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天穹の一矢  作者: みつきあこ
第三章 山中の一夜
13/15

あなたはだあれ

 緑端の案内した洞穴は、入口を草木に覆われ、遠目に見ただけではそこに穴があることには気が付かないだろう位置にあった。


 火を使うのは見つかる危険が大きいためできるだけ避けたいが、熊避けや防寒対策としては外せない。考え込む加胡に、緑端はあっけらかんと「ぼくが見ているから火を使うといい」と言い放った。確かに暖をとることが出来ればありがたいが、何故大丈夫と言い切れるのだろう。またひとつ謎が増えたが、加胡は彼を信じることにした。どうせ聞いたところで答えてはくれないのだ。


 外はすっかり日が暮れて、全く見通しのきかない夜の帳が降りている。虫の音に混じり、時々梟の鳴き声が響いていた。山の空気は昼とは一転、少しばかり気温が下がり、洞穴の中にいなければ体が冷えてしまいそうだ。


 叢雲に持たされた乾飯を器にあけると、水に浸し柔らかく戻す。ぬるい為美味しいかと問われれば微妙だが、携行食に文句は言えまい。とはいえ干し肉を歯で噛みちぎりながらちまちまと米を啜る食事が続けば憂鬱にもなる。加胡は食事の準備をしながら小さく息をついた。


 そういえば、緑端はぼんやりと加胡を見るばかりだが、自分の食事はいいのだろうか。


「緑端、食べ物は持っている?」


「必要ない」


「流石になにか食べた方がいいよ」


 まさか食事まで疎かにするつもりだろうかと加胡は焦った。これはいよいよ高貴な家の息子である可能性が高い。自分で何一つせず人に世話をされてきたとすれば、浮世離れした彼についても説明がつく。


 なにはともあれ、今はこの場を切り抜けなければならない。いざという時に空腹で力が出ない、では困るのだ。美味とは言い難い食事だが、ないよりはマシだと水の中に沈んだふやけた米を差し出すと、彼は容器と加胡の顔を交互に眺めた。


「少しでも食べて」


「君の食事を貰うわけには」


「いいから」


 目の前に器を突きつけると、彼は仰け反りながら渋々受け取る。興味深そうに器を色々な角度から眺め、鼻を近づけて匂いを嗅いだ。


「失礼ね。あなたが普段食べているものとは違うだろうけど、ちゃんとした人間の食べ物だよ」


 加胡の冷たい目線を感じ取り、緑端はぴくりと跳ねた。慌てて口をもごつかせながらなにか呟くと、一人で完結したようで肩を落とす。


「上澄みだけなら……」


 ぼそりと呟くが、内容までは加胡の耳に届かない。緑端は観念したように器に口をつけると、ほんの僅かに椀を傾けて汁を啜った。


「水だ」


「お米もちゃんと入ってるでしょう」


 加胡の文句も何処吹く風、彼は唇をちろりと舐める。無垢なその仕草に毒気を抜かれ、加胡は脱力した。緑端はそのまま器を返してきたため、彼に食事をさせることは諦めた。


「あなた、一体何者なの?」


 答えてはくれないのでしょうけど、と焚き火をつつく。パチンと枝が弾けて洞の中を橙色に照らし、加胡と緑端の影だけが壁に踊っていた。


 あまり女々しく食いついてしつこい女だとは思われたくないが、秘密にされればされるほど気になるのが人間の性である。未練がましく緑端を見れば、彼は観念したのかぽつぽつと語り始めた。


「……決められている。ぼくらは、何かに干渉することを許されていない。君に話しかけることも、本当はいけないことだった」


「索冥に怒られるから?」


「それもそうだが……ずっと昔からの取り決めなんだ。だから、こうして君の隣に座っているなんて、昔なら考えられない状況だ……ほら」


 緑端が白魚のような手を加胡へ向けて翳す。その意図が掴めず困惑していると、緑端が加胡の手を掴んだ。


 冷たい。まるで人間とは思えない、冷えた手のひら。


 加胡は息を飲んだ。滑やかで陶器のような触り心地をした、凡そ男性らしくない細い指が加胡の指に絡み、強く握り込む。こんな距離を、加胡は家族以外の誰にも許したことはない。母、父、太月、それ以外の人間との触れ合いは加胡にとって虚しさが強く、知らず知らず忌避してきた。


 しかし、緑端のこの手の心地良さはなんだろう。胃が締め上げられるような苦しみがあり、その底に甘くざらついた感情が揺蕩っている。こんな感覚は知らない。


「触れている……加胡の手がこんなに温かいこと、忘れていた」


「それってどういうこと……?」


「君は生きているんだ。他の命を貰い受けて、他の命を助けて……」


 鋭い目元が緩み、加胡へ微笑みかける。その柔らかな笑みが、加胡の疑問を溶かして何も言えなくなる。漆黒の瞳が、真っ白な肌が、加胡の心をざわめかせてはするりと逃げていく。


「あなた……誰?」


「ぼくは何者でもない」


 緑端は口の端を引き上げたまま言った。目の前の焚き火の中で枝が燃え尽きる音がした。夜はまだ長く、冷たい帷の中に月が煌々と輝いている。




 その後、緑端がどこかへ消えてしまうのではと危惧した加胡は一晩寝ずに過ごそうかと考えていたが、緊張や山歩きの疲労が蓄積していたのか気がつくと眠りに落ちていた。


 外から差し込む光の眩しさに、毛皮に顔を埋めたまま目を覚ました。防寒、寝具用として叢雲から持たされた貴重な鹿の毛皮だ。尾野村にいた頃はたいして珍しくなかったが、狩りをしない叢雲たちの村では貴重品だ。受け取る際も、持っていけないと恐縮する加胡と持っていけと諭す叢雲とで一悶着あった。


 自分で布団に入った記憶はないが、どうやって眠りについたのだろう。寝ぼけ眼で体を起こすと、頬に張り付いたちくちくした毛を払い落とし、凝り固まった体を伸ばす。あふ、とこぼれた欠伸は白く、予想以上に冷え込んでいるのだと理解した。尾野村よりは少しばかり南にいるためまだマシだが、村へ戻れば雪も積もっているかもしれない。毛皮を持たせてくれた叢雲には感謝しかなかった。


「加胡、起きた」


 真横から声をかけられてびくりと体を揺らす。そこには、昨晩と全く変わらない姿で座る緑端の姿があった。まるで一睡もしていないかのように、髪も衣服も一切の乱れがない。


「……おはよう、緑端」


 つい村にいる時の癖で大欠伸をしてしまった。加胡がいかに男性を意識していないとはいえ、人前で醜態を晒したと恥ずかしさがわきあがる。誤魔化すために顔を逸らした加胡を気にした様子もなく彼はじっと見つめてきた。


「もしかして、私のことちゃんと寝かせてくれた?」


「人は皆そうするのかと思った」


 自分で毛皮を敷いた記憶はないため、恐らく緑端が寝かせてくれたのだろう。分かりにくいが彼からも肯定のような返事が返ってきた。ありがとう、と礼を言うと彼は頷いた。


「見張り、交代するの忘れちゃってごめん。起こしてくれればよかったのに……少しは眠れた?」


「いや」


「寝ていないの?」


「いや……」


「私が寝ていたから、見張りの為に起きていたの?」


「そうじゃない。加胡のせいでは」


 煮え切らない態度をとる緑端は、聞けば聞くほど困った表情になる。ここまでくると彼のそんな様子にも慣れてきて、加胡はため息ひとつで話を流してしまうことにした。


「そういえば聞いていなかったけれど、緑端はどこへ行くつもりだったの?」


「尾野村に」


「尾野村? なぜ」


 思いもよらない返事に目を丸くする。緑端はうっかり答えたとでも言いたげで、口を押さえると目を泳がせてあからさまに慌てている。こればかりは追求せねばと詰め寄ると、「どうせ行けばわかることか」とあきらめた様子で呟いた。


