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天穹の一矢  作者: みつきあこ
第二章 日の沈む村
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夜道を行く

 薄暗い牢屋はじめじめと湿っていて寒い。


 窓などついていないので外の様子もわからず、心ごと冷えていくのを感じていた。一人になると、嫌なことばかり考えてしまう。落ち込まないように気を張っていても、それを長時間保つのは難しい。


「帰りたい……」


 朝日の昇る前から起き出して、自分たちの仕事を始めていたあの村。加胡をからかう滝波に苦く笑って、居心地悪く立ち去る。可児からの好意に困りながら、彼を仲間として好ましく思う葛藤。そういった日常の全ては、壊れてしまって戻らない過去の輝きになってしまった。


 牢屋の隅をねずみが走っていく。加胡がその動きを目で追っていると、誰かが降りてくる足音がした。


 ざ、ざ、と砂を踏み締めながら階段を降りる音が響きわたり、加胡は姿勢を正した。さっきの彼が戻ったのだろうか。少しでも情報を引き出せないかと、身構えて待つ。


 しかし現れたのは予想外の人物だった。


「加胡、助けにきた」


 暗闇の中、蝋燭の明かりに顔を近づけぬうっと姿を見せたのは、一人の青年だ。その声と輪郭には見覚えがある。祭りの夜に加胡へ危機を伝えに来た青年だった。


「あなた、あの時の……」


「し。戸を開けるから」


「見張りはいなかったの?」


「少しだけ眠ってもらった」


 そう話す青年は、青い顔をしていた。近くで見ると分かるが、元々肌が死人のように白い。そこから血の気が引いて、比喩ではなく顔が青く見えさえした。体調でも悪いのだろうか。


「待って、駄目。私だけ逃げられない」


 青年が戸の鍵を外そうとするのを慌てて制止する。彼は怪訝そうにしながらもきちんと手を止めた。加胡は事情を説明する。


「私だけじゃない……おじいちゃんや、他の女の人も捕まってるの。みんなのことも助けてくれる?」


「それは難しい。加胡一人ならば逃げ切れる可能性もあるが、老人や女性を複数連れて逃げれば、すぐ捕まるのが関の山だ」


「そんな……私だけ逃げたら、彼らに何をされるか、分かったものじゃない」


 それを聞いた青年は事情に納得したらしかった。そうか、と平坦に呟く。


「その件に関しては心配いらないだろう」


「どういうこと?」


 発言の意図がわからず思わず気色ばむ加胡に、戸惑いながら青年は続けた。


「彼女らは労働力として連れてこられている。君の親代わりの老人は、人質として捕まって生かされる。もし君に逃げられても、彼がいれば君が戻ってくるからだ」


 あけすけに告げる言葉には遠慮が感じられなかったが、加胡には逆にそれがありがたかった。下手に気を遣われて現状を正しく認識できなくなる方が恐ろしい。


「私が一度逃げても、助けに来るまでみんな無事だって言いたいのね」


「無傷かは分からないけれど」


 しかし、命あっての物種ともいう。彼らが殴る蹴るの暴行を受けると思うと胸が張り裂けそうになるが、このままここにいても、何一つ希望はない。それに、加胡が逃げ出したことで騒ぎが起きているうちに、弓を持ってここへ戻ればいいだけのことだ。


 そこまで考えて、思い至る。助けに戻るということは、再び人に矢を向けるということ。加胡はまた、人を殺すことになる。


「誰かを殺してまで、生きる……」


「同族を傷つけるのは心が痛むか」


 青年はようやく気遣わしげな声色で告げた。加胡は素直に頷く。


「怖い。人を殺すことも、殺せてしまう自分も……」


 今まで射たことがあったのは、鳥や兎、鹿などだ。そのどれもが食べるためであり、無用な殺生ではなかった。「生きるため」といえば同じ括りに入るのかもしれないが、それでも人を殺めることに抵抗がない人間の方が少ないだろう。


「けれど君は、もうずっとそうしてきた」


 青年の不意の一言に、加胡は呆気に取られる。彼は加胡を慮る仕草を見せながらも、ずばりと言った。


「狩りだって、他の命を貰い受ける行為だ。花を摘むことも同じ。大か小かの違いでさえ、ヒトが自分勝手に決めた尺度に過ぎない。それでも、同族だからやはり嫌だと、そういうわけなのか?」


