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天穹の一矢  作者: みつきあこ
第三章 山中の一夜
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決意

「山菜、たくさん採れたね。おとうさんも喜ぶかな?」


「きっとね」


 籠を抱えた母と手をつなぎ、山を歩いていた。晩秋、午後には傾き始めた日が山際へ落ちていく。穏やかな母の横顔が赤く照らされて眩しかった。


 以前いた集落からは居を移し、今は山の中でひっそりと暮らしている。一緒に遊ぶ相手がいないのは寂しいが、両親の沈んだ顔を見ていると文句を言うのはいけないことのように感じた。


 母の体調はこのところ芳しくない。起きていられる時間が短くなり、食事もほとんどとらない。引っ越した理由を加胡は知らないが、母の体調の為ではないかと考えている。こうして山菜を採りにいけるほど体調がいいのは珍しく、加胡ははしゃいでいた。


 やがて家に帰りつく。すると戸が開けたままになっており、加胡は疑問を覚えた。


 両親は共に厳しく、扉を開けたままにしておくことを許さない。前にそのまま出かけようとした際は、きつく注意されたものだ。だからこそ、出かける前にきちんと閉めたはずだった。


 ──でも、おとうさんが開けたのかもしれないし。


 加胡は違和感に蓋をして、今日の成果を父に自慢しようと家の中へ飛び込んだ。


「戸が、なぜ……待って加胡、なんだか様子が……」


 母が呼び止める声は一歩遅かった。


「おとうさ、」


 ツンと鼻をつく匂いがした。


 まず、赤。壁と畳に、赤黒い染みが広がっている。一人の人物を中心にして、その飛沫は狭い部屋一面を彩っていた。出かける前まで母が寝ていた寝具の上に倒れこみ、だらしなく四肢を投げ出しているのは、出かけていく加胡を笑顔で見送ったその人だ。寝具と衣服を赤褐色に変色させ、その赤い水たまりは今なお広がり続けている。表情までは、ここからではよく見えない。


「宗明さん」


 母が言う。加胡は母の言葉を疑った。


 この人はおとうさんじゃないよ。おとうさんが「こんな」になるはずない。おとうさんは……。


 棒立ちの加胡の横をすり抜けて、母は草履のまま家の中へ上がった。足がもつれ転ぶようにその人の前に膝をつく。


 母が遺体の頬をなぞる。その人物が息絶えているのは加胡でも理解できた。しかし、そこから先が分からない。加胡の家で死んでいるこの人は、いったい誰?


 時間にすれば、一瞬にも満たなかったのかもしれない。その一瞬が永遠に感じられるほど間延びして、加胡を混乱させる。


 わからない、なにもわからない。


 母は不意に立ち上がった。一言も告げぬまま部屋に置いてあった弓を手に取り、矢筒を背負う。


「加胡、草履をきちんと履いて。行きましょう」


 土間に立ち尽くしていた加胡の手を母がとる。呆然としたまま、引きずられるようにして家を出た。

 それから、母は駆けだした。加胡は緊迫したその雰囲気に飲まれ、母の背中を追う他なかった。呼吸があがるたび、母が唇に指をあてて「しぃ」と言う。足場の悪い森の中を急ぎ加胡は肩で息をしていたが、文句を言える状況ではなかった。疑問も泣き言も許されない。


 加胡の手を引き、森の中を走っていく母は泣いていた。


 それが、加胡をなにより打ちのめした。家で死んでいたのが誰なのか、本当は分かっている。しかし理解してしまえば足が止まってしまう。加胡は意図的にその事実から目をそらして、ただ走った。




「すみません、ごめんください!」


 どれだけ走ったか、喉の奥に血の味が滲む頃、母は山中の家屋の扉へ呼び掛けた。とうに日が暮れ、真夜中と言って差し支えない時間帯である。家の明かりは消えており、中に人がいたとしても寝入っているであろうことが分かった。


 母が二、三度呼び掛けると、中から物音がし、やがて蝋燭を手にした男性が出てくる。

「なんだ、こんな夜更けに……」


「夜分遅くにすみません。太月さん、李那です。宗明の妻の」


「李那かい。ああ、娘も一緒とは。いったいどうしたんだ。息子は……」


「村の者に見つかりました。宗明さんは、もう」


 その一言で、太月と呼ばれた男性には事態が把握できたらしい。沈黙の後、そうか、と呟き眉間を指で押さえる。


「太月さん、ごめんなさい。この子……加胡だけでもかくまってもらえませんか」


 母の影からこっそり覗けば、そこには大柄な老年男性が困惑した様子で立ち尽くしていた。蝋燭の乏しい明かりでも、彼がよく日焼けしていることが分かる、精悍な顔立ちをしていた。


「あんたはどうするんだ、李那」


「私は戻ります。彼らは私が見つかるまで諦めないでしょうし、ここが嗅ぎつけられたら、太月さんも加胡も危険にさらしてしまう」


「おかあさん、どこ行くの? おとうさんは?」


 疲れ切った加胡は、足の痛みに耐えながら母に縋りつく。このまま離れれば二度と会えない予感がして、加胡は必死に抱き着いた。


 母は瞠目し加胡の前にかがむと、見覚えのある札を取り出した。


「大丈夫。また出会える。それまでのお別れなだけ」


「置いていかないで……」


 母は加胡へ微笑みかけ、札を掲げた。


「ごめんね、加胡」


 渦が回転する。激しいめまいに襲われながら、母の手が離れていくのを感じた。


 体がゆっくりと下降しているのを感じた。肩まで伸びた髪がさらさらと揺れて、上へ流れる。そのうち上下もあやふやになり、水中を揺蕩うように重みが消えた。肉体という枷から解放され、魂だけが飛び出して流れゆく。


