帰還
長い時間を過ごした故郷の村は、加胡の記憶と大きく変わってはいなかった。まだ高い太陽の陽を受けて、うっすらとした雪化粧が光を反射している。
緑端と別れてから、呆然自失の状態で歩を進めること数日。ようやく懐かしき尾野村にたどり着いた加胡は、こみ上げる郷愁を胸に、息を深く吸い込んだ。
初冬を過ぎた頃、北部の山岳地帯に位置する尾野村にはすでに積雪が見られた。人の歩く山道にも踏み跡は少なく、薄く積もった雪の上を転ばないよう歩くのは苦戦した。尾野村に暮らしていた頃でも、冬には狩りを行わず、秋までに蓄えた食料で食いつないでいた。山菜を探すために村の周辺を探索したことならあるが、雪山を本格的に歩くのは経験がない。雪が本降りになる前に村へたどり着き、加胡はほっと安堵の息を漏らした。
日ノ入村の者がいないか警戒しながら、そろそろと村の中を進む。加胡が逃げ出したことは彼らもとっくに承知のうえだろう。牢を破った加胡が真っ先に尾野村へ逃げ帰ったと想像するのはたやすい。加胡を追ってきた者に見つかれば、この村での探し物はかなわなくなる。慎重に行動しなくては。
村の広場まで足を進めた加胡は、そこで立ち止まる。
ああ、村は、変わっていない。あの夜のままだ。
そこには、崩壊した舞台や、村人が応戦しようと手に取った農具、祭りの飾り布が散乱していた。男衆が舞台の土台を組み、女衆が布を烏梅に染める。三年に一度の祭りを村人たちはみな楽しみにしていて、特に若い者たちは日が近づくにつれて浮足立っていたものだ。しかし、篝火の台座はなぎ倒されて、今や火の気を欠片も感じられない。地面に点在する黒ずみは、雨や雪で薄れた血飛沫か、近くで観察する気にもならない。遺体は、生き残った村の者たちが弔ったのだろうか、目のつく範囲には一つも見当たらなかった。
遺体──加胡が殺した者も、そこには含まれていたのか。
暗闇の中、小路に向かって剣を振りかぶった男に、加胡は弓を引いた。猪用に作られた重たい矢尻は、人の骨でも簡単に砕く。心の臓に深々と矢が突き刺さった男の驚愕の眼差しを、今でも思い出せる。
あの瞬間の、安堵。達成感。喜び。
加胡の中にためらいはなく、駆け寄ってきたもう一人の男に照準を合わせるまでも一瞬だった。殺らなければ殺られる、と言えばその通りだが、加胡にはどうしても自分自身に対しての嫌悪がぬぐえない。
狩猟だって同じことだ。命を奪って自分のものにする。それがたまたま、自分と同じ姿をした相手だったというだけ。そこに心の傷を見出すのは、人間の傲慢ではないのか? 冷たい風が吹きおろし、容赦なく体温を奪っていく。
──加胡。
ふと、すぐそばで声が聞こえた気がした。
緑端の陶器のような手を思い出す。彼は、ささくれと豆だらけの加胡の指を優しく撫でた。
君は生きているんだ。
彼は、加胡の殺生を肯定も否定もしなかった。「他の命を貰い受け、他の命を育んでいる」、それが生きるということなのだと、それだけだった。
「私は、生きている……」
植物や、兎や、猪や、人、それらを殺して、加胡は生きている。それが、生きていくことなのだ。もしや緑端は、出会った時からずっと伝えようとしていたのだろうか。一つ一つ確かめるような覚束ない言葉で、闇に溶けるような瞳で。
「……やっぱり言葉足らずだよ、緑端」
知らず握りしめていた拳を、そっと解いた。大きく息を吐き出すと、白い吐息が風にさらわれて溶けていく。それが跡形もなくなるまで見届けると、その場にしゃがみこみ、合掌する。
「宇守御霊之命よ、今日のめぐみに感謝し、命を巡り、巡らせたまえ」
加胡が殺めた者たちもまた、命の巡りに還ったはずだ。命あるものは、死すれば生命の循環に戻り、再び新たな生を受けるまで世界を漂うとされている。豊穣を司る宇守御霊之命は、その流れを操り、世界が正しく回っていくように見守っているのだ。今まで食事のたびに唱えてきた祈りの言葉が、今は違う響きを持って加胡の口から零れ出た。
