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天穹の一矢  作者: みつきあこ
第二章 日の沈む村
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麒麟

「そりゃあ加胡、麒麟じゃあねえか?」


「麒麟?」


 晩御飯の席で老年の男性が頷く。


 彼──太月(たつき)は、身寄りのない加胡を拾い育ててくれた養父だ。年齢でいえば祖父と言って差し支えないので、加胡は彼をおじいちゃんと呼ぶ。両親とは旧知の仲であり、加胡の引き取り手がいないと知ると、真っ先に名乗り出てくれたらしい。幼かったためおぼろげな記憶だが、一人になった加胡の手を握ってくれた際の感触は覚えている。かなりの歳だが畑仕事に精を出す健康な人だ。真っ黒に焼けた肌が着物から覗いていて、笑う度に白い歯がにかっと光った。


 不可思議な動物と遭遇した後、ぼんやりとしながら狩りを続けた。鳥を一匹仕留めたが、充実感はあまりなかった。あの獣が気にかかって仕方なかったのだ。


 太月ならば何か知っているのでは、と夕食の席で訊ねると、先程の言葉が帰ってきた。


「麒麟って生き物がいるのさ。鹿に似てるけど顔は龍、馬の蹄に牛の尾……亜麻乃津神(あまのつかみ)が天から降りてきた時に、一緒にやってきたって言われてる」


「へえ、そんな話初めて聞いたな……って、それじゃあ、伝説の生き物なの?」


 太月の発言に目を剥く。神話の生き物にしてはあっさり目の前に現れた。羽もないのに空を駆けたことなどは説明がつくが、それがなぜ加胡の前に現れたのだろう?


「加胡は清らかだからなあ。きっと麒麟にもそれが分かったのさ。さ、それより食事だ。加胡、礼を」


 話を切り上げようとする空気を察して、閉口する。これ以上は追求しない方がいいかもしれない。加胡は食事を前に正座して食前の礼を告げる。


宇守御霊之命(うかみみたまのみこと)よ、今日のめぐみに感謝します。命を巡り、巡らせたまえ」


 太月が後に続き、同じ言葉を繰り返す。するとようやく彼らは緊張を解き、食事にありつく。


 今日の主食は炊いた豆だ。薄茶色の皮がふやけて、中の白い身を覗かせている。


 尾野村での食事はいつも質素だ。強飯が出るのはよほどの祭事のみで、普段は麦や芋を柔らかく炊いて米の代わりにしている。というのも、尾野村では気候的に米を作ることができず、外から買い付けるしかない。だが尾野村は貧しく、米などの高級品を買う余裕はない。加胡でさえ、一度二度食べたことがあるかどうかだ。


 他にはすずしろが浮いている汁に、ほんの少しの醤。狩りが上手くいけば魚や肉が並ぶこともあるが、今日の取り分は全て子供のいる家庭へ回してしまったため加胡の手元には残らなかった。村の中では助け合って暮らさねばならない。たとえ加胡が手に入れた獲物でも、育ち盛りの子がいる家庭に渡すのが暗黙の了解なのだ。


 加胡は豆を口に運びながら静かに考えた。


 麒麟はなぜ私の前に来たんだろう。何かを伝えようとしていた? 悪意があるようには感じなかった。それに、おじいちゃんはどうして話したがらないんだろう。


 伝説の生き物なら願いの一つでも叶えてくれないかな。


 烏梅の祭りで誰も私に告白しなければいいのに、と考える自分が馬鹿馬鹿しく、口に入れた豆が苦味を訴えた。どうやら、まだ熟していなかったようだ。




 太月から麒麟のことを聞いた後、隣に住む幼馴染の可児(かに)を訪ねた。麒麟について知っているか、確認をしたかったのだ。


「ど、どうしたんだよ、加胡」


 時間が早いとはいえ、夜の訪問に可児は緊張していた。どうしたって、数日後の烏梅の祭りを意識してしまうのだろう。加胡はそれを気まずく思いながら、曖昧に微笑んだ。


 可児は恐らく、加胡のことが好きだ。


 加胡は、可児からの好意を実感している。小さい頃からともに食べ、眠り、生きてきた。その中でいつからか可児の目線に熱が篭もるようになったことに気がついてはいたが、知らないふりをした。そしてそれは、可児だけに留まらない。同じく村で育った男の友人たちは、皆ギラついた目で加胡を見つめるようになってしまった。


 ただ友人でいたいだけなのに、と加胡は思う。


 人口の少ないこの村で、誰とも結婚せず子供を作らず、なんて生き方が許されるはずはない。けれど、それでも加胡は嫌だった。


 私の胸の奥の孤独を、知ったかぶりをして、同情して、愛していると嘯いて、体を重ねる。友人では許されないその距離感が、加胡にはたまらなく不快だった。そして、それを望む幼馴染たちも。


 彼らを嫌いになりたくはない。だからこそ、加胡は何も見ていない、何も知らないと言う。今までそうしてきた。だというのに、烏梅の祭りはそれを全て丸裸にする。加胡の思いは、尊重されない。


「ちょっとね、聞きたいことがあって」


 しかし、嘆いたところで時間が止まるわけではない。加胡は、目下の興味について探ることで少しでも祭りから意識をそらすことを選んだ。


「麒麟って知ってる?」


「え、ああ。知ってる」


「可児も知ってるんだ。私は初めて聞いたよ」


「まあ、尾野村は宇守御霊之命信仰(うかみみたまのみこと)だからな、ここのやつらは知らないやつも多いよ。麒麟信仰が強いのはもっと南のほうだって、俺のじいちゃんから聞いたことある」


 可児にとってはどうやら既知の知識だったようで、彼にあたりをつけた自分の勘に間違いはなかったと知る。彼の祖父は信心深く、神話についても詳しかった。それならば、祖父に懐いていた彼もある程度知識があるのではないかと踏んだのだ。興奮を抑えながら、さらに詳細を尋ねる。


「見たことはある?」


「昔。じいちゃんが下の町まで作物を卸に行ってた時、見かけたことあるよ。変なやつだよなあ、鹿なのに空を飛ぶんだぜ」


「人懐っこい生き物なのかな」


 加胡の小さな一言を可児は笑い飛ばした。


「そりゃあねえよ、加胡。あいつら、警戒心の塊みたいなやつらだ。近くに行くなんてできっこない。俺が見たのだって、豆粒みたいに小さい姿だったからな」


「そうなの?」


 目を丸くした加胡に対し、可児は得意げに鼻の穴を広げて笑う。加胡が知らないことを知っているということで、随分気を良くしたようだった。


亜麻乃津神(あまのつかみ)が弟たちを引き連れて天からやってきた時、一緒に麒麟も降りてきた。で、亜麻乃津神はこの国を作り、麒麟はそれを見守る役目を仰せつかった……てわけさ。世界を見守るだけで、不干渉が奴らの決まりだからな」


 女神である亜麻乃津神は、天より降りてこの国──津ノ国を作った。弓の名手であった彼女は、大地に蔓延っていた瘴気を一本の矢で打ち払い、この国の祖先となった。数十年前にあった貴族の反乱によって神子の一族は滅んだが、以前は実際に直系の子にあたる神子が国を治めていた。


 そして亜麻乃津神の妹神、宇守御霊之命は豊穣を司る。彼女は、平定された世界に自分の体をばらまいた。その欠片が粉々になり、現在の米や豆の種となったのだそうだ。尾野村ではこの宇守御霊之命の信仰が主軸であり、烏梅の祭りについても、亜麻乃津神信仰と混ざり合った結果今の形になったのではないかと言われている。


 もう一人の弟神の須紗芹乃命(すさぜりのみこと)は、戦いの神で、とにかく気性が荒かった。地面を押し上げて、その結果隆起したのが今の山になっただとか、地団駄を踏んだときの穴が湖になっただとか、地形に関わる神話が多い。それゆえに実態がはっきりせず、姉である亜麻乃津神と争った結果奈落に封印された、というのが一般に伝わる話だ。


「で、話を戻すと、麒麟ってのは、亜麻乃津神のしもべなんだよ」


「しもべ?」


「うん。世界に干渉することを禁じられて、ただ神の目として見守っている神獣。だから殺生をすると、麒麟自身も死んじまうらしい」


 殺生を激しく嫌い、地面の草を踏むことすら恐れて、虫一匹殺せない心優しき生物。加胡は昼の美しい獣に思いを馳せた。


 草を踏めないから、宙に浮いていたのかな。だとしたら、なんて弱い生き物。


「でも、加胡がこんなに神話に興味があるとは思わなかったな。ほら、最近あんまり二人で話すってこともなかっただろ……」


 陶然と語り続ける可児の声は耳を滑り、麒麟の姿を思い起こしている加胡には届いていなかった。




 その後、まだ語り足りない様子の可児に無理やり別れを告げ、自宅へ戻った。


 早朝から狩りに出ていた男たちは、夜が耽ける前に床へ入る。普段であれば加胡も例外ではないが、今日ばかりは昼間の出来事が頭をよぎり、なかなか寝付けずにいた。


 薄く冷たい小袖を被りながら寝返りを打つ。尾野村は標高が高いため、朝晩は空気が冷え冷えとしてどうしても体が強ばってしまう。加胡は指の先を擦り合わせて、麒麟について思いを馳せた。


 可児との会話を布団の中で反芻しながら、目を瞑る。


 亜麻乃津神の子孫が、この国を治めていた神子。弟神がこの世界を形造り、妹神が恵みをもたらす。彼らのしもべたる麒麟は、それを見守る。


 麒麟が警戒心の強い生き物だというのなら、昼の麒麟は一体なぜ加胡の元へやってきたのだろう。


 霧がかった胸中をどうにもすることができないまま、加胡はうとうとと眠りに吸い込まれていった。




 夢を見た。


 大きな湖が目の前に広がる。水面は静かに凪いで、鏡のように加胡の姿を反射していた。美しく剪定された木々、世話の行き届いた花。天国のような光景だ。


 加胡はぼんやりとその湖を眺め、これが夢であると気がついていた。尾野村にこんな場所はない。畑は痩せ、土埃が立つばかりの村だ。


 ふと気配を感じて顔を上げると、昼に出会ったあの生き物が空から駆け下りてきていた。


 麒麟だ。


 麒麟は空中で足を何度か踏み込むと加胡の目の前までやってきて、湖の上に立ち止まった。水面に波紋がいくつも生まれ、輪が広がっていく。


「あなた……麒麟なの?」


 加胡が問いかけると、その生き物はぴたりと動きを止めて注視してくる。伏せがちに生えたまつ毛が震え、なにか言いたげに瞳を輝かせていた。


「私に用があるの? 何故さっきも現れたの?」


 なにも話さない獣がもどかしくなり、加胡は次々と問いを投げた。しかし、そのどれにも返答はない。焦れた加胡が歩み寄ろうと足を一歩踏み出すと、その瞬間、とてつもない風が吹き付けた。


 立っていられないほどの強風に吹き飛ばされないよう、体を丸める。肌を切り裂く風の中、あの麒麟は、と目を向けた。


 そこには、少年が立っていた。


 伸びた前髪が額を覆い、その黒髪の下からは同じく黒い瞳が覗いている。漆黒の少年。加胡はその姿にどこか懐かしさを覚えた。どこかで会ったことがあるだろうか。


 あなたは誰、と問いかけようとした瞬間、ひときわ強く風が吹いた。加胡はいよいよ目を開けていられず、体を後ろになぎ倒された。




「うわあ……っ!」


 倒れた瞬間、起き上がった。


 寝汗で首筋がべたついて寒い。寝巻と髪が大きく乱れたまま、加胡は呆然としていた。


 そうだ、これは夢だった。


 自分で夢だと思ったくせに、起きた瞬間驚くなんて。誰かに知られたら恥ずかしいことこの上ない。しばらくぼうっとしていれば、冷たい早朝の空気が加胡の体を冷やしていく。


 あの少年は誰なのだろう、と冷静に考えてみる。加胡が神子であったなら、これが夢のお告げとして何かを象徴していたのかもしれないが、あいにく神子などという高尚な存在ではない。


 考えてみたが、時間が経つにつれ少年の面影は薄れ、ぼんやりと霞んでいく。その正体を思いつくことができないまま、彼は輪郭だけを残して加胡の頭から消えてしまった。


 結婚したくないが故に、幻の男の子でも作り出そうとしてるのかな。


 加胡はほとほと自分に呆れ返った。烏梅の祭りまでは、あと数日しかない。

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