「あなただって、人を殺すのは嫌でしょう」


 自分の葛藤を見抜かれ、頬がカッと熱を持つ。考えを見透かされたのが恥ずかしく、噛み付くように反論する。だが、青年はそれに答えなかった。


「君は命を奪うばかりではない。助け、育んでいる。それを忘れないで」


 彼は戸の鍵をあけた。ごとり、と重たい音を立てて木の板がずらされる。これで加胡は、いつでもここから出られる。


「君が選んで、加胡。ここに残るのも、出るのも自由だ」


「ねえ、待って。あなたは誰なの? せめて名前だけでも……」


 背を向けた青年の名を尋ねる。謎の多い人物だが、それくらいは知ってもバチは当たらないはずだ。


「……緑端(ろくたん)


 答えた彼の瞳は、寂寞の色をしていた。そこに痛みのような感情が映り、加胡はどきりとする。


 キン。


 金属を打ち鳴らす音がして、頭の奥が鈍く痛む。なんだろう、どこかで聞いたことがある、なにか──。


「逃げるなら早く、加胡」


「あ……!」


 青年、緑端は振り向かずに階段を上っていってしまう。呼び止めても彼は止まらず、加胡の伸ばした手は虚しく空をかいた。




 加胡が地上の出口から顔をのぞかせると、外は真夜中の静寂に包まれていた。


 新月の晩、心もとない星明かりだけが頼りだ。加胡は夜目がきく自分の目に感謝しつつ、あたりを伺った。


 見れば、出口のすぐそばに見張りが一人倒れていた。昏倒してはいるが、全くの無傷だ。一体緑端はどのようにして彼を気絶させたのだろう。


 他に見張りはいない。どの家も静まり返っており、逃げるにはまたとない絶好の機会だった。


 加胡は戦うことに決めた。小路や太月、そしてこれからも攫われ続ける、弓を持つ少女たちのため……なにより、自分自身の安寧のために。


 長い黒髪は、祭りの時に簪をなくしてから背を流れるままになっている。手入れができず絡まった髪を靡かせて、加胡は夜の森へと足を踏み入れた。


 日ノ入村は深い山の中にあり、いつ狼や熊が出てもおかしくはない。今の加胡は完全に丸腰であるため、出来る限りそういった野生動物との遭遇は避けたかった。そして村から距離を稼がなければ、夜が明けた途端すぐに見つかってしまうだろう。


 加胡は普段から山で狩りをする生活を送っていたため、山道には多少慣れている。しかし、それはあくまで「狩る」側だった時の話だ。自分が「狩られる」側になるなど、誰が予想できようか。


 獲物を追う身ではなく、追われる身となると、心持ちは全く異なる。草木をかきわけるたび、ざわざわと森が揺れる。加胡は恐怖に肩をすぼめながら、必死で山を駆け下りていた。


 どちらへ行けばいい。どこへ逃げれば弓が手に入る。どこへ行けば助けてもらえる。


 加胡の頭を恐怖と焦りが支配する。早くしなければと意識だけが先に立ち、冷静な思考力を奪い去っていく。加胡は道を踏み外しかけて、ようやく一度足を止めた。


 季節は冬だというのに、全身びっしょりと汗をかいておりとてつもなく寒い。祭りの晩に応戦しようと唐衣を脱ぎ捨ててしまったため、加胡が着ているのは薄汚い小袖のみ。温かさなど微塵も感じられなかった。 


 所々道がぬかるんでおり、足がずるりと滑る。短く悲鳴をあげる口を覆い、岩を掴んで滑落を止めるという事故が数回あり肝を冷やした。整備された登山道ではない上に、全く光源がない。加胡が足を踏み外していないのは奇跡としか言いようがなかった。


 このままでは、加胡が滑落するのは時間の問題だ。気が急くばかりで解決策を何も思いつかない加胡の目の前を、不意に光が横切った。


「え……?」


 それは、いつか見た麒麟だ。


 闇に溶けるような漆黒の毛並みから、柔らかく光を放つ二本の角が飛び出している。体毛は全身黒いが、角だけは白く半透明だ。その角が、あたりをぼんやりと照らし出していた。


 麒麟が加胡のすぐ足元を見る。すると、加胡がもう一歩前に踏み出せば、命が助からないであろう断崖絶壁が広がっていた。


 思わず腰を抜かして尻もちを着く。はあ、と口から漏れだした呼吸は呆然としていた。


「助けてくれたの?」


 早鐘を打つ心臓を落ち着けるために胸を押さえていると、麒麟は加胡の頭に額を擦り付けた。そして加胡の横をすり抜け、後ろへ頭をもたげる。加胡とその道を交互に見つめていた。


「ついてこい、ってこと?」


 麒麟の瞳が加胡を映し出す。どちらにせよ、この麒麟がいなければあたりの様子を知ることすら出来ない。加胡は麒麟について行くことにした。


 麒麟の角はうっすらと光を放っており、そのおかげで周囲の地面の様子などを確認することが出来る。麒麟は相変わらず宙に浮いていたけれど、歩きやすい足場を教えるように先を行くため、降りる時の労力や恐怖はかなり軽減された。


