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天穹の一矢  作者: みつきあこ
第二章 日の沈む村
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狩りへ

 濃紺の緞帳を押し上げるように、橙色の光が東から差し込む。夜が明けていく姿はいつ見ても美しく胸を打つものだ。


 北部の山岳、遠くからその山並みを見れば美しい三角形をしているこの山の、切り立った場所に尾野村はある。この村の朝は早くから騒がしい。畑仕事に家畜の世話、あるいは狩猟に出る者。夜明けの頃眠りの縁にあるのは、日中織物などを行う女や、まだ幼い子供たちだけだ。都からは遠いため、多くの人が行き交う町の騒めきは乏しく、外から来た者であればやや寂れた印象を受けるだろう。貴重な水源である湧き水が村のすぐ脇にあり、水汲みの苦労が少ないことだけが嬉しいところだ。


 加胡は自前の弓を背負い、上半身をぐんと伸ばした。


 風を受けて、土と草の匂いを吸い込む。ものはついで、地面に落ちた水溜まりを覗き込み、身嗜みを確認した。


 宵闇のような黒髪で三つ編みを作り、後頭部ですっきり丸めているいつもの姿。体つきは痩せているからか貧相で、ほっそりとした顔の中で大きな碧の目が輝いている。藍染の小袖は繰り返し洗っているおかげでやや色が落ちていて、括り袴の裾も土や泥で黒ずんでいた。十六歳になる娘のする格好ではないが、狩りにはこれが最適なのだ。


 自分の姿を確認し、頷く。今日もいつもと同じだ。


 体をほぐし終えると、同じく弓を構えたガタイのいい男たちに声をかけた。


滝波(たきなみ)。私は北側に行くね」


「おう、加胡! 今日も期待してるぜ」


 滝波と呼ばれた男は、一際大きな体をしていた。厚い胸板をどん、と叩いて豪快に笑う。その裏表のない暑苦しいほどの爽やかさが、加胡には好ましく思えた。


 村では作物を育て家畜の世話も行っているが、村の食料として賄うにはあまりに心細い。そのため、数日おきに山林へ出かけて狩りをする。多くは屈強な男たちの仕事だが、加胡はその中に唯一、女として混ざっている。弓の腕を買われているのだ。


「加胡の弓は村一番だからなあ。そんな細腕でどでかい猪倒してきた日には驚いたぜ。思わず麓の村で自慢しちまったもんな」


 滝波の後ろからまた別の男たちが顔を出す。やんややんやと盛り上がり次々に加胡を話題にあげた。


「弓で加胡に叶うやつなんて村にはいねえよ。神様がついてるんだ」


「村どころか、世界を探し回ってもいないね! 麗しの弓使い、尾野村の女神様ってな。村の男衆はみんな誰が加胡を嫁にするかって今から牽制し合ってるぜ?」


「やめてよ、大袈裟」


 苦笑いをして肩をすくめる。これ以上ここにいると、褒められ尽くしで居心地が悪くなりそうだ。加胡は男たちにひらひらと手を振ると、北部の山へ足を踏み入れた。


 息が上がらないぎりぎりのペースで足を進める。物音を立てると獲物が逃げてしまうため、出来る限り足音や草木をかき分ける音を小さく心がけていく。


 加胡は獲物を探しながらも、こっそり嘆息した。


 烏梅の祭りまで、もう僅かだ。


 尾野村では、三年に一度ささやかながら祭りが開かれる。天上から降ってきた神が国を築いたという伝説による祭りであり、国が滅んでしまった今でも残る伝統だ。


 はるか昔、三柱の兄弟神が天からこの地へ降り立った。地上は瘴気に包まれ混沌としていたが、それを見かねた長女の亜麻乃津神(あまのつかみ)が、弓でもって穢れを祓い地上を平定したのだ。亜麻乃津神は地上に新たな国を造り、その後国は代々亜麻乃津神と地上の民の子が治めてきたという神話である。


 梅の実から抽出した染料で衣を紅色に染め、女がその衣を羽織る。国の祖とされる女神、亜麻乃津神に扮した女が地上の民役の男と共に舞い、供物を捧げるのだ。


 夜空の下、焚き火に照らされた舞手たちは美しく、加胡は昔からこの祭りが好きだった。だが、今年ばかりはそうも言っていられない事情がある。


 加胡は十六歳になる。とっくに結婚の適齢期は過ぎており、これ以上独り身でいることは不可能だろう。


 烏梅の祭りは信仰を表すだけではなく、男が女に結婚を申し込む場という側面も持った行事だ。神話の中で、地上の民は亜麻乃津神を祀り、こぞって彼女に求婚した。烏梅の祭りはそれに基づいた、求婚の行事でもあるのだ。加胡が祭りの日に結婚の申し出をされるだろうことは、ほぼ確定していた。


 村の男衆のことは好きだ。加胡が尾野村へやってきたのは六歳の時だが、それ以降幼い頃から野山を共に駆け回り、貧しい村の中助け合って生きてきた。


 だが、結婚となると話は別だ。加胡が彼らに抱くのはあくまで村の一員としての仲間意識であり、恋愛感情ではない。申し訳ないが、誰とも結婚したいとは思えなかった。


 しかし、烏梅の祭りで結婚を断る女など聞いたことがない。複数人から求婚され、その中から一人を選ぶという例なら聞いたことはあるが、加胡はそれも嫌だった。


 そもそも結婚をしたくないのだ。村は過疎の一途を辿っているためそんなわがままは通らないが、それでも一人になるとそのことばかり考えて、憂鬱になってしまう。


 加胡には親がいない。よく覚えていないが、どうやら火事かなにかで亡くなったらしい。親族のいない加胡は村の男に引き取られ、育てられた。


 親代わりの養父には感謝しているし、家族としての愛情も確かに感じる。けれど、ふとした瞬間に心の中を吹きすさぶ孤独は消えなかった。加胡はこの孤独に誰も触れられたくなかった。この寂しさを隠したまま誰かと一緒になり、子を作り暮らしていく──それが加胡には全く想像できなかった。


 前回の烏梅の祭りでは、「まだ養父とともに暮らしたい」と言って結婚を免れたが、今回はそうもいかない。むしろ、養父の方が「結婚してくれ」と前のめりになってすらいるのだ。ほぼ行き遅れの域に入った加胡を嫁に、と望んでくれる者が多いのは嬉しいが、加胡からすれば放っておいてほしいのが本音だった。


 きっと祭りの日には求婚を受けなくてはならないだろう。加胡はすっかり重たい気持ちで山を徘徊した。


 何度目かのため息をつこうとした瞬間、背後でがさり、と音がした。


 はっと気配を消して、姿勢を低く保ちながら振り向く。


 兎か、鳥か、猪か? ともあれ獲物ならば仕留めなければ。考え事を中止して矢筒に手を伸ばし、そろそろと構える。


 木のざわつきが大きくなる。こちらへ向かってきているのだ。ごくりと唾を飲み、心を落ち着けた。


 だがそこにいたのは、予想したどれでもない。真っ黒な毛並みをした、不思議な生き物だった。


 キン、と甲高い音が遠くで鳴った。


「え……?」


 思わず声が漏れる。その生き物は声に驚く様子もなく、ただつぶらな瞳で加胡を見ていた。


 その生き物は、鹿に似ていた。四足歩行の黒い獣。その頭部は、伝説に聞く龍のようだ。二本の角が獰猛そうな印象を与えるが、たてがみが柔らかい黒銀に輝いて美しく、透き通る黒水晶の瞳には知性を感じる。初めて見る生き物だ。


 その生き物を舐めるように観察して気がつく。


 この獣は、地面に足を着いていない。浮いているのだ。


 加胡は目を見開いた。この生き物は一体なんだろう。聞いたことも見たこともない。神聖さを形にしたようなその空気感に、思わず弓を下ろす。これは獲物ではないと本能が告げていた。


「あなたは……何……?」


 加胡が恐る恐る声をかける。その生き物は僅かに首を傾げるような仕草をした。言葉が通じるのか、よく分かっていないのか。加胡は初めて遭遇したその生き物に驚愕しつつも、これが悪しきものではないとなんとなく察していた。


 近寄ろうと一歩踏み出すと、獣はぴくんと鼻を鳴らし、天を仰いだ。そしてそのまま蹄を宙で打ち鳴らし、空へ駆けていく。加胡が止める間もなく、それは雲の隙間へ消えていった。


「なんだったの、今の……」


 加胡は呆然と空を見上げていた。この世のものとは思えないその生き物の穏やかな表情が、目に張り付いて消えない。

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