出会い
地面に点々と光の粒が落ちている。
見上げれば、彩度の低い冬の青空が他人事のように覗いていた。憎らしくなるほど爽やかな陽気だ。土からは木の根が歪に露出して、うねうねとその身をくねらせ足場を悪くする。黄色い花をいくつかつけた山の草は、村の近くにも群生しているのをよく見かける。その上で木々の隙間から透けた光が踊っていた。
いや、正確に言えば落ちているのは影の方だ。風が吹くたびに揺らぎ、葉の影と光の形を変える。陽の光が遮られた木陰は冷気を含むしんとした空気をしており、まだ六歳の幼い子供が一人歩くには少々不安がある道であった。
少女──加胡は、足取りも軽く山を登っていく。そこに迷いはない。幼さゆえの恐れを知らぬ勇ましさか、目的のために己を奮い立たせているのか。自分自身にも分からないまま、加胡は急斜面をよじ登り山奥を目指していた。この辺りはまだ何回か訪れたことがある場所だ。村へ帰る道も分かっている。あの時は母と一緒にいたためなんの心配もしていなかったが、今は加胡一人。何か一つでも間違えれば無事に帰ることはかなわないかもしれない。
加胡には、それだけの危険を冒してでも山へ出向かなければならない理由があった。
母親が病にかかり、高熱を出した。
幸い、人から人へは感染しないものであったが、高い熱と嘔吐によって母親はみるみる衰弱していった。貧しい山間部の村にある薬などたかが知れている、このままでは母にいずれ死が近づいてくるのは子供にも理解出来た。
そんな時、強い解熱効果を持つ薬草が北の山に生えている、という話を耳にした。村の男衆が噂していたのだ。
「アセトの花は、高熱に効く。聞けば北の山に生えているのを見たってやつもいるじゃないか。だから、李那の熱もそれがあれば……」
「駄目、駄目。アセトは崖にしか生えないんだよ。そんな危ないところまで誰が行けるって言うんだ? 旦那は随分前に腰を悪くして、歩くのがやっとじゃないか。加胡はまだ小さいし……」
加胡はそれを聞いた途端に山へ走り込んだ。母を助けるためにはこれしかない、と幼いながらに感じとったのだ。
──山へは、子供だけで入ってはいけないよ。
それは、大人たちから口酸っぱく言われてきたことだった。山は子供が思うほど安全ではない。
しかし、母親は病に伏せっており、父親はその看病で忙しい。加胡を止める者はなく、一人愚行に走ってしまったのだった。
加胡は荒く息をつきながら、岩に手をかけた。崖というほどではないが、子供が登るにはかなりの急登だ。よじ登るように短い手足を必死で伸ばし、目的のものを探し回った。
アセトの花は、昔見た事がある。
小さくて白い花に、茶褐色の斑点が散っている。高所の崖にしか生息しない植物だが、昔、山へ狩りに出かけた若い衆がたまたま見つけて持ち帰ったのだ。薬になることは広く知られていたため、村では軽いお祭り騒ぎだった。それほどに希少なものである。
さらに標高を上げるため、うまく乗れそうな足場を探す。そのために足元を見下ろすと、びゅう、と強い風が加胡の髪をさらった。
高い。眼下には大きな川の流れる谷が見えており、ここから落ちれば命が助からないだろうことは明白だ。
その危険を理解すると、途端に頭が真っ白になる。呼吸が上がり、歯の根がガチガチと音を立てる。血が下がり、意識が遠のく感覚に必死で抗い、崖に体をへばりつかせた。
それでも、見つけなければ。そうでなければ母の命は失われてしまう。優しくて温かい、あの手のひらが加胡を撫でてくれることがなくなってしまう。
加胡は弱気になる自分を叱咤した。
必ず見つけて帰る。私がお母さんを助けるんだ。
しかし、現実は甘くない。上の岩場へ登ろうと加胡が木の根を掴んだ瞬間、それはぼきりと音を立てて折れた。
え、と思う間もなく、体が浮き上がる。慌てて岩を掴もうとした手は空を切る。高く引き攣れた悲鳴をあげながら、加胡の体は谷底へ吸い込まれていった。
全身が冷たい。鈍痛に支配され、体中がどくりどくりと脈打っている錯覚さえ覚える。ぺったりと着物が体に張り付いて気持ちが悪く、その不快感に呻いていると、なにかが加胡の顔をつん、と押した。
はたと目を覚ますと、その生き物と目が合った。
目の前には、漆黒の毛並みをした鹿のような生物が立っていた。
顔つきは鹿よりも凛々しく、どこか神々しい。長いたてがみも墨を流したように黒く、風に揺られてなびいている。そもそもこんなにも黒い毛並みの鹿など見たことがないため、きっとほかの生き物なのだろう。よく見れば、首から胴体にかけて、黒く煌めく鱗が綺麗に並んでいた。加胡は体を起こすことも出来ないまま、その生き物の黒い瞳を凝視していた。その頭部には角だけが二本、白く輝く。こちらの顔を覗き込むその獣に、加胡は再び失神しそうになる。
寝そべったままあたりを見渡せば、加胡が目覚めたのは谷底の川べりだった。どうやら運良く深い川に着水し、気絶したまま岸に打ち上げられたらしい。
もし浅瀬に落ちていたら。もし地面だったら。考えるだけでぞっとして肝が冷える。加胡が生きているのは奇跡だ。
しかし自分の強運に感謝する間もなく、この生き物をどうするべきかの問題に直面した。
どうしよう。熊やなにかのように、人を襲うものなのかな。それとも、私が倒れていたから好奇心で近寄ってきただけ? どうするのが正解?