「加胡、君は尾野村の者たちが皆殺されたと思っているか」


「え……」


「加胡の養父たちの他にも生き残りがいる。彼らの多くは尾野村の近くに身を潜めて生き延びた。その中には、あの祭りで……君と舞を踊る予定だった相手もいる」


 時間が止まったような気がした。


 あの時は必死で、滝波が切られてからのことはよく覚えていない。村人の何人かが応戦し袈裟斬りにされたところは見たが、全員が殺されてしまったかというとそれを確認した記憶はない。可児のこともすっかり頭から抜け落ちていたが、彼は生きていたのだ。それに、他の村の面々も。


「本当に……?」


 ぶるぶると声が震えた。緑端は顔色を変えずに確かに頷いた。


 視界がぶわりと滲む。顔に血が上り、景色が段々と輪郭を歪めていく。瞬きをする度に雫が頬から滑り落ちた。


 村のみんなが生きている。


 あの村で暮らした全ては失われてしまったと思っていた。質素で時に苦しく貧しい、けれど仲間たちと手を取り合っていたかけがえのない時間。それはあの日壊されてしまったが、なにもかもがなくなったわけではなかったのだ。


 上体が崩れ落ちて、緑端の服に縋り付く。堪えきれなくなった嗚咽が喉からこぼれて、洞穴の中に反響した。ぼわんと響いた自分の声は不思議な感覚だ。


「加胡」


 緑端が気遣わしげな声で加胡を受け止めた。昨日触れた緑端の手のひらは冷たかったが、肩を抱きかかえられると確かに温もりを感じられる。その体温に心がほぐれ、ほっと安心の息をつくと共に涙が落ちた。


「みんな、生きてる……」


「ああ、生きている。それを、なんとか加胡に伝えたかった」


「伝えるために、ここまで来たの?」


 鼻をすすり、顔を上げる。彼はきまり悪そうに俯きながら口を噤んだ。


 緑端は尾野村へ向かうつもりだったと言った。そして、尾野村に生き残りがいることを加胡へ伝えようとしていたと。しかしそれを伝えるためには加胡と道中で出会う必要がある。日ノ入村から加胡がどこへ逃げたのか知らなければそれは不可能であり、当てずっぽうで歩くとすればかなりの大博打となる。たまたま緑端と加胡が出会えたのなら、一体どれほどの偶然が折り重なって生まれた奇跡なのだろう。そんな奇跡に賭けて、緑端はこの山を彷徨っていたのか?


 否。緑端には、恐らく全て分かっている。


「すまない」


 緑端を問い詰めようとしない加胡に、申し訳なさは感じるらしい。彼は体を離すと、涙に濡れた頬を細い指で拭った。乾いた指が加胡の顔の輪郭をなぞるようにして揺れる。彼は腰を浮かせて立ち上がろうとしていた。


「加胡は大丈夫。君は強い人間だ」


 別れの挨拶とでも言いたげだ。加胡は必死で首を振った。


「待って……一人で行くつもり? 一緒に行こう。尾野村へ行くんでしょ。それなら二人でいた方が安全だよ」


「ぼくは共に行けない」


 別れの空気を滲ませる緑端に掴みかかる。このままでは、次はいつ会えるのかわかったものではない。しかし緑端は困ったように微笑むと、加胡の髪をひと房すくい、さらりと撫でた。


「本当に困った時には名を呼んで。必ず恩に報いる」


「緑端!」


 絶対に離さない。そう思いしっかりと掴んでいたはずの緑端の袖は、幻のようにすり抜けて離れた。まるで、初めからそこにはなにもなかったとでも言いたげに。


 なぜ、どうして、私はちゃんと持っていたのに──。


 呆然と手元を見つめた瞬間、彼はひらりと洞穴から飛び出し、その姿を消した。


「待って!」


 慌てて立ち上がり、洞穴から出る。あたりを見渡して緑端の影を追うも、人影ひとつ、足音ひとつしない。ただ木枯らしだけがぴゅうと吹き付け、短い加胡の髪を揺らしていた。


「あなたは……誰?」


 何度目かの同じ問いを、虚空へ放り投げた。それに答えるものは、誰もいない。

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