わんこ王子に懐かれましたが、私は侍女です
少し修正しました
第五王子レオン殿下は、王宮一の“問題児”である。
金糸のような髪と碧眼を持ち、天使のように微笑む姿に、誰もが一度は心を奪われる。
けれどその本性は、甘え上手で腹黒い“わんこ系男子”。
「エリナ~、今日も添い寝してくれる?」
「しません。殿下は子犬ではありません。夜は一人で眠ってください」
「えぇ~……じゃあせめて、寝る前にナデナデだけでも」
「……誰が王子を撫でる侍女ですか。立場を考えてください」
「うぅ……僕だけには甘くしてくれるって信じてたのに……」
彼の“甘え”は日を追うごとに巧妙になり、私の忍耐もそれに比例して鍛えられていく。
けれど周囲の侍女たちは「殿下ってほんとに可愛いですよね!」と目を輝かせるばかりで、誰も真の姿を知らない。
私はエリナ・ローレット。
地方の小さな男爵家の三女として生まれ、十七で王宮に奉公へ出た。
当初は書記官付きの侍女として文書整理をしていたが、一年前、ある“偶然”から第五王子付きへと異動になった。
その日も、ただの仕事のつもりだった。
*
「……殿下? なぜそんなところに……?」
書庫の隅、ひと気のない読書机の下。
そこで私は、雨に濡れたまま蹲る金髪の少年を見つけた。
彼は顔を伏せたまま、ぽつりとつぶやいた。
「兄上たちと顔を合わせたくなくて。逃げてきたんだ」
濡れた衣を絞るように抱え込んだ姿は、まるで捨てられた子犬のようだった。
私はそっと、自分のマントを彼の肩にかけた。
そのとき、彼は初めて私を見た。
「君……やさしいね。でも顔に出さないところが、ずるくて好き」
それからだった。
彼が毎日のように私の元を訪れるようになったのは。
「お茶はエリナが淹れて。昼寝もエリナのブランケットがいい」
「そのわがまま、通じるのは私だけですよ」
「うん。だから君がいい」
侍女仲間からは「なんでそんなに懐かれてるの?」と驚かれるけれど、私自身にも理由は分からなかった。
ただ、彼の目に浮かぶ孤独と、どこか子どもらしさの残る甘えに、心が動いたのは事実だ。
*
「でも君って、本当はすごく冷たいよね」
「……突然なんですか」
「僕にだけしか甘くないっていうか。他の誰にも、そういう顔しないじゃん」
「……それは殿下が甘えすぎているだけです」
「甘えてるんじゃないよ。好きだから、触れていたいだけ」
「っ――なにをさらっと……!」
「ほら、そうやって照れてるところが、また好き」
何度こうして言葉を交わしても、彼は一歩ずつ距離を詰めてくる。
それに気づいていながら、私は拒めない。
「……もうすぐ、殿下の誕生日ですね」
「うん。今年はエリナからのプレゼントが欲しいな」
「気が早すぎます」
「でも楽しみにしてる。君のことだから、きっと実用的な何かなんだろうな~」
「予想するなら、自分で用意してください」
笑いながら、彼は何も言わずにこちらを見つめてきた。
私の言葉の奥を、じっと探るように――。
*
それは、ほんの些細な噂から始まった。
「第五王子に、隣国の王女との縁談があるらしいわよ」
「えっ、あの天使みたいな王子に? それってつまり、政略結婚……?」
「でも、それってつまり侍女のエリナさんとは……もう……?」
いつものように廊下を歩いていたとき、耳に入ってきたささやき声。
わざとらしく話すつもりもないのだろう。彼女たちにとって、私はただの噂の“対象”でしかない。
(……政略結婚。そうよね。私は侍女、王子とは釣り合わない)
レオン殿下と話すときは、つい対等のように会話してしまう。
でも――思い出すべきだった。私と彼との間には、どうしようもない“差”があることを。
「……おめでとうございます、殿下」
「……それだけ?」
「私は侍女です。それ以上の言葉は、立場を弁えなければなりません」
その瞬間、レオンの表情が揺らいだ。
言葉を返さない彼を見て、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
けれど私はその場から、そっと距離を取った。
このままでは、本当に彼の隣にいたくなってしまう。
それだけは――許されない。
***
「エリナさん、異動願いを?」
「……はい。元の部署のほうで人手が足りないと聞きまして」
「でもあなた、王子付きとして信頼も厚いし……それに」
「それに?」
「……第五王子殿下が、あなたの異動を許すとは思えません」
直属の上司は、書類を手に困ったように眉を下げる。
私の気持ちを察してくれているのだろう。でも。
「お願いです。今だけでも、少し離れる時間をください」
*
そして翌日、レオンがそれを知った。
「異動? エリナが? 僕のそばから、いなくなるってこと?」