山で未知の生物と遭遇した時の対処法など、幼子が知る由もない。加胡は散々迷った挙句、鹿じみた獣に語りかけることを選んだ。
「あの、こんにちは」
川沿いの砂利に顔を埋めたまま、引きつった笑みを浮かべる。例の獣は鼻を鳴らして加胡の匂いを嗅ぐと、僅かに首を傾げるような動作をした。
「あなた、鹿……? でも、少し違うね……なんだろう」
話しているうちに、少しずつ緊張が薄れていく。よく見れば、つぶらな瞳をしており愛らしい顔立ちではないか。加胡はいくらか強張りの取れた微笑みで挨拶をし直す。
「私、加胡。向こうの山に住んでるの。よろしくね」
獣は答えない。ただじっと、全てを見透かすような黒い眼が加胡を見据える。じっと目線を受け止めるのは耐え難く、お返しと言わんばかりに獣を観察すると、おかしなことに気がついた。
四本の足が地面から離れている。地面から三寸ほど、宙に浮いているのだ。
加胡が驚愕していると、もう一つ発見があった。どうやらこの生き物は、後ろの右脚に怪我を負っているようだった。
「あなた、怪我してるの?」
加胡の問いを理解したように、獣は後ろを振り向く。加胡は軋む体に鞭を打ち、体を起こして傷口をよく観察した。
足には矢が一本刺さっている。村で使われているものではない。麓の猟師のものだろう、矢尻が重たい石で出来ており、威力のあるものだった。傷口からの出血は激しくないものの、暗い血がだらだらと流れ出ており、痛ましい。
加胡の住む集落でも鹿や猪を狩って食べる機会はあるため、一口に「可哀想だ」と憤慨することはできない。だが、現状食用としてではない生き物が目の前で傷ついているとなれば、どうにかしたいと思ってしまうのが人間の性というものだ。
加胡はそうっと手を伸ばし、獣の脇腹を撫でさすった。
「痛いでしょう。どうしよう……」
獣は懐いたように加胡の胸元へ鼻先を擦り付けた。それがこそばゆく、笑いながら受け入れる。どうにか出来ないか、と辺りを見回すと、川沿いにある植物を発見した。細長い葦にも似た新緑の葉が揺れている。
「あ……プロフェだ!」
プロフェは、山の川沿いに生える植物である。その葉には、止血や消毒の効果がある。獣の足の矢を抜いてからすぐに塗りこめば効くかもしれない。どちらにせよ、矢が刺さったままでは衰弱して死んでしまうだろう。やる価値はある。
立ち上がって摘み取りに行こうとすると、膝ががくんと落ちた。右の足首が脈打つように鈍痛を訴え、顔を顰める。おまけに左肩が外れたようで、全く上がらない。どうやら水に落ちた時、全身をしこたま打ち付けたらしい。致命傷ではないとはいえ、他人の手当をしている場合ではない怪我をしていた。
「でも、やらずに後悔するより、やって後悔したいもの」
笑っている膝に力を込めて立ち上がる。加胡には、この獣を見捨てることが出来なかった。
「少し待っててね」
獣に言い残すと、足を引きずりながら川岸へ向かいプロフェを摘む。どれだけの量が必要なのかという知識もないため、多少多めに採集して、口の中で謝る。
「ごめんなさい、たくさん取るつもりはありません。でも、あの子の命を助けたいんです。どうか許してください」
山で無闇矢鱈に採集してはいけない、というのは物心着く前から教えられていた。沢山生えているからと全てを採ってしまうと、次の芽が出なくなり、その植物が手に入らなくなってしまうからだ。何事も、少しずつ。山に分けていただくと思いなさい、と母は言っていた。
摘み終えるともう一度だけ頭を下げて、再びひょこひょこと不格好に歩きながら獣の元へ戻る。獣は言いつけ通り動かずに加胡を待っていた。
