光
全身が痛い。
獣の手当のせいもあり疲弊が凄まじく、一歩歩く度に強烈な目眩が襲ってくる。倒れそうになる自分を何度も励ましながらアセトの花を探していた。
するといつの間にか、後ろからがさがさと草木をかきわけるような音が聞こえてきた。
鹿、熊──なんだろう。
思考が鈍り、危機を回避する能力が落ちていた。加胡は振り向きながら、呆然と音の主が現れるのを待っていた。
音が近づく。いよいよすぐそばの草が揺れ、音の正体が現れた。
やってきたのは、予想に反してただの人間だった。
そこに立っていたのは少年だ。
歳は加胡と同じか少し上くらい。墨を溶かした黒髪は癖っぽく、あちこちが飛び跳ねている。瞳は、漆黒。目つきは鋭く切れ長だ。目の縁を辿るまつ毛が長く影を落としている。着物もまた暗い色をしており、肌だけが雪のように白く透けて眩しい。人とは思えない、妖しい魅力のある少年だった。
「あなた、なに」
少年の薄い唇が開く。涼やかな声だ。こぼれた音は片言で、言葉を覚えたての幼児のようだった。加胡は朦朧とする意識で、反射的に答える。
「私は、加胡……」
「加胡、なに」
「えと、向こうの山に住んでて」
「違う。なに」
少年は続ける。言葉が少なすぎて、何が言いたいのか分からない。加胡は眉をひそめて意味を考えながら、返事をする。何をしているのか、ということか?
「アセトの花、探しに来たの……お母さんが、熱で……」
ようやく、少年は納得したように頷いた。望んでいた答えはこれだったらしい。黒い瞳が加胡を見て、静かに納得している。
そして突然歩き出すと、加胡の右腕を掴み、山を登り始めた。少年の手はひやりとして冷たい。加胡は困惑するが、拒否する力も残されていなかった。空いている左腕は外れているし、このままついていくしかなさそうだ。考えることに疲れてしまったため、無心でそのまま後ろにつく。
少年はずんずんと歩を進めていたが、足を痛めた加胡が着いてこられていないと気がつくと、途端に歩幅が小さくなった。こまめに後ろを振り向き、加胡の様子を確かめている。そんな彼に心が温まり、加胡は久しぶりに笑顔を浮かべた。
「あなた、どこの子? 麓の村?」
加胡の質問に、少年は怪訝そうな顔をして無視をした。答えたくなかったのかと思うと、そんな質問をしてしまったことが途端に申し訳なくなる。加胡は肩を落とし、そのまま静かに少年の後ろを歩いた。
そのまましばらく歩いているうちに、気がつく。少年の後ろを着いていくのは、非常に歩きやすい。
一見獣道に見えるような場所でも、登ってみると傾斜が緩く、岩場でもないため歩きやすい。足を置く場所も的確で、そこを辿れば少ない労力でひょいひょいと登っていける。彼は山間部の出身なのだろうか。加胡は感心しつつも、詳しい話をするのは控えた。先程の反応を見るに、あまり探られたくない話のようだ。どこへ連れていかれるのかは分からないが、彼は悪人に見えない。悪いようにはされないだろう確信があった。
ふと、少年の歩みが止まる。顔を上げている彼につられて前を見ると、加胡は思わず歓声をあげた。
木々が途切れたおかげで景色が大きく開けて、遠くの山々まで見通せる最高の展望だった。山並みが遠くから近くに向かって段々と重なり、影の濃淡が変わっていく。夕焼けに染まりつつある橙色の空が山の頂の向こうに覗き、太陽はゆっくりとその身を沈めていく。ちぎれた雲に太陽の光が反射して、その反対側は鈍色に重たく浮いていた。
その光景に目を奪われていると、少年の手が離れる。何事かと思っていると、少年は不意にひらりと崖から飛び降りた。
ひゅっと呼吸が止まる。胃の底が冷える感覚に襲われて咄嗟に崖下を覗き込んだ。
そこには、平然と崖に張り付いた少年の姿があった。
「……なにしてるの?」
安心感に全身の力が抜け、一種の虚脱状態になる。胸を撫で下ろすと、次にやってきたのは呆れと怒りだった。
「危ないよ、そんなところ!」
少年はきょとんと目を見開き、そのまま崖を降り始める。加胡はあまりの恐ろしさに顔を覆い悲鳴をあげた。