 ぬるま湯に浸っている感覚。あたりは暗く、何一つ見えない。加胡は流されるまま、暗闇を漂った。

 記憶の欠片がばらけて、加胡から遠ざかる。円を描き、回り、離れては繋がり、広がっていく。不可思議な模様は意識を混濁させ、加胡から様々なものを奪っていった。


 輪が、飲み込むように大きく口を開けた。抗う術もなく、加胡は頭から、手から、足から、その中に吸い込まれ、ばちんと意識が途切れた。




「おい、加胡!」


 可児に肩を揺さぶられて、初めて自分が泣いていることに気が付いた。そばには心配を顔に浮かべた可児がしゃがんでいる。どうやら札を持ったまま硬直していたらしい。


「ああ、ごめん。なんでもない……」


「なんでもないってことはないだろ。どうしたんだよ?」


 説明しようとしても、言葉が続かない。涙をぬぐって顔をそらす。


「ごめん……ちょっとだけ、一人にして」


 加胡がうつむいて呟くと、可児はようやく引き下がった。納得できない風でありながらも「わかった」と言って加胡から離れる。


「あ、そうだ。用事が終わったら、俺の家で集合な。麓の……尾野村のみんなのとこ、くるだろ?」


 家の入口で振り向いた可児の言葉に驚く。彼は純粋に加胡を心配して、村の仲間として扱ってくれているのだ。みんなのもとへ戻ることを当たり前に考えてくれたことに、感謝で胸がいっぱいになる。


 結婚を疎ましく思うあまり、可児本来の優しさに気が付けずにいたのかもしれない。確かに加胡を結婚の対象として見る目線には困っていたが、それ以前に彼もまた尾野村の一員なのだ。


「……ありがとう、可児。ごめん」


 彼を避け続けていた自分が恥ずかしくなり、久方ぶりに彼の目を見据えて謝る。可児はそれに少しばかり照れながら、首を振って家から立ち去った。


 一人になると、途端に静寂が耳を刺す。


 気を取り直して再び札の渦巻きに目を落とすが、今度は何も起こらなかった。と、箱の中にまだ紙が入っていたことに気が付く。手に取ると、小さな紙片には「雪月花の三柱、世から離すべし」とあった。


 雪月花、と思わずつぶやく。そんな神に聞き覚えはない。三柱といえば創世神である亜麻乃津神らを思い浮かべるが、彼らのことだろうか。それについてはひとまず、後で神話に詳しい可児に聞くことにする。


 母によって隠されてきた幼い日の記憶は、加胡が山へ入ったあの一日だけではなかった。


 両親の面影を思い出すたび、心臓が脈打ち痛いほど胸が締め付けられる。かつて暮らした狭い部屋で、倒れた血塗れの父と、そばに崩れ落ちた母の背が斜陽に照らされていた。


 母はかつて、日ノ入村に暮らしていた。父と出会ったのがどの時点かは定かでないが、村から逃げ出し、加胡を産み父と隠れ暮らしていた。阿南の住む集落に暮らしていた頃に母は体調を崩し、母を助けようとした加胡がアセトを採りに山へ入った。そこで麒麟と邂逅したが、麒麟と交流した人間などすぐ噂になる。加胡が周りへ麒麟のことを話さないよう呪術で記憶を消し、再び住居を移した。


 阿南が言うには「どこかに腰を落ち着けるつもりはなさそうだった」そうだから、逃げ隠れを繰り返していたのだろう。そしてあの日、加胡と母が出かけている間に、父が見つかり殺される。住居を嗅ぎつけられたと知った母は加胡を太月へ預け、家へと戻っていった。自分が見つからなければまた追手がかかると思ったのだろう。その後母が戻ることはなく、太月は安全を求めて尾野村へと移り住んだ……後は、加胡の知るとおりだ。


 日ノ入村の頭領である男は、加胡を見て「彼女にそっくりだな」と言った。母と面識があり、加胡の存在も知っていたとみるのが妥当だろう。そうなると、日ノ入村の者たちが弓の心得のある少女を攫っていたのにも納得がいく。


 彼らはずっと、李那の娘である加胡を探していたのではないか。母の内側に神がたことをほのめかす発言からも、日ノ入村の閉鎖的な信仰に繋がる。


 そうであるならば、尾野村が襲われたのも、滝波たちが殺されたことも、全て加胡のせいだ。


 両親と日ノ入村の確執がいつから始まったのかは知らないが、加胡が完全に無関係であると言い切れるほど肝が太くもなかった。


 言いようのない虚しさと怒りが加胡を支配した。日ノ入村の者たちに向けてではない、のうのうと日々を暮らしてきた自分への怒りだった。加胡を捕らえるためにいったい何人もの少女が犠牲になったか、考えるだけでもめまいがする。


 こんなことは、もう終わらせなくてはならない。


 暗示の札を握りつぶして放り捨てると、ゆったりと立ち上がった。普段使いこんでいた弓は、捕らえられた際に捨ててしまった。あとで取りに行かなくては。予備の矢をあるだけ持ち、くつを履きなおす。


 今でも、生きるために人を殺す正しさは分からない。緑端の言葉はなんとなく伝わったが、納得できたかは別なのだ。これから行おうとしていることが、生きるためのものかも怪しい。それでも、加胡がけりをつけなくてはならないことだけははっきりとわかる。


「終わらせよう、みんな」


 誰もいない家の中は静まり返っている。加胡はくしゃくしゃになった札を一瞥し、我が家を後にした。

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