19話
張戸の家、張戸は自室の椅子に腰かけ、後ろに回して山上と話をしていた。山上は本棚のファイルを手に取り、ソフトのマニュアルを調べていた。
「今回捕まえた奴…皐月と聞いてもしやメイボードの術師かと思っていたのに残念だよ」
「芸名で本名は違ったわけだ。がっかりしているのか?」
「少しね。自分で買ったのではなく、人からただでもらったくじが外れたようなもの。ショックというほどではないさ」
「それは良かった」
「さて、そろそろ戻るか」
張戸は椅子を回しモニターの方を向いて作業に戻った。
休日の昼過ぎ、大河は眠気覚ましに街を散歩していた。朝食兼昼食後に昼寝をし、1時間半ほど経って目が覚めたが何かする気が起きず、とりあえず家の外の景色でも見て気分変えようと行くあてもなく気の赴くままに散歩に出たのだ。しかし大河はこの気の赴くまま自由にというのが気に入っていた。誰かとどこで何時に待ち合わせとか、何歩以上歩く目標とかそういうことを気にしなくていいのが性に合っていた。
住宅区から店の多い方へと歩いて行き、交差点前の赤信号で立ち止まっている少女を見かけた。
「よう此方」
張戸此方に似た少女は自分が呼ばれたのか?と不思議に思いながら大河の方を向いた。
「私?」
「あ、すみません、知人に似ていたもので…」
「ナンパですかぁ?大船先輩」
此方に似た少女は妖艶な笑みを浮かべてからかうように尋ねた。
「いやそういうわけじゃ…俺を知っているし、やっぱり此方で合ってる?」
「いいえ、私は彼方。初めまして、門宅彼方です。あなたのことは伯父の張戸区切から聞いています」
張戸さんの姪…此方の他にもいたんだな。甥もいるのかな。
「此方は私の姉です。ちょっと複雑な家庭の事情があって姉は私のことを知らないし、伯父も私のことを姉には黙っています。本当は張戸姓を名乗りたいけど…」
複雑な家庭の事情か…愛人の子とかそんなんだろうか。張戸姓を名乗りたいけどできないってことは。まああえて深く聞く必要もないな。
「先輩、これからお時間ありますか?」
「俺は大丈夫だけど、君は何かしてたんじゃないの?」
「大丈夫です、私はちょっと街をぶらついていただけなので。お茶しましょう。私、先輩とお話したいです」
大河は彼方に手を取られて青信号を渡り、喫茶店に連れて行かれた。部屋の角の席に座り、彼方はメニュー表を開いて大河に見せた。
「先輩何にします?」
「じゃ、紅茶で」
メニューにある紅茶は一種類でその種類も書いていない。どの種類でも構わない。
「ケーキセットもありますよ」
「俺はいいよ。腹減ってない」
「そうですか?私はカフェオレで。クッキーも買っちゃえ。先輩、少しなら食べれますよね?」
「そうだけど…まあいいやそれで」
「決まりですね。すみませーん」
彼方は店員を呼び、注文を取りつけた。
「それで門宅、話とは?」
「そう肩肘張らないでくださいよぉ、こんな開放的なところで秘密で大切な話なんてしませんから」
「ああ…」
それもそうか。ただのお喋りか。
「その前に、私のことは彼方と名前で呼んで欲しいです。自分の苗字が好きじゃないもので…」
本当は張戸姓を名乗りたいと言っていたな。
「分かった。彼方」
「えへへ」
彼方は嬉しそうに少し俯いて笑った。
「そうそう、お話の方ですがきっと先輩は姉から伯父のことを悪く言われたことでしょう」
「まあ…多少は」
「それじゃ伯父さんが可哀想。という訳で私は伯父さんの優しさをアピールします」
「なんだそりゃ」
ちょうど注文した飲み物とクッキーが届き、彼方はコップにストローを差して一口飲み、話を始めた。
「父と母が別れてから長らく私は母と暮らしていました。正直、仲は良好とは言えませんでした。母にとって私は愛憎入り混じった存在だったと思います。邪魔者だけど切り捨てられない親子の情がある娘。頑張っていたのでしょう。ある日母は意識を失い、一週間ともたず死亡します。母は私が殺したようなものです。しかし伯父は君のせいではないと言ってくれました。そして、誰に邪魔者と言われようと気に病むことは無い、私が君を必要としていると。ああ、存在が許されるというのはこんなにも満たされる…」
此方と似た境遇だな。あちらは母と仲悪くは無さそうだったが。
