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天穹の一矢  作者: みつきあこ
第二章 日の沈む村
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断髪

 加胡を助けた女性は、叢雲と名乗った。明るく快活で、気のいい性格をしている。大きな村へ行商に出ている夫を支え、三人の子供たちを育てる強い女性だ。


 加胡は山を彷徨い歩くうち、日ノ入村から山を二つほど越えた先にある集落へ抜けたようだった。そして、麓で山菜を採っていた叢雲に発見され、家まで連れていかれた。這う這うの体で逃げてきた加胡に同情してくれたのかもしれない。


「ゆっくりでいいよ、たんとお食べ」


 叢雲は、汚れきった加胡に嫌な顔ひとつせず宿と飯を提供してくれた。


 貴重な水を使って煮た玄米はつやつやと鈍い光沢を放っている。汁には川で獲ってきた魚の身が沈んでいた。加胡は普段山菜の浮いた汁ばかり飲んできた。尾野村では、狩りで手に入れた獲物の大半を子供のいる家へ回してしまうので中々ありつけない。魚とはいえ、力になる食材を食べるのはとても久しぶりだった。その他にも、青菜の茹でたものや塩が並び、非常に豪華な食卓だ。


「こんなにいい食事……頂けません」


「いいの、いいの。情けは人の為ならずってね。いいからあけちゃってくださいな」


 恐縮する加胡にも叢雲は優しく微笑んだ。温かい食事は久々で、叢雲に悪いと思いつつもつい箸を伸ばし、ぺろりと平らげてしまった。


 加胡ががつがつと食事をする間、叢雲の子供たちは遠巻きに加胡を見ていた。髪も服も泥だらけで乱れているので、きっと化け物が来たとでも思ったのだろう。加胡は申し訳なさそうに縮こまっていたので気が付かなかったが、実際のところ子供たちは加胡のはっとするような美しい顔立ちに見とれていたのだった。


「こら、お客人をジロジロと見ないの」


 叢雲が叱り飛ばすと、彼らは蜘蛛の子を散らすように退散する。叢雲は苦く笑った。


「ごめんなさいね、こんな美人さんが来るの初めてなもんだから」


「いえ、そんな、私なんて……」


「謙遜はよしな、あんたは相当な別嬪さんよ」


 叢雲はからからと笑って加胡の肩を軽く小突く。加胡は反応に困り、ただ米を咀嚼した。


 加胡が皿の上をすっかり綺麗にしてしまうと、叢雲は感じよく笑って「お粗末さま」と皿を下げた。


「ご馳走様でした。あの、せめてお片付けは」


「あんた、怪我人でしょう。少しゆっくりしていなさい」


 背丈のある叢雲に言われると、加胡にはそれ以上食い下がることが出来ない。足を揃え正式な礼をすると、叢雲はまた大声で笑ってそれを良しとした。


「それにしても、どうしてあんな格好で山にいたんだい。野盗にでも襲われた?」


 水桶に皿を入れながら叢雲が疑問を口走る。加胡はどこから話したらいいものか、少しばかり思案に沈んだ。初めから話すと長くなりすぎるが、かといってそれならばどう説明するのが正しいのか。その迷いを感じとったのか、叢雲は皿を片付ける手を止めて振り向いた。


「話しにくいのなら無理にとは言わないさ。話したくなったらいつでも声をかけな」


「まだ混乱していて……ごめんなさい」


「いいよ、焦らなくて。そうだ」


 なにかしなければと落ち着かない加胡を見かねた叢雲は、思いついたように手を打って、扉の外を指さした。


「加胡さえよければ……水浴びがてら、さっき覗いてたうちの子らと話してやってくれないかい。わんぱく盛りで手が足りなくてね」


「……はい! ぜひ!」


 役目を与えられた加胡は表情も明るく答える。水浴びの場所は子供らに聞くように指示を受けると、加胡はさっそく彼らの元へ足を向けた。




 叢雲の子は三人いる。


 長男はもう八歳になる大人しい子だ。茶髪に近い髪の色が綺麗なのは、七歳の長女。二人はまだ幼かったが、自分より年下の三男の面倒をよく見る賢い子たちだった。


 叢雲から滔々とされた説明を頭の中で呼び起こし、家の入口に立ち尽くしている長女へ声をかける。


「弥生」


 彼女はぴくっと肩を揺らして加胡へ目を向けた。突然の来客に名を呼ばれ警戒しているらしい。ぎこちない仕草で振り向き、加胡の全身を見渡した。


「ごめんね。水浴びをしたくて……場所だけ教えてもらえないかな?」


 加胡が接したことのある子供は村の子供たちだけであるため、あまり扱いがわからなかった。最低限目線を合わせるためしゃがんでみるが、いつの間にか足首を捻っていたらしく、右足に激痛が走った。


 顔を顰めた加胡に気がついたのか、弥生は懐から草を取り出して加胡へ差し出してくる。


「なに?」


「……傷が良く治る、薬草」


 思わず言葉を失った。素直な厚意が嬉しかったのだ。


 彼女が差し出してきた草については、加胡も知識がある。プロフェという薬草だ。水場に群生しており、止血や消毒の効果を持つ。捻挫に使う薬草ではないが、彼女の気遣いを無碍にするのも気が引けた。


「ありがとう……うれしい」


 草を受け取ってにっこりと笑いかけると、ようやく彼女の緊張はほぐれたようだ。明るい笑顔で加胡の手を引き、水浴びの場所へ案内してくれる。加胡は片足を引きずりながら不格好に彼女のあとをついていった。


 そうして案内された草木に囲われた場所に、水の流れが穏やかな川があった。清らかな水は指を浸してみるとキンと冷たい。


「弥生が見張っててあげる」


「ありがとう」


 幼い少女はすっかり加胡に心を許したらしい。子供らしい笑顔を浮かべると、近くの茂みに顔を突っ込んで山菜を物色し始めた。見張りとして正しい在り方かは分からないが、気持ちだけでも受け取っておくことにする。手早く服を脱ぐと、静かに水の中へ足を踏み入れる。


 体を見れば、あちこちに擦り傷や打撲痕があった。水に浸るとそこがぴりぴりと痺れたように痛む。水の冷たさと傷の痛みに耐えつつ、体の泥を落としていく。


 ほつれ絡まった髪を濡らそうとして、加胡ははたと動きをとめた。


「弥生、小刀かなにか持ってない?」


「刀? お家にあるよ、とってくる!」


 あどけない口調でそう言うなり、少女は家まで駆けていき、すぐに刀を抱えて戻ってくる。どうやら木を削り加工するための小刀らしかった。加胡はそれを手に取り、自分の肌を傷つけないように留意しながら黒髪へ刃をあてた。


 ざり、と髪が擦れる音がする。切れ味の悪い刀で無理に髪を断つと、ちぎれた髪の毛が水の上に落ちて流されていった。黒い髪が透き通った水中を踊る。


「切っちゃうの?」


 弥生が問う。加胡は小さく微笑んだまま、最後のひと房へ刀を入れた。


「なんで切っちゃうの?」


「うん、けじめ……かな」


「けじめ?」


 頷くと、反対に弥生は首を傾げた。言葉の意味がよく分からないらしい。加胡は弥生の柔らかな髪をひとなでした。


 これは、人を殺したことに対するけじめだ。


 襲われたとはいえ、加胡は何人もの人を殺めた。そして、日ノ入村へ戻ることでまた人を傷つけようとしている。


 人殺しも狩りと変わらないと緑端は言ったけれど、加胡にはそうは思えない。食べるために命を貰い受ける狩りと、人を傷つけて殺すことは違う。


 しかし──麒麟にとっては全て同じことか。殺生を嫌い、草を踏むことすら忌避する生き物にとって、人間はただの残虐な生命なのか。


 そう考えた途端、なにか違和感が頭をよぎる。何か、見落としている気がする。その答えを掴みかけたのに、するりと逃げてしまった。見失ったものの形が上手く見えない、一体何を忘れているというのだろう。すっきりとしないまま、切り取った長い黒髪を見下ろして、そっと手を離す。


