5 忍び寄る影
「まあそこは今考えても答えが出ないだろうからいい。今日はここまでにしよう。忠告を聞いてもらえただけでもこっちとしては儲けものだ。一蹴されても仕方ないとは思ってたからな」
「夢とかの件がなかったらそうしてたかもね。何で突然思い出したのかわからないけど」
「俺は何で拓真が死んだのかを知りたい。調べられることは徹底的に調べたから後は君の記憶だけが頼りだ」
「具体的に明日から何をするの?」
「俺が調べた内容をまずは全部教える。あと君には催眠療法を受けてもらって昔を思い出してもらう。予約が間に合うかわからんがそっちは交渉してみる、俺の知り合いだ」
お互い連絡先を交換した。催眠療法まで受けさせるとはいよいよ本格的だ。自力で過去を思い出すことは期待していないということだろう。十月二十一日まで一週間を切っているので急いでいるのかもしれない。
催眠療法ということは思い出したくないことも思い出すという事だ。そのあたりのアフターケアもきちんとしてくれるのだろうかと不安になる。それが顔に出たのか、笹木は催眠療法のクリニックの情報も送ってくれた。
「心療内科だ、それなりに実績もある。院長は大学時代の先輩だ、心理学を学んでたって言っただろう?その時お世話になった。たまに飯を食う仲で信頼できる人だ」
ホームページを見ればそれなりに大きいクリニックのようだ。口コミを調べてみても高評価が多く、院長が優しくその後のケアまでしっかりしていると書かれている。低評価は内容がだいぶ病んでいるような感じなので、病院側の対応が悪いというより書き込みしている者の被害妄想も入っているかもしれない。
「ここ以外信用できるところを知らないから絶対に受けて貰えるよう頼んでみる。俺から言い出したことだから治療費はすべて俺が出す。催眠後に気分が悪くなったりさっき言ってた変な夢とか見るようになったら早めに言ってくれ、心の問題ってのは放っておくと百害あって一利なしだ」
じゃあ続きは明日、と言って笹木は立ち上がった。琴音はふと疑問を感じて笹木に問いかける。
「何でそこまでしてくれるの?」
「唯一生きてる手掛かりがショック死でもしたら事件の真相がわからなくなるだろ」
振り返らずに告げられたその言葉は何の感情も入っていない。そのまま笹木は勘定を済ませると店を出た。笹木に追いつきたくないので少し時間を空けてから琴音も店を出る。
やけに協力的だったから身を案じてくれているのだろうかと思ったが、そうではない事を突き付けられる。相容れないし、笹木がそれを望んでいない。あくまでお前を利用するためだという意志を隠そうともしない。笹木がやりたいのは事件の真相を知る事であって琴音を救う事ではない。それを勘違いするなと言っている。ある意味わかりやすいが、琴音の内面に暗い影を落とし小さくため息をついた。
店を出ると人の姿はない。とうに日付は変わっていて終電もなくなった。笹木はおそらくホテルか何か取っているのだろう、自分も帰らなくてはとタクシーに乗るためにひとまず駅を目指す。
駅までは近いが路地裏のような所なので琴音が歩く音がカツカツと辺りに響く。飲み屋街なので明かりがついている店が多いのがありがたい、真っ暗ではないからだ。道には酔っ払いが寝ころんでいる姿もあり、今時そんな事する奴がいるのかと冷めた目でそれちらりと見て先へ進んで行く。この辺りで痴漢やひったくりがいるとは聞いたことはないが、ああいうのから財布を奪う奴くらいはいる。平和な日本だから酔いつぶれて路上で寝るなどできるのだろうなと思った。海外だったら殺されているのではないか。
殺されている。
なんだかそのワードが先ほどの話と結びついて嫌な気分になる。本当に自分が死ぬのかどうかはわからないが、確かに被害者の親が死んでいるのは無関係とはいえない。しかし逆に何故被害者家族全員ではなく関係なさそうな人まで亡くなっているのか。笹木が言うように何かはあるはずだ。先ほどの笹木の話からするとどうやら自分の両親は死んでいないらしい。
なるべく目を背けてきたあの事件。今改めて思い出そうとしてもやはり何も覚えていない。皆と遊ぶなど毎日の事だ、どの遊びをどうやってたかなど詳細がわかるわけでもない。かくれんぼをしていたのかもしれないが鬼ごっこだったかもしれない。
琴音が知っているオニワさんの知識もほとんどないと言っていい。なんだか怖い鬼がいるんだな、というくらいだ。ここまで徹底的に琴音を調査した笹木があれだけの情報しかないのならこれ以上オニワさんの情報はないのだろうか。いや、どうだろう。琴音の事を信用はしていないようなので情報をすべて出してくるとは限らない。少しだけ開示して様子見をしているのだろうか。
もし殺人犯がいたとして、村の人間を殺しているのなら離れて暮らす琴音を殺しに来るとは考えにくい。このまま笹木と共に行動していいのだろうかと考える。
数メートル先でチカチカと消えかけた街灯が点滅しており、その下には子供の影がある。
――子供の影?