落ちたら死んでしまう。さっきの私は何故か助かったけど、幸運はそう何度も続かないはず。
「戻ってよ。死んじゃうよ」
子供特有の裏返った声が、山々に高く木霊する。少年は何事もないかのように軽く手足を伸ばして崖を移動していく。まるで猿だ。加胡ははらはらと背中に嫌な汗をかきながら彼を見下ろしていた。
少年は五尺ほど崖をくだると、ようやく上へ戻ってくる。彼が手をかける石はなぜか固く崖に食いこんでおり、体重をかけても揺らぐことが一切なかった。
「ねえ、なにしてたの……」
詰問しようとした加胡の言葉は続かなかった。
少年は泣いていた。顔をすっかり青くして、この世の終わりのように涙を流している。白かった肌はいよいよ温度をなくして、その上を涙が転がり落ちていく。
「大丈夫? どうしたの?」
加胡が慌てて近づき涙を拭うとふるふると首を左右に振る。なんでもない、ということだろうか。加胡はすっかり困ってしまった。
この不思議な少年は何者なのか。普段の好奇心旺盛な加胡であればあれこれ詮索をする余裕もあっただろうが、今は満身創痍、いつ倒れてもおかしくない怪我人である。加胡は足の痛みに押し負けて、思考を中断した。
「アセト」
少年が言う。すると、着物の合わせから少量のアセトの花を取り出した。やや萎れているが、白い花弁に散らばる斑点。間違いなくアセトの花だ。
「すごい……これ、とってくれたの?」
目を見開くと、少年はこくりと頷いた。その拍子に顎を伝って涙が落ちる。胸の奥が熱を持ち、じんわりと感激が滲む。加胡は感情のまま、少年に抱きついた。
「ありがとう! 本当に……泣くほど怖かったんだよね、ありがとう」
少年は突然のことに困惑している様子だった。体を固く伸ばし、手が置き所を失って彷徨う。加胡は親愛表現もほどほどに少年から離れた。
「これできっと、お母さんも……」
希望が見えると、人間というのは力を発揮できるものである。加胡はすでに気力も体力も底をつきかけていたが、母の元へアセトを届けなくてはという使命感でのみ、立っていられる。
絶対に帰って、お母さんを助けるんだ。
加胡が気合いを新たにしていると、少年の体がぐらりと傾いた。
受け止めようと手を伸ばしたが、片腕が外れた状態ではろくに支えることもできない。加胡の努力も虚しく、少年は地面に倒れ伏した。
「ねえ、どうしたの? 大丈夫?」
足を引きずり、少年の側へ屈み込む。肩を揺さぶるが、少年は苦しげな呻き声をこぼすばかりだ。加胡はすっかり弱ってしまい、おろおろと周囲を見渡すことしか出来なかった。
「君、どうしたの? 怪我したの?」
少年の額には脂汗が滲んでおり、眉根を寄せて苦悶の表情を浮かべていた。呼吸は荒く、薄い体が膨らんでは萎み必死で空気を取り込んでいる。
どうしよう。こんなに山奥で、私もあちこち怪我をしていてこの子を背負うなんて出来ない。
現状を確認しなければならない、と頭の冷静な部分が告げる。どんな非常事態でも落ち着いて考えなさい、というのは母の教えだ。
山の中では、焦りや油断が命取りとなる。人間の領域から離れていることを自覚しなければだめよ。
母親の声を脳裏に呼び起こしながら、ひとまず熱が出ているのかと少年の額に手を当てた。
その瞬間、ぱっと光が咲いた。火打石を打ち付けた時のように閃光が弾け、加胡は眩しさに耐えかねて瞼を強くつぶる。思わず両手で顔を庇った。
その光は一瞬熱をもたらしたが、すぐにすぅと消えた。熱い、と認識するよりも早く霧散したその感覚は、もしかすると錯覚だったのかと思ってしまうほどだ。
まるで、私の中からこの子へ熱が移ったみたい──。
おかしく思いながら恐る恐る目を開くと、そこには同じように戸惑った顔つきの少年が横たわっていた。
「今……なにがあったの?」
加胡の言葉に、少年がかぶりを振る。彼自身も何があったのか分かっていないのだ。彼はゆったりと体を起こすと、両手をじっと見据えた。挙動を確かめるように握って開いてを繰り返すと、やはり不可解そうに首を傾げた。
「君……」
少年は何か言いたげに唇を震わせたが、いくら待てども言葉は続かない。二人は呆然と座り込みながら顔を見合わせていたが、烏がカアとひと鳴きし、それどころではないのだと我に返った。
「とにかく、大丈夫そうなら山を下りなくちゃ。もう日が暮れちゃう」
裾についた土を払い、少年へ手を貸す。彼は多少ふらつきながらも立ち上がり、なんとか一人で立ってみせた。
少年が帰る村はどこなのだろう。麓の村だとするならば、加胡の村とは方向が異なるはずだ。ここで別れることになるのか、と逡巡している加胡の前に、汚れた手のひらがにゅっと差し出された。わけも分からずその手を取ると、少年は手を引きながら歩き始めた。この期に及んでまだどこかへ行くのか、と身構えるが、そういう気配でもない。
「もしかして、送ってくれるの?」
少年は明らかに体調が悪く見えたが、その言葉にはしっかりと首肯した。
日は落ちて、もうすぐ山は真っ暗になるだろう。その中で幼子が下山するのは無理だ。加胡は不安を感じながらも、少年を信頼して任せることにした。
この子は崖も平気な顔で降りるし、きっと慣れてるんだ。任せた方が安全かもしれない。
加胡は人を見る目には自信があった。幼少期特有の感の鋭さも多分に含まれていたが、それでも信頼出来るもの、人を感じ取る力は一級品で、村でも一目置かれるほどだった。
私は、この子を信じる。
そう決めた途端、心が通じたように少年は歩き出した。周囲は既に薄暗い。加胡は足を踏み外さないよう、慎重に少年の足跡を追いかけた。
いよいよ辺りが真っ暗になる。先程まで森の音楽のようで耳障りの良かった木々のざわめきが、夜になったというだけで不気味で恐ろしいものに変化する。ざわざわと彼らが騒ぎ立てるたび、加胡はびくんと体を震わせてしまうのだった。
少年と繋がれた手のひらにぐっと力を込めると、必ず彼は手を握り返してくれる。大丈夫、と安心させるその動きが泣きたくなるほど嬉しかった。
川に一度落ちたせいで現在地が全く把握出来ていなかったが、少年には全てを見通す目でもあるのか、すいすいと山道を進んでいく。村に近くなってきたのか、道に見覚えがないでもない。
するとほっとして緊張が解けたのか、全身の痛みがぶり返してきた。加胡の歩みは鈍くなり、明らかに速度を落としていく。
加胡が疲弊していることに気がついたのか、少年はぱたりと止まった。肩で息をしながら少年を見つめると、彼はしゃがんでこちらに背中を向けた。
「おぶってくれるの?」
返事はないが、恐らくそういうことだろう。申し訳なく思いながらも、これ以上は歩けそうにないと判断し甘えることにした。
「ごめんね。ありがとう」
少年は何も話さないが、確かに加胡を気遣う心が伝わってくる。少年の背は痩せていても、柔らかな心地がした。
「ね、名前だけでも教えて」
麓の村に住んでいるのなら、いつか山を降りた時に会えるかもしれない。せめて名を、とせびると、少年は無愛想に呟いた。
「緑端」
「緑端? 緑端ね……覚えた!」
命の恩人の名は、加胡の胸を湧かせた。何一つ話そうとしない少年の唯一の持ち物だ。加胡は大切なものを愛でるように、何度もその名前を呼んだ。
「緑端、本当にありがとう」
首に回した腕を組みなおす。すこしでも緑端の負担が軽くなるように、とあれこれ考えるが、逆に暴れない方がいいと思い直し大人しく背負われる。加胡が一方的にお礼を言うのみで、緑端はそれになんの反応も示さなかった。
けれど、それでもいい。彼はお礼を受け入れていないわけじゃない、と空気で何となく伝わってくる。加胡は不思議な空間をどこか楽しみながら、背で揺られるうちに微睡んでいた。
緑端が麓の村の子なら、また会えるかな。今度は二人とも元気な時に。そうしたら、次は思いっきり遊んで、話をしよう。一緒にご飯を食べて、眠って、私の弓の腕前も見せてあげる。今はまだ練習中だけど、そのうちおかあさんみたいに上手になるんだから。
「また会えるよね、緑端」