 髪は風に晒されて宙を舞い、空の中へ消えていった。


 さよなら、尾野村の加胡。私はもう、あのころの村娘には戻れないだろう。


 ざっくりと切られた短い髪は、肩の上で揺れる。裸体にかかる水が酷く冷たく、加胡は天を仰いで目を閉じた。




 叢雲は、髪を切った加胡に触れることはなかった。静かに目をみはり、しっかりと頷く。「水浴びはできたみたいね」と言うと笑って加胡に着物を差し出した。


「着物、どろどろだろう? 私のものだから少し丈が長いかもしれないけれど、乾くまでの間着ておきな」


「なにからなにまで、ありがとうございます」


 泥と血に塗れた着物を再び袖を通していた加胡にとって、願ってもない申し出だった。素直に甘えて着替えると、叢雲は満足気に何度も頷いた。


「うん、うん、似合ってるね。私の若い頃のものだから流行りとは言えないけれど、元の作りがいいからなんだって似合う」


 叢雲が差し出してきた小袖は、淡い縹色の着物だった。繰り返し着たものだろう、生地は薄くくったりとよれているが文句は言えまい。加胡はありがたく借りることにした。


「何かお手伝いします」


 着物の礼もあり今度ばかりは譲らない、と加胡が語気を強めて言うと、叢雲もまたその気概を了承した。


「それじゃあ、そこの鍋の火でも見ておくれ」


「はい」


 気合を入れて鍋の見張りに徹する。神経質にかまどの火を調節することに集中しており、そんな加胡を見た叢雲がからかうような目線をしていたことに気が付かなかった。


 日が傾き始める頃、外から草むらをかき分けるような音が聞こえてくる。子供たちが遊んでいるのかと顔を上げるが、彼らは全員部屋の中にいる。一体誰だろう。


「ああ、あの人かな」


 叢雲には相手がわかっているようだった。叢雲の夫である阿南が帰宅したのだと教えられ、家の主人に挨拶をせねばと背筋を正す。


「ただいま」


「おかえりなさい」


 帰宅した父親に子供たちがじゃれつく。彼は笑顔でそれを出迎えた。


 叢雲から聞いた話によると、阿南は近くの別の村へ野菜を売りに出ており、その行商を終えた帰りだそうだ。細い体に筋肉がうっすらとついており、その全身が汗でぬらりと光っていた。よく日焼けした肌は太月といい勝負だ。畑仕事をする男性となると日焼けは避けられないのだろう。


 阿南は、加胡を見るなりはっと表情を消した。憮然ともいえるその表情に、加胡もまた戸惑う。勝手に家に上がり込んだのはそんなにもまずいことだったのだろうか。


「彼女は?」


 阿南が硬い声で叢雲に尋ねた。叢雲は夫の豹変に驚き、言葉に詰まりながら答える。


「その……ぼろぼろの格好で飛び出してきたから休ませてやってたのさ」


「勝手にお邪魔してすみません。加胡と申します」


 加胡が慌てて名乗り頭を下げると、阿南はいよいよ息を飲んだ。


「両親の名前は?」


「え……李那と、宗明です。二人とも他界しましたが……」


「そうか」


 脈絡なく両親の名を聞かれ当惑する加胡と対照的に、阿南はなにか納得したようだった。


「両親をご存知なんですか?」


 恐る恐る尋ねた加胡に阿南は破顔して、懐かしそうに目を細めた。


「いや、すまないね。その通り、君のご両親とは古い付き合いだ。君があんまり李那とそっくりなので驚いてしまったよ」


「そうなんですか」


 思わぬ所で関係が繋がり、加胡は驚く。


 ここへは、麒麟に導かれた。初めはただ民家に案内されただけだと思っていたが、こんなところで偶然両親の旧知に出会うだろうか。あの麒麟には、この人が両親と知り合いであることが分かっていたのか。


「君の両親が離れた山向こうの村へ住居を移してからは会っていなかったけれど、そうか……あの時小さかった加胡も、こんなに大きくなるほど月日が経ったのか」


 彼はどうやら加胡のことも覚えているらしい。両親が存命の頃の話だとすると、加胡は幼かったからか記憶に残っていない。


「両親は昔、このあたりに住んでいたんですか」


「ああ。ご近所だったよ」


「そうなのかい? 私はあんまり見覚えがないけれど」


 叢雲が首を傾げる。確かに、子供たちの歳を考えれば、叢雲と加胡の面識があってもおかしくはない。そんな疑問に、阿南は首を振った。


「お前、一時期体調を崩して家に籠りきりの時期があっただろう。加胡たちが暮らしていたのはその時だから、会ったことはないかもしれないな」


 叢雲はふうん、と鼻を鳴らした。彼女はそれで納得したようだが、加胡はまだ聞きたいことがある。深く追求しようとするが、叢雲が手を叩く、乾いた音がした。


「まあ、ひとまず夕餉にしようじゃないか。あんたは手を洗ってきて。加胡、よそうのを手伝ってくれる?」


「はい」


 続きは飯を食べながらということだ。阿南は加胡と顔を見合せたあとくすりと微笑み、大人しくそれに従った。

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