「……ご不満でしたか?」
「当たり前だろ。なんで黙ってそんなことするの?」
「私がいると、誤解が生まれるからです」
「誤解なんてどうでもいい! 君がそばにいないほうがずっと困る!」
「――それは、私個人が、という意味ですか? それとも、侍女として?」
レオンは言葉に詰まった。
その沈黙が、私の胸に鋭く突き刺さる。
「……私は、ただの侍女です。身の程をわきまえないと」
「やめろよ、そうやって自分の価値を下げるの。僕にとって、エリナは“ただの侍女”じゃない」
「……」
「好きなんだ。君が、誰よりも」
言葉が、凍った時間を溶かすように届いてくる。
それでも私は、すぐには信じられなかった。
「ご冗談は、お控えください」
そう言って、その場を離れた。
背中に向けて、彼が静かに呟いた。
「君がどれだけ逃げても、僕は……君を手放さない」
*
すれ違いは、止まらないまま続いた。
顔を合わせる時間を減らしても、胸の痛みは強くなるばかりだった。
レオンは追ってこない。
それが、ますます私の迷いを濃くする。
(やっぱり、これは……終わったほうがよかったのかもしれない)
そう思った、ちょうどその日の夜。
私は静まり返った庭園で、再び“彼”と向き合うことになる。
夜の庭園は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
噴水の音だけが微かに響く。
月明かりが白く石畳を照らし、薄い雲が夜空をゆっくりと流れていく。
そんな中、私はいつもの場所に腰掛けていた。
誰にも見つからないように。誰の声も聞こえないように。
……なのに。
「やっぱり、ここにいたんだね」
振り向かずとも、誰の声か分かった。
「……レオン殿下」
「“レオン”って呼んで。今日は特別だから」
「何が“特別”ですか。あなたにとって、私は“ただの侍女”です」
「違うって、何度言えば……」
彼の足音が、すっと近づいてくる。
あと一歩で触れられそうな距離に立たれて、私は肩をすくめた。
「君が出した異動願、僕が止めたよ」
「……っ」
「君が僕のそばからいなくなるなんて、許せない」
「でも、私は……殿下にとって……」
「君は、僕にとって唯一なんだ」
私が否定の言葉を探す前に、彼の指先が私の頬に触れた。
それは、思っていたよりもずっと熱くて、やさしかった。
「君がどれだけ距離を置いても、君のことを忘れた日はなかった」
「……レオン」
「噂も嘘だった。嫉妬してほしかっただけ。僕がバカだった。全部、本気にされるなんて……」
彼の声が震えていた。
笑っているようで、泣きそうな声。
腹黒でずるくて、甘えん坊な王子が、今はただ一人の少年に見える。
「エリナ。君が僕を“王子”としてじゃなく、“レオン”として見てくれるから――だから僕は、君がいい」
「……」
「お願い。もう逃げないで。僕を、ちゃんと見て」
私はゆっくりと、彼の顔を見つめ返す。
泣きそうに笑うその瞳に、心がとろけていくようだった。
「……撫でて、いいですか?」
「え?」
「殿下がずっと甘えてきたように。私も、あなたに甘えていいですか?」
「……もちろん」
手を伸ばして、金髪をそっと撫でる。
彼は目を閉じて、私の膝に額を寄せてきた。
「……触れてもいい?」
その問いに、小さく頷いた。
彼の唇が触れたのは、私の額。
それから頬、そして――口づけは、やさしく、甘く、でも離れたくないと願うような、熱を孕んでいた。
しばらくして唇を離すと、彼は目を細めて、こう囁いた。
「君を妃にしたい。ずっと一緒にいてほしい」
「……冗談ですよね」
「本気だよ。明日、王に報告する。僕は、君以外いらない」
「……ほんとに、あなたはずるい人」
「うん。でも君が好き。ずっと前から」
胸の奥で、何かがほどけていくのを感じた。
もう逃げない。
この人が、私を“選んでくれた”なら――
私も、彼のすべてを受け入れよう。
そして翌日、王宮には正式な告知が掲げられた。
「第五王子レオン殿下、男爵令嬢エリナ・ローレットとの婚約を発表」
ざわめきが広がる中、私は、彼の隣に静かに立っていた。
「第五王子が、侍女と婚約――!?」
エリナ・ローレットの名が宮廷中に広まるのに、時間はかからなかった。
もとより男爵家の三女である私は、華やかな舞台とは無縁の存在だった。
その私が、“王子の婚約者”となったのだから、注目されて当然だ。
けれど驚いたのは、何よりも家族だった。
「エリナ、お前……本当に、あの殿下と……」
手紙越しに届いた父の筆跡は、震えていた。
信じられないというより、信じたくて仕方ない――そんな文字だった。
姉たちはそれぞれ、
「妹が王子妃になるなんて、夢にも思ってなかったわ」
