2 客ではない男の正体
久しぶりに店に立ち主役の子がまわったあとの客の相手をする。またあの子がまわってきますから私とお話しませんか、と時間を食いつないで注文を増やし、もっと金を落としてもらうのがセオリーだ。
昔の自分の客がいたらすぐに店を出るから、とママには伝えてある。余計な事には巻き込まれたくない。代わる代わる席を移動しお客の相手をしている時だった。誰かに連れてきてもらったらしい、いかにも夜の店に慣れていないという感じの客がいた。真面目なサラリーマンという風貌で金はあまりなさそうだ。年は四十台くらいだろうか。
同じテーブルに座っている男は逆に来慣れているようで女の子と楽しそうに盛り上がっている。ああいう奴の相手でいいか、一日だけのヘルプだし、と冴えない男を覗き込む形で話しかけた。
「こんばんは~、お隣、いいですか?」
「え、あ、ああ。どうぞ……」
「良かったあ、お邪魔しますぅ。カナです、よろしくお願いしまあす」
なるべく子供っぽく、少し馬鹿っぽい演技を入れて挨拶をすると予想通り、おどおどしている。店の売り上げを気にしなくていい立場なので気が楽だ、てきとうに話をするだけにしておこうと注文を取りながら当たり障りない話を振った。
男は大学の助教授で、今日は高名なセンセイとやらに連れてきてもらったらしい。連れてこられたというより断り切れなかったようだが。
「大学にこもって研究ばかりしていないで、社会勉強しろって言われてね」
「そうなんですか、どおりでちょっと緊張してるわけですね。大丈夫ですよ、飲み会だと思ってください」
おそらく若い女としゃべる機会がほとんどないのだろう。そわそわと落ち着かない様子だ、目も合わせてこない。ガチガチにならないようなるべく相手を安心させ親近感を持たせるしゃべり方や表情に徹する。この辺りは自然と身に着いたものだ、相手を観察してどんな人間なのかを予測して対応を変える必要がある。
こういう客にはまず自分が会話のリードをして、慣れてきたら相手の好きな分野を好きなだけ喋らせるに限る。自分の得意分野、好きな事をしゃべらせると無口な男でもやたらとしゃべるのだ。気分が良くなって来ればこちらのもの、飲み物の注文を促せばいろいろと注文してくれる。
「大学では何を研究してるんですか?」
この辺りの質問が一番無難だろう。専門分野などわかるはずがないので、凄いですね教えてくださいと言えば好きに語るはずだ。男は一口ビールを飲むと呟くように言った。
「風土や風習だよ。伝承とか、言い伝えとかを研究してる。何でそんな風習があるのか、歴史を調べたりね」
「へえ、そうなんですか。例えばどんな風習があります? 面白いものとかありますか?」
「そうだな、例えば。ヌキかな」
「ヌキ?」
案の定聞いたことがない単語に琴音は首を傾げる。どんな字なのかも想像がつかない。
「鬼だよ。抜く鬼と書いて抜鬼。ある地方に伝わる鬼なんだけど。聞いたことない?」
「ちょっとわからないですねえ。鬼なんて……」
「そうかな? 君は知ってるんじゃないの」
急に口調が変わった。先ほどまでいかにも場慣れしていない気の弱そうな男だったというのに、今は真っすぐ琴音を射貫く視線で見つめてくる。その雰囲気に琴音も一瞬たじろいだ。
「え、ええっと」
「抜鬼という表現はしなかったかな。じゃあ、こう言えば通じる? オニワさん」
その言葉を聞いて琴音は背筋が凍るかと思った。客に対してポーカーフェイスを崩したことはないというのに、目を見開き男の顔を凝視してしまう。男は無表情で琴音を見つめていた。
「知ってるよね、オニワさん。息子もよく言ってたよ。年寄りがオニワさんオニワさんって昔話してたらしいからね、安東琴音さん」
本名を名乗った覚えなどない。いや、知っているのだ、彼は。オニワさんの伝承は殺人事件があった当時の地元に伝わる伝説だ。それを知っていて、琴音の名前まで知っているのなら間違いない、この人はおそらく。
「そういえば自己紹介がまだだった。ササキという。普通にイメージする三文字の佐々木じゃなく、植物の笹と木で笹木だ。知っているだろう? 拓真の苗字だから」
「……」
笹木拓真。被害者の一人で琴音と一緒に遊んでいた男の子。
「あと五日で息子の命日だ。いろいろと話したい。まあ、場所は変えたいから店が終わったら連絡してくれ。君の為でもあるよ。主に身の安全、って意味で」
笹木は手帳を開くと中に入っていた付箋に電話番号だけ書いて琴音に押し付ける。何も言えずにいると連れの男に二言三言、何かを言うとそのまま店を出た。付箋を持つ手が震える。
「カナちゃん、二番ヘルプ入って」
「は、はい」
ママからの指示にはっとして別テーブルへと移った。その後なんとか引きつりそうになる顔に無理やり笑顔を貼り付け、失礼のないように客の対応をこなしていく。しかし頭の中は笹木の事でいっぱいだった。
最初のおどおどした雰囲気とはうって変わった静かな空気だった。おそらく冴えない男のような雰囲気は琴音を近づけさせるための演技、油断させるためのフェイクだ。店に来たのが偶然だと考える程能天気ではない。調べられていたのだ、どこで何をしていたのか。住所などもばれている可能性がある。
客との会話が全く頭に入らない状態で店は終わり、また働かないか、というママの誘いを丁寧に断り今日働いた分の給料をもらうと琴音は足早に店を出た。
電話をかけるべきか、少し迷った。無視していいし何ならストーカーをでっちあげて警察に行ってもいいかもしれない。危害を加えられてからでは遅い。
しかし気になるのは去り際のあの一言だ、君の為でもあると言っていた、しかも身の安全。それに雰囲気に敵意がなかったのだ。子供の頃保護者達から責められていた時、皆凄い剣幕だった。明らかな敵意と悪意を向けてきたのを今でもはっきり覚えている。殺されるのではないかと思うくらい怖かったのだ。
しかし笹木はどうかと言えば、先ほどの雰囲気はそういうのとは少し違う気がする。以前客の中で自称占い師が居たのだが、それまで酔っぱらった様子でへらへらしていた占い師が急に真剣な顔になり忠告をしていた事があった。
「二十歳までに大きな試練がある。逃げてはいけないよ」
何の事だろうと首を傾げた。あの時の占い師の真剣な表情に笹木の雰囲気が似ていた。忠告、警告だろか。いずれにせよ、あの時の保護者達のように琴音を責め立てる気はないようだ。
迷った挙句、琴音はメモの電話番号に電話をかけた。念のため非通知でかけると一度目の呼び出しですぐに電話がつながる。
「今終わった」
短くそう言えば、笹木は最寄り駅の北口を指定してきた。琴音が終わるまでずっとこの辺りで時間を潰していたらしい。その執念に警戒しながら注意深く駅へと向かった。
北口は住宅よりバーや飲み屋が多いエリアだ。琴音が働いていた店も北口を歩いて五分ほどいったところにある。酔っ払いが騒いでいる中、一人タブレットを操作しながら壁に寄りかかっている笹木の存在は何だか浮いて見えた。