襲撃されて命を落とした村の者、加胡が射抜いた者。生命の循環に還れば、それらは等しくひとつの命だ。生まれ変わるまで、永い旅路を歩む。
せめてその道行きが安らかであるよう、加胡は身勝手にも祈らずにはいられなかった。
「加胡……?」
どのくらいの時間が過ぎたのか、背後からかけられた言葉に、はっと背筋を正す。振り向くと、寒さで頬を真っ赤に染めた幼馴染がそこには立っていた。
「可児」
「やっぱり、加胡、加胡なんだな!」
可児は足を滑らせながら加胡へ駆け寄ってきた。目線を上から下にやり加胡が生きていると確かめ、感無量といった口ぶりで言った。
「生きてたのか、よかった、加胡……」
「可児こそ! 無事でよかった」
以前はあれほど疎ましく思っていた態度も、久方ぶりだと思えば嬉しく感じる。見たところ大きな怪我も負っていない。あの祭りの夜の騒ぎの中、うまく逃げおおせたようだ。
「加胡や、太月の親父さんやら……連れていかれた人たちはもう駄目かもしれないってみんな諦めかけてたんだ。また会えて本当に嬉しい」
「私も。村のみんなはやられちゃったと思ってたから……みんないるんでしょう?」
「ああ、そうなんだ。ほとんどのやつらは麓の村に世話になってて、時々尾野村まで様子を見に来ててさ。今日もたまたまだったんだ」
感激するばかりの可児を何とか落ち着かせて、他の村民の居場所を聞き出す。どうやら、加胡が迂回した麓の村にいるらしい。
「この前襲ってきたやつらが戻ってこないか見張るために様子を見に来てたんだけどよ、今日は人影が見えたから驚いちまったよ。髪の毛も短くなってたから、最初は加胡だって気が付かなかったしなあ」
綺麗な髪だったのにな、と可児が残念そうに顔をしかめる。
──緑端は、短くてもいいと言ってくれたのに。
つい比較するように思い出してしまい、慌てて頭から追い出す。こんなことを考えるのは双方に失礼だ。怪訝そうな可児に対して誤魔化すように微笑むと、改めて周囲を見渡した。
「村は、あれからそのままに?」
「うん。遺体だけ弔って、他は全然。食べ物とかは持ち出したけど、村に戻るのが怖いってやつも多くてな……」
それはそうだろう。緑端の話しぶりでは犠牲者は多くなさそうだったが、恐怖とはそう簡単に消えるものではない。袈裟斬りにされた滝波の表情が蘇り、胸を刺した。
「そういえば、太月の親父さんは? 小路さんたちも一緒に連れていかれたって聞いたけど」
「……おじいちゃんたちは、まだ捕まったままなの」
「そうか」
可児の言葉で、自分の目的を思い出す。今加胡がするべきなのは、失った命を悲しむことではない。
「私の家も、そのままだよね」
「あ、ああ。加胡のところは誰も触ってないはずだ」
そう言うなり身を翻し、自宅へと足を向けた。可児が慌てる気配を背中で感じながら、雪を踏みしめて進んでいく。
村のはずれまでくると、やがて家が見えてきた。加胡の家はあの夜のままでそこにあった。加胡が飛び出した時に開け放した引き戸、脱ぎ捨てた長袴、ひっくり返った薬箱。動乱の名残に息が詰まりながら、雪ぐつを脱いだ。
目当てのものは、部屋の隅の木箱に入っているはずだ。この村に越してきて以来一度も触っていない。母のかけた暗示が意図的にそうさせたのか、知れば今の暮らしが壊れてしまうと分かっていたから無意識に避けたのか、今では知りようがないが。
木箱の上には、茶碗や皿が重ねられ、完全に物置場として使われていた。忘れていたとはいえ、母からの預かりものに対してこの杜撰な管理はいかがなものか。加胡は自身に呆れながら、茶碗をどかした。
「加胡?」
どうしたのかと可児が尋ねてくる。木箱に積もった埃を払うと、反射的に咳が出た。
「探し物。私の弓と、これをとるために村に戻ってきたの」
ひとつ、呼吸を挟む。どくどくと騒ぎ立てる胸を押さえると、自分の想像以上に速い心拍を手のひらに感じる。
大丈夫。私なら、大丈夫。
覚悟を決め、箱を開けた。薄い半紙に包まれた札を、ゆっくりと取り出す。
──また会えるよね、緑端。
声と共に景色が回転した。