあいつだ、君はただ自分の身を守っただけのこと。それにまだ息はある、そう追い詰めるな」
「無理…私には分かる…。お母さんは深いの夢の中に落ち続けてもう起きない」
「……」
看護師がやってきて2人は医者のもとへ説明を聞きに行った。
現時点で目を覚まさない原因は不明で、さらに検査が必要だという。此方は呆然として説明を聞き、張戸は冷静にテキパキとやり取りをしていた。此方はやり取りを張戸に任せきりだったのもあり、ほぼ覚えていなかった。
その後、此方は張戸と一緒にタクシーでアパートに戻った。学校を休む連絡を入れ、ちゃぶ台で2人で話をした。話しているうちに此方は段々と落ち着いてきたようで様子が変わった。
「…相手の男は君が狙いだったわけか。しかし、そうだとすると君が死んでしまえば結婚する理由もなくなるのにどうして…?いや、あいつなら一時の感情で台無しにしてしまうか…」
張戸は妹の性格を知っており、行動に納得した。
「君は一時の感情で台無しにしちゃいけないよ」
「うん、気を付ける。伯父さんは大人だね」
「実際大人だけどね。でも子供心はある。悪魔たちを使役したらかっこいいだろうな、という子供じみた夢を追っている」
張戸は恥ずかしくなって話を切り上げ、母の印鑑や各種契約書などの場所を此方に聞き、取り出したものをちゃぶ台の上に置いて黙々と確認を始めた。
「これからどうしたら…。私は生きていたって邪魔なだけ…抵抗しなければ良かった…」
「誰に邪魔者と言われようと気に病むことは無い、私が君を必要としている」
張戸はメモ帳に契約書の種類をメモしながら振り分けていった。
「君は私や愚妹の半分も生きていない子供だ。できないことが沢山あっても当然だろう。少しずつできるようになればいい。それに君はすごい力を持っている。私なら活かせる」
「……」
「余裕が無ければ挑戦できない。私には余裕がある。待つことだってできる。君さえ良ければ君を我が家で暮らさないか?お金もいるだろう?ここは出る」
張戸はアパートの契約書を置いて此方に尋ねた。
「…血の繋がりのない私をどうして?本当は血の繋がりがある私のお父さんなの?」
「ないない、君の母は私の妹だぞ。ありえない」
張戸は「げえー」と嫌そうな顔で舌を出して見せた。
「血が繋がってない義理の親子でも実の親子のように固い絆で結ばれている人たちだっている。私はそんな大層な親子愛は与えられそうにないが…」
「でもそれならどうして?伯父さんはお菓子をくれたり、チケットをくれたりするし」
「ただ可愛がることが不思議か?自分の子供は躾なきゃいけないと思うが、他所の子は親が躾けているから好きに可愛がってもいいかなと思うんだ。まあ私には自分の子がいないがね」
本当にそんなことがあるの?親子でないにしても伯父姪だから?同じ祖先の血を引いているから?
「損得の方が納得できるかな?私は君に投資しよう。君が大物に育てば私は利益を得るし、そうでなければ私が損失を出す。それだけのこと」
そっちの方が納得できる。
「お願いします、家に住まわせてください」
「うん、実質荷物置き場になっている部屋の一つを空けよう。今日はとりあえず客間に泊ってもらう。荷物をまとめておいで」
「…もう一つお願いが」
「ん?」
「実は私は此方であって此方じゃないの。私のことは彼方と呼んで欲しい」
「どういうことだ?」
張戸は首を傾げた。
「私は姉を支える別人格、姉は母を半殺し…いや、もう死は免れない…殺した罪悪感で耐えられない。私がその記憶を引き受ける」
「君はいいのか?」
「私は人として大切なものが欠落した人格だから平気」
張戸は此方と彼方の置かれた状況を理解した。
「そうか…。すまない、君のことはまだ救えない」
「私のことまで…嬉しい!おじ様大好き!じゃあ此方と呼んだらお姉ちゃんが、彼方と呼んだら私が出てくるね。このことは秘密だよ」
「ああ…。しかし、表立っては我が家には此方しかいないことになる。君が人前で出てくるときは親戚の子ということにしよう」
「親戚の張戸彼方?」
「同じ苗字で此方と似た名前だと注目を浴びそうだ。違う苗字を…そうだな…」
張戸はデジタル時計を見て月曜日表示が目に入った。
「月曜彼方…望月彼方…三日月彼方…マンデイ彼方…ランディ彼方…モンターク彼方…」
「モンターク、何かいいかも」
「そのままじゃ日本人名らしくない。縮めて漢字にして門宅としよう」
張戸は紙に門宅彼方と書いた。
「分かった、門宅彼方ね。本当は張戸姓がいいけど…お姉ちゃんのためだもん、仕方ないね。これが私の名前…実在する証…」
彼方は名前の綴られた紙を嬉しそうに胸に抱きしめた。
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「思い…出した…!」
此方は人格を分裂させて記憶を切り離していた。此方に残ったのは母との良い思い出。彼方には全ての記憶があり、超能力の行使も可能となっていた。
此方は頭を抱え、唸り声をあげた。
能力が暴走して周囲の景色が暗い色の絵具をぶちまけたような上も下も分からないようなものとなり、奥行きは無限に続きそうな距離感の掴めないものとなった。
部屋のランプが破裂してガラス片が飛び散り、机や椅子はガタガタと震え始めた。
「くっ…まずい…」
気が引けるがやむを得ない…。
大河は手を前に出して此方に向けて衝撃波を飛ばした。此方は衝撃を受けて吹っ飛び、壁に激突して気を失い壁にもたれながら倒れた。
景色が元に戻り出し、大河は迫る張戸の腕を後ろに避け、元に戻った世界で張戸と対峙した。
おそらく残り1話か2話くらいです