「でもまあ、あの真面目な性格なら安心ね。王子様にもったいないくらいかも」
と、意外にも肯定的だった。
彼女たちにしてみれば、私はずっと“真面目で地味な末っ子”だったのだろう。
それが今や、王子の婚約者。
「信じられない」は、きっと私自身の感想でもある。
*
「エリナ~……こっち来て」
「ベッドの上で寝そべりながら呼ばないでください。まったく……」
寝室に入るなり、両手を広げて甘えた声を出す第五王子――もとい、私の婚約者レオン。
付き合っても、婚約しても、態度が変わるどころか、わんこ度はむしろ増している。
「ちょっとだけ。ね、腕の中……ほら、ここ」
「……甘えすぎですよ、殿下」
「“殿下”って呼ばないで。“レオン”でいい。僕の恋人なんだから」
「……はいはい、レオン」
私はため息混じりに彼の隣へ腰を下ろす。すると、待ってましたとばかりに腕を絡められた。
「ん~……やっぱ落ち着く。エリナの匂い、好き」
「犬ですか、あなたは」
「そうだよ? 君専用の、愛玩用わんこだもん」
耳元で囁かれて、びくりと肩が跳ねる。
そのまま、そっと頬を寄せられ、髪に口づけが落ちる。
「……もう、ほんとに。どこで覚えてくるんですか、そういうの」
「本能だよ。本能。君に触れたくて、くっつきたくて、キスしたくて、ずっと仕方なかった」
「……レオン」
彼の目は、いつかより少しだけ大人びていて、けれど私に向ける眼差しだけは――変わらない。
「僕さ、本当はちょっと怖かったんだ。君に触れて、拒まれたらどうしようって」
「……拒みませんよ」
「じゃあ……キス、してもいい?」
問いかける声は、切ないくらい優しかった。
私はゆっくりと頷いた。
「いいですよ。……あなたなら」
次の瞬間、唇が重なる。
静かな夜、ふたりだけの時間に、心と心が優しく溶け合っていく――。
「君が僕を“王子”としてじゃなく、“レオン”として見てくれたから、僕は君に恋をしたんだ」
「……そう見えてましたか?」
「うん。君の目はいつも、僕を特別扱いしなかった。だからこそ、君に選ばれたくて、ずっと頑張ってきたんだ」
「……ほんとに、ずるい人ですね。あなたは」
「君が、僕の全部を好きって言ってくれるまで、何度でも抱きしめるよ」
「……だったら私は、あなたのすべてを受け入れます」
「じゃあ、これからもずっと、君に甘えてもいい?」
「……いいですよ。けれど、最低限の礼儀と節度は守ってくださいね?」
「はーい、心に留めておきまーす」
「……心に留めるだけで実行しない顔ですね、それ」
「バレた?」
ふたりで笑って、また見つめ合う。
これから先、何があってもこの人となら大丈夫――そんな確信が、胸の奥に灯っていた。
――翌朝。
「エリナぁ……もう朝?」
「はい。殿下、起きてください」
「ん~……もうちょっと……抱き枕になってて……」
「あなたが私の膝を抱いてるんです。どっちが抱き枕なんですか」
「どっちでもいいよ。君がそばにいれば」
ぼさぼさの金髪のまま甘えてくるレオンに、私は額に手を当てた。
「いつまでこんな調子なんですか、婚約者としての威厳は――」
「エリナにだけは、ずっとわんこのままでいたいの」
「……そういうところが、甘やかしたくなるんですよ。わかってます?」
「やった、デレた!」
「……バカ」
「好き!」
「うるさいです」
「もっと言って~」
私は枕を彼の顔に押し当てながらも、どこか顔が緩むのを止められなかった。
この人は、きっとずっと私を困らせ続けるのだろう。
でも、それでいい。
私もきっと、ずっと彼を甘やかし続けるのだから。
「……不安、じゃない?」
「少しくらいは。でも、意外と平気です」
「どうして?」
「あなたが堂々としているから。私も、ちゃんと立たなきゃって思えるんです」
ふと漏らした私の言葉に、彼はやさしく笑った。
「君はそのままでいいよ。無理に“妃らしく”なんて思わなくていい」
「でも、世間はそう思わないかと……」
「世間がなんだ。僕が選んだのは、あのとき書庫でマントをかけてくれた君だよ」
彼の目はまっすぐだった。
嘘のない、ひとりの男のまなざし。
「君が僕を支えてくれるなら、妃としての器なんてあとからでいい。僕が全部教える」
「……ほんとに、甘やかしすぎです」
「ツンデレな君を甘やかすのが、僕の生きがいだからね」
「やれやれ……先が思いやられます」
「君を妃にする。それは、もう決めたこと」
「……責任、取ってくださいよ?」
「一生かけて取るよ」
甘えて、笑って、すれ違って、それでもまた惹かれて。
この関係は、きっとこれからも変わらない。
でも私は、彼のすべてを――この、愛おしいわんこ王子を、まるごと好きになった。