2 わすれないで オモイダスナ
何のために? 見つからないようにするためだ。何から? 誰から? ドクン、ドクン、と心臓が高鳴る。この鼓動は見つかってはいけないという緊張感だ。見つからないように小声で会話した。誰かが言ったあの言葉。
「十月、二十一日……」
口に出して呟いた。ふとパソコンに表示されたスケジュール表を見れば今日は十月十五日。あと六日で二十一日だ。今までこの日にちを気にした事はない。いや、気にしないようにしていた。何故ならその日は事件が起きた日だからだ。
先ほどの声、本当に無意識に突然思い出したのでもう声の特徴を忘れてしまいそうだが子供の声だ。考えられるのはあの当時の友達しかいない。連続児童殺人事件。この事件を琴音はなるべく考えないようにして生きてきた。昔は気にしすぎて鬱のような症状が出たが、店のママから「嫌な事は何とかしようとせず遠ざけて逃げるのが一番。逃げが臆病、挑めなんて、イージーゲームしか制した事のない奴らの暴言よ」と言われ少し気が楽になった。それ以来この言葉を大切にし、気にしそうになった時は知らない、関係ないと言い聞かせてきた。
何故生きていた自分が死ねば良かったなどと罵られなければいけないのか。覚えていないものは覚えていないのだから、何を言われても自分にはどうしようもない。考えるだけでストレスだ。最近忙しくてずっと気にしないで過ごしていたというのに台無しだ。琴音は小さく舌打ちをした。
軽くストレッチをすると身支度を整えて外に出る。苛々したら外に出るようにしている。体を動かした方が気分が晴れるからというのもあるが、部屋に閉じこもっているのは昔から苦手だ。閉所恐怖症というわけでもないのだが、小さな空間にじっとしていると落ち着かなくなってくる。
そういえば、あの日。なんとなくだが、かくれんぼをしていた気がする。神社があり、公園があり、あちこちに散らばった状態で見つかった友人達。たぶんそこに隠れていたのだ。自分が発見された場所は境内の中にある小さな社のような物の中だったと聞いた。社は本当に小さく大人が一人入れるかどうかとう大きさだ。当時小学生だった琴音は余裕で入れただろうが狭い事には変わりない。たぶんその影響だ、暗く狭い場所が好きではないのは。
何故そんなところに入ったのか自分でもわからない。幼かったとはいえ入ってはいけない場所だということくらいはわかる年齢だったはずだ。そこまで考えて小さく頭を振る。
「知らない。考えても無駄」
わざと声に出して深呼吸をする。考えるな、気にするな。心の中で数回呟いた。自分の心を、精神状態を安定させて守るには関わらないのが一番だ。
外に出れば鬱陶しいほどに人が町に蔓延っている。平日だというのにうじゃうじゃと人が町に溢れ、歩きスマホをして前を見ていない者も少なくない。
……ウザイ。
子供の頃住んでいたあの村は人口が少なかった。歩いていて人とすれ違うことなどあまりない。大人は農作業をしていたし子供の数は少なかった。商店街などはなく田舎特有の生活用品が売っている小ぢんまりした商店が一軒、二軒あったくらいだ。
だからいつも遊んでいたのは昔ながらのかくれんぼ、鬼ごっこなどだった。同じ遊びを何回やってもいつも違う展開で面白かった。足が遅い子もいたが障害物がたくさんある場所で遊べば意外と最後まで残っていたものだ。
じゃあ、×××が鬼ね
百数えたら、探すからね。いくよ、いーち、にーい
きゃあ、逃げろ逃げろ
あははは
何となく頭に響くそんな会話。そうだ、よくやっていたのはかくれんぼだった。神社、公園、竹林、いろいろと隠れるところがあったからだ。隠れるのが上手かったのは、確か……。
そこまで考えて、ブツンと音がした。はっとして正面を見る。真昼だというのに、今も人々が歩いているというのに音が一切しない。白昼夢のