渦の中へ
気がついた時、加胡は家の布団に寝かされていた。
体を起こそうとしたが、全身に痛みと痺れが走り、全く動けない。発熱しているようで、体のあちこちが熱を持ち鉛のように重かった。
硬い布団の上で唸っていると、加胡の覚醒に気がついた父が部屋に入ってくる。腰を悪くした父は歩くのがやっとのはずだが、信じられないような速度で加胡の元へやってきて膝を着いた。
「加胡、加胡。わかるかい」
「おとうさん」
「ああ、目が覚めた。よかった」
父は濡れた声で唸り、目頭を押さえた。加胡は何が何だか理解出来ず、天井を見つめる。
「アセトの花……おかあさんは……?」
熱に浮かされたうわごとだと思ったのか、父は優しく頷いて額のタオルを交換してくれる。ぬるくなったタオルが枕元で濡らされて、再び冷たい感触を取り戻した。額に濡れた感触を感じて心地いい。
「お前は、二日前に勝手に山に入ってアセトの花を摘んできたんだ。森の入口で行き倒れているところを、阿南が見つけてくれたんだぞ」
「おかあさんは……」
「焦るな。お前の持ってきたアセトのおかげで熱は下がった。あとは体力が戻れば起きられるようになるとさ……お前の手柄だよ、加胡」
よかった、と呟く声は音になっていただろうか。加胡は心の底から安堵して目を瞑る。その拍子に、熱で浮き出た涙が一筋横へ流れていった。
「お前、全身ぼろぼろでよく帰ってこられたなあ。運がよかった。本当に……本当によかった……」
「うん……」
ぼうっとした頭で考える。私、どうやって帰ってきたんだろう。熱が高いせいか、よく思い出せない。
「お母さんに使ったアセトの残りがあるんだ、持ってくるからそれを飲んでもう少し眠りなさい」
父にそう言われると、それが正しいように思える。怪我人である今ならば、父もわがままを叶えてくれるかもしれない。加胡は熱を持った脳から直接降りてきた言葉を口に出す。
「また、あの子に会いたいな」
「あの子?」
「鹿みたいでね、でも全身真っ黒なの。白い角が生えてた……」
途端、父は静かになる。聞いていなかったのかと薄目を開くと、彼は驚愕した様子で言葉を失っていた。
「お前、その獣に何かしたのか」
「けがしてたから、手当した……」
父は黙りこくっている。加胡は自分が酷く恐ろしいことをしたような気になり、発言を取り消すように寝返りを打った。
「桃が食べたい」
「……そんな高級品、あるわけないだろう。馬鹿なこと言ってないで、大人しくしていなさい」
冗談だと思われたのか、父は笑って一蹴した。加胡は残念に思いながらも、やっとほっとして再び眠りに引きずり込まれていく。
なにはともあれ、これでお母さんは助かった。よかった、本当によかった。
父親が思索の海に沈んでいたことに、この時の加胡は気が付かなかった。黒髪の少年が一瞬脳裏を掠めたが、安心感という布団の中は心地よく、丸くなって眠りに落ちていった。
その後、加胡はしばらくの間横になって過ごした。アセトの残りを飲んだことで熱は引いていたが、念には念をと父が聞かなかったのだ。本当ならすぐに母のところへ飛んでいきたかったが、それが叶ったのは数日後のことだった。
うららかな午後の日差しが心地いい日だった。
母が布団から上体を起こしている。加胡はその膝の上に頭をのせて、すっかりくつろいでいた。母の熱は無事に下がり、加胡の怪我もほとんど完治した。母の命を救えた安堵と、山中で繰り広げた大冒険を誇らしく思う気持ちで、加胡はここしばらく上機嫌だった。
「加胡、お母さんにも聞かせて」
母が話をねだる。加胡が山に入ってアセトを採ってきた時の話が気になるらしい。父には既に話したが、母もまた加胡の口から聞くことを望んでいた。
「うん、あのね、真っ黒で綺麗な毛並みの鹿がいたの。でも鱗が生えていたし、なんだか鹿っぽくなかった……不思議な感じがしたよ」
記憶を蘇らせる。崖から落ちた加胡は、奇跡的に川に着水した。そして打ち上げられた岸で、怪我を負った獣を見つけたのだ。
「それは、龍のような顔つきで、毛が生えているのに鱗があった?」
「そうなの。初めて見たなあ」
母に詳細を言い当てられ、驚く。鱗がある魚は見たことがあるが、鱗がある鹿は初めてだ。
おかあさんは、あの獣のこと知ってるのかな。
首をかしげる加胡とは裏腹に、母は鬼気迫る表情で加胡を覗き込んでいた。
「それでその子を助けてあげたのね」
「うん」
「なんてこと……まさか麒麟と……」
「きりん?」
母は頭を抱えて深くため息をついてしまう。もしや、また体調が悪いのだろうか。心配した加胡が体を起こすと、母はゆるく微笑んで加胡の髪を撫でる。そして枕元に置いてあった札を手に取ると、加胡の前へ差し出した。
札には、見覚えのない渦を巻くような文様と、達筆な文字が書かれている。まだ文字を知らない加胡には難しく、内容までは分からなかった。
「なんでもないわ。加胡、この札をじっと見て。渦の中心を、瞬きせずにじいっと……」
「ん、うん」
言われるがまま覗き込む。渦を見つめていると、ただの文様であるそれが、回転しているように見えてきた。段々と気分が悪くなってきたが、目を離すことは許さないと言わんばかりに母が言葉を続ける。
「あなたにこれから暗示をかける。きっと必要になるまで、あなたはこのことを忘れてしまうでしょう」
「そうなの?」
「その黒い獣とは出会わなかった。あなたはアセトの花を取りに行ってもいないし、今日村から一歩も出ていない。霧の中にいるように、何も思い出せなくなる」
「うん……」
途端に、思考に靄がかかる。世界がぼんやりとした薄布の向こう側に行ってしまい、自分が自分である感覚が薄れていく。母の声だけが、耳元でしている。
「あなたが大きくなって再びこの札を見つめた時、記憶は全て戻る。これは大事にしまっておくからね……いつか、自分で必要だと思った時に取り出すのよ」
「おかあさんが出してくれないの?」
「あなたのことなのよ、加胡。お母さんは多分もう、長くない……血の濃くなった神子の体は強くないから」
母の声に諦めが滲んでいた。それが酷く珍しく感じて、加胡はぼやけた意識の中で思い返した。
母はいつでも毅然としていた。山のことや神様のことを何でも知っていたし、加胡が望めばいつだって教えてくれた。弓の腕は村一番で、男でもかなう者はいない。加胡にとって憧れの存在であり、いつかこんな人になりたいと目標にしているのだ。そんな母が、弱気になっている。いったいなぜ?
「おかあさん?」
舌ったらずな声に、母は我に返った。加胡の手を握り、今度は力強く宣言する。
「加胡、強く生きなさい。あなたには道を切り開く力があるわ」
母の顔色は悪かったが、それでも瞳には生の力がみなぎっていた。
「話は終わったか」
遠くで父の声がする。加胡が静かになったため、会話が終わったと思ったのだろう。加胡自身はまだ話したいことや聞きたいことがあったが、なぜか口が動かなかった。どうすべきか思案しているうちに話したいことが分からなくなり、思考が淀み、全てが自分の手から離れていく。加胡は、両親の会話を傍観していた。
「この子、やっぱり麒麟と会ったみたい。こんなの、私だけのはずだったのに……」
「麒麟と話してすぐ奴らに見つかるわけじゃない」
「そうだけど、この子も村の連中に目を付けられることになったら、後悔してもしきれない」
母の肩が震え、加胡を抱きしめた。腕を持ち上げることもできずぼうっとした加胡の頭を、母の手が何度も撫でる。
嗚咽が聞こえてきた。両親が深く悲しんでいるのは理解できたが、今の加胡にはどうすることもできなかった。そのまま泥に沈むように、重たいまどろみへと落ちていく。
眠りと覚醒のはざまで、自分の記憶が零れ落ちていくのを見ていた。
山で出会った不思議な生き物のこと。アセトを採ってくれた無口な少年のこと。崖から登ってきた彼の、悲しみと動揺に揺れた真っ暗な瞳、加胡をおぶった背中の柔らかさ、繋いだ手の冷たさ。
──ああ、行かないで。忘れたくない。緑端のこと、あの獣のこと。
伸ばした手はすり抜けて虚しく空を切る。剥がれた記憶が上へ舞い上がっていくのと裏腹に、加胡は下へと落ちていった。