こんな夜中に? と疑問に思い目を凝らそうとした。しかし自分の意志に逆らうかのように。
――隠れないと!
頭の中で誰かが叫んだ。考えるよりもすでに動いており咄嗟に近くの塀に身を隠す。先ほど叫んだのは他でもない、琴音自身だ。ドクドクと心臓の鼓動が早くなる。大丈夫だろうか、見つかってないだろうかと焦りがこみ上げてきた。
何故自分は焦っているんだろう、見つかってないかとはなんだろう。どこか冷静に考える自分もいて、頭の中がごちゃごちゃになってくる。あの影、一瞬しか見ていないが少し妙な体型をしていなかっただろうか。確かに大きさは子供だ。しかし腕がやけに長く足は細すぎる。どうやって体重を支えているのかと思うくらい、まるでキュウリのように細かった。
静まり返った周囲にペタペタと足音が響く。ひっと小さく悲鳴が漏れそうになり、絶対音が漏れないよう自分の口を両手で押さえた。靴の音ではない、素足だ。道路を素足で歩くなど普通ではない。隠れた塀の周囲にはさらに身を隠せる場所などなく、このままあの影が来たら見つかってしまう。
ぺたぺた、ぺたぺた。
自分の心臓の音や呼吸音が聞こえてしまうのではないかという緊張感が全身を包む。身動き一つできずただじっと息を殺して足音が近づいて来るのかを聞いた。
本当に数メートルもない所だろうか。ぴたりと足音が止んだ。息を殺してじっと様子を窺っていたが、足音が鳴ることはない。いなくなったのだろうか、様子を確認しても大丈夫だろうか。いや、もし塀から顔を出してアレが目の前にいたら? そう考えると恐怖で足がすくむ。アレが何なのか、何故隠れるのか自分でもわからないままひたすらその場に佇んだ。
どれくらいそうしていただろうか。音がしなくなってだいぶ時間が経った頃、意を決してそっと塀から顔を出して周囲を確認するが子供の影はいなくなっていた。念のため360度ぐるりと全方向を確認したが影はどこにも見当たらない。ふう、とため息をついた。背中や脇にはじっとりと嫌な汗をかいている。
「なに、今の……」
答えのない問いを声に出す。火照った体が夜風に当たり、汗が冷えて急に寒気を感じてくる。体の熱が下がると同時に頭も冷えて冴えてきた。先ほどの影、どう見ても人間とはいえない。体のバランスが悪すぎる。昔見た妖怪図鑑に載っていた餓鬼のようだ。頭は大きく腹もぽっこりと出ているが、手足が異様に細長い。
餓鬼、鬼? その単語に嫌でも考えてしまうのはオニワさんだ。遊びに紛れ込み鬼の役割の子を食べてしまう鬼。十年前の事件でもし本当にオニワさんとかくれんぼをしてしまっていたのなら。アレを見た途端隠れなければと思ったのはそういうことなのだろうか。いや、あんな奇妙なもの見たら隠れるのは当然だ、夜ということもあって怖かったのだから。
だって、そう考えないと。自分は今でも、オニワさんとかくれんぼをしていることになる。汗が冷えたのとは違う寒気が背筋をなぞった。
――忘れないでね
あの言葉、もしかしてオニワさんが言ったのではないか。忘れないで、とは何のことなのだろう。会ったのか、自分はオニワさんに。さまざまな思いを振り払うように、琴音は足早にタクシー乗り場へと急いだ。