もしかしたら、この子は想像以上に賢いのかもしれない。加胡は不思議な高揚を覚えていた。言うなれば、飼い犬が芸を覚えたような、未知の可能性に興奮するような感覚。初めての感情に戸惑いつつも、加胡は母が薬を作る時の手つきを思い出そうとしていた。
プロフェの葉は、すり潰して汁を使う。あとは、傷口に葉をくっつけておくと包帯のように使える。
母の声が蘇る。加胡は興奮と緊張が綯い交ぜになった不安定な状態で、額に汗を浮かべながら葉をすり潰した。
川岸の石で適当に押し潰した葉からは、独特の匂いがする汁が染み出していた。ツンと鼻をつく匂いは、村でも嗅いだことのあるものだ。加胡は恐る恐るといった体で獣に声をかける。
「あのね、これから矢を抜くから……多分ものすごく痛いと思う。でも、頑張ってほしいの」
もし痛みに耐えきれずこの生物が暴れれば、加胡は簡単に死んでしまうだろう。
興奮した馬に軽く蹴られただけでも大怪我をするのだ。鹿のように大きな体をしたこの生き物に蹴られれば一溜りもない。加胡は母のために薬を持ち帰らなければならないため、死ぬわけにはいかなかった。
「私、やらなきゃいけないことがあるの。だから、死ねない。あなたが暴れないって信じて矢を抜く。お願いね……」
加胡が震える手で獣のたてがみを撫でる。すると、獣はかすかに頷くような動作を見せた。それは、加胡が都合よく解釈しただけだったのかもしれないが、まだ幼い加胡の心を勇気づけるには十分だった。
ふぅっと深呼吸をして覚悟を決める。血まみれの矢を右腕で握る。
「抜くよ」
声をかけてから間髪を入れず、腕に力を込めて思い切り引き抜いた。
獣が大きく口を開き、天を仰ぐ。鳴き声はしないが、大きく叫んでいることだけは伝わってきた。加胡は自分自身の体の痛みと戦いながら、歯を食いしばって必死に矢を引っ張った。傷口から新たな血液が溢れ、加胡の着物を赤く染める。
矢尻には大きな返しがついていないことだけが幸いだった。矢が当たった時か、その後逃げ惑った時か、矢尻の大部分が折れて欠けていた。時間はかかったものの、じわじわと矢が抜けていく。その間、獣は吠えるように何度も首を曲げたが、一度も暴れるようなことはなかった。
ようやく矢を抜き終えた時、加胡は血と汗で全身を濡らしていた。やった、と思うこともなく、すぐにプロフェの汁を擦り込む。そして上から包帯を巻くように葉で傷を覆うと、ようやく一息つく。加胡は大きく息を吸って、地面に尻もちを着いた。
「できた……」
加胡と同じく、獣も疲労困憊といった様子で俯いていた。先ほどまでは地面から浮き上がっていたが、今はそれも難しいらしい。床に座り込み、ぐったりと体を投げ出している。傷に勝てなければこのまま弱ってしまうかもしれないが、これ以上加胡にできることはなかった。
「痛かったね……ごめんね」
加胡は半泣きで獣の頭に触れる。それを心地よく受け取るように、獣は目を伏せた。
やりきったような達成感と疲労感だが、加胡の本命はまだである。休憩もそこそこに、今度は自らの目的を達するために歩き出した。
「元気でね」
獣に声をかけると、ぱっと顔を上げて加胡を見た。何か言いたげなその目線に含まれる感情を上手く読み取れず、首をかしげる。動物の心を読み取れるような特殊な力でもあればよかったが、あいにくそんなものは持っていない。加胡は残念に思いながらも立ち去った。振り返ると情がわいてしまいそうで、背中に目線を感じながらまっすぐ歩み去った。