「私は門宅家へ引き取られました。伯父さんは既に此方を引き取っていて、私と会わせられない事情もありましたから。しかし伯父は門宅家へ資金援助をしてくれています。いい人なのです」
「そうか…しかしなぜ援助を?既に一人引き取って大変だろうに」
「私に投資価値があるからだそうです。でも多分違います。私が恩を感じて重荷に感じないようにそういう言い方をしているんです。本当は優しいのです」
「成程ね…」
こっちはこっちで此方とは対照的だな。名前も対照的だし。
「信じてます?此方の言い分を信じるんですか?」
「正直まだ分からない。どちらの言い分も鵜呑みにできないよ。人は色んな面を持つものだろ?」
「……」
彼方は暗い顔でストローを吸って沈黙した。
「ねえ先輩」
「ん?」
「先輩の自動防御って毒は防げるんですか?」
「お前…まさか…」
彼方は悪戯っぽい笑みを浮かべ、指先で目薬ケースらしきものを弄って見せた。
「なんだそれは?そんなものいつ?」
「最初からありましたよ。今この瞬間まで私がそう見せようとしていなかっただけです」
「お前…」
彼方はくすっと笑って身を乗り出し、コップを持つ大河の右手の甲に指先で触れた。彼方の左手の親指
の節に小さなホクロがあるのが見えた。
「冗談ですよ。安心してください、何も入れちゃいませんから」
彼方は座り直して手を引き、満足気にコップを持ってストローを吸った。
「これはただの目薬。意味あり気に置いただけです。相手の注意を逸らしてその隙に置く。手品の要領ですよ」
「俺をからかってるのか?」
「すみません。こういう冗談はもっと親しくなってからすべきでしたね…」
「あ、いや、そこまで落ち込むとは…」
「許してくれるんですか?」
「もういいよ、怒ってないから。でも食事時に毒なんて洒落にならない冗談は好まないな」
「以後気をつけます」
素直だな…。生意気だが素直だから許せてしまう。
「それにしても先輩あんまり怒らなさそうですね」
「まあ…そうだね」
昔は人のために怒れるような人、共感性が高い人にこそ力を持つに相応しいと思い、自分には相応しくないと思って悩んでいたものだ。
「何で怒らないの!?私のことどうでもいいと思ってるんでしょう!?とヒステリー起こされたことあります?」
「そういう経験は無いかな…」
「それはラッキーですね。でもいつかあるかもしれません、身構えておくといいかもしれませんよ」
「ははは…頭の片隅に置いておくよ」
彼方はクッキーをつまみ、話題を変えた。
「最近再燃している入冥島の死神の噂、ご存じですか?」
「知らない。噂なんて不確かなこと知ってもな」
肩肘張らないでと言っていながらさっきから話が重くないか?この子にとってこれらの話題は肩肘張らずに話すようなものなのか。
「今話題ですし知っておくと役立つと思いますよ。色んなバリエーションがありますが、基本的なものをお話しましょう」
「…いいよ、分かったよ、聞こう」
大河は観念して話を聞くことにした。
「噂では入冥島は霊力の吹き溜まりとなっており、それによって精霊の類が精霊界から現実世界へ干渉することがあるのです。死神も精霊の一種と言われています。鎌で斬りつけて魂を刈り取ります。その死神は人の過去と未来を見ることができるのです。そして近い未来に死ぬよりも辛い目に遭う者の命を奪い、幸せなうちに死を与えるのです。ゆえに慈悲深い死神と言われています」
「死んだら将来辛いことがあったのか確かめようが無いじゃないか」
「もー、噂なんですからそんな理屈っぽいことは駄目です」
「はい」
「ただし自殺しようとしている者のもとへはその死神は来ません。生きようとしている者のエネルギーが必要なのです」
「ふーん…」
「何か納得している様子ですね」
「つまりこういうことだろ?死んだ者には、近い未来に死ぬより辛いものがあったはずだから死ねて良かった。死のうとする者には、死ぬより辛いことがあるなら死神が来るはずだから自殺する必要はない。そうやって心を軽くするための話という訳だ」
「成程。そういう考えもあるのですね」
しかしなぜそんな噂が流行るのか。もしかして最近起きた斬り裂き魔事件の影響か?