 なんだか、前にもこんなことがあった気がする。加胡は小骨が喉に引っかかったようなすっきりしない感覚を味わっていた。誰かが道を先導してくれて、私はそれについていって山を登って……。


 その瞬間、考え事に意識をとられていた加胡は足を滑らせた。


 あ、と思うも間に合わず、腰をしこたま打ちつけて岩場をずるずると滑り落ちた。幸い落ちたのは短い距離で済んだが、下山に集中しなければ、いくら光源があろうが危険なのだ。


 加胡が無様に転んだことに気がつき、麒麟が踵を返し様子を伺いにやってくる。恥ずかしくなって照れ笑いを浮かべるが、その時間近に迫った麒麟の後ろの右脚に、ひとつの傷跡を見つけた。


「この傷……」


 傷はもう治癒しており、茶色く引き攣った痕を残すばかりであった。随分昔の傷らしいが、深いものだったようで痕が完治せず残ってしまったのか。傷は矢傷のように見えた。


 その時、雷が落ちたように閃く。記憶の欠片がひとつ、ぱちりと音を立てて嵌った。


 幼き日に、川べりで矢を抜いた鹿に似た動物。矢を抜く痛みに耐え、鳴き声ひとつあげなかったあの生き物だ。


「あなた、もしかして、昔私が助けた……!」


 麒麟は数度瞬きをすると、嬉しそうに目を細めた。そして鼻先を加胡の胸元に押し当てる。どうやら正解のようだ。


「やっぱり! なんだか不思議な感じがしたんだ……また会えて嬉しい」


 たてがみを後ろへ撫で付けると、麒麟は喜んで頭を下げる。微笑ましく思いながら、そうしてつかの間再会の喜びに浸った。


「あれから傷はよくなったんだね。本当に良かった」


 麒麟は何度も加胡の手に擦り寄る。その動きは夢で見た麒麟と同じ仕草で、加胡は不思議な気持ちになった。


 けれどいつまでもそうしてはいられないため、触れ合いもそこそこに加胡たちは下山を再開した。


 まさかあの時の麒麟に再会できるなんて思わなかった。祭りの前、尾野村の傍で出会った時には全く思い出せなかったのが申し訳ない。懐かしい相手との再会は、悲しい出来事が連続していた加胡にとって心安らげる一時となった。


 麒麟は警戒心が強く、人に近寄ってこないと聞いていた。幼き日の加胡に懐くような仕草をしたのは、この子が特異だったのだろう。しかし、なぜあんなにも印象的な出来事を忘れていたのか。普通であれば、大人になっても語り草にするような大きな事件のはずだが。


 加胡は考えることを中断した。今はよそう。また足を滑らせて、谷底に落ちでもしたら笑えない。加胡は麒麟の足跡を辿ることに集中した。


 やがて数刻歩くと傾斜がなだらかになり、麓が近づいてきたことを実感する。その頃には太陽が昇りはじめ、東の空がほんの少しばかり黄色く色付いていた。


 夜通し歩き、加胡は疲れきっていた。足はぱんぱんに浮腫み、石を乗り越えようと膝を持ち上げるだけで一苦労だ。不安や焦りも疲労を後押しして、加胡は最早残された意地のみで歩き続けていた。


 目の前を行く角の光だけを頼りに、ふらふらと足を前に出す。それを続けているうちに、半分眠りに落ちながら加胡は草の中へ顔を突っ込んだ。うう、と思わず呻き声が漏れる。


「誰かいるの!?」


 女性の鋭い声に、加胡はびくんと目を覚ました。まずい、と焦るが、疲れきった足は急には止まらない。草で頬を切りながら、加胡は向こう側へ顔を出した。


 立っていたのは、かごを背負った女性だった。


 萌黄の小袖に身を包み、腰布はそれよりもすこしばかり色の濃い朽葉色をしている。下げ髪は綺麗にくくられており、着物の色は流行ではないものの、身だしなみに気をつかっていることが伝わってくる。女性はまだ若く、二十代半ばほどの見た目をしていた。草むらから飛び出してきた加胡が全身泥だらけの少女だと知ると、彼女は目を大きく見開いた。


「どうしたの、道に迷ったのかい?」


 どうやら彼女は日ノ入村の人間ではなさそうだ。加胡はそれだけ確認すると、安心感から座り込んでしまった。


「あらあら、大丈夫? どうしましょう、家まで歩ける?」


 優しい声に胸が震える。加胡は小さな声で、助けてくださいと呟いた。いつの間にか、麒麟は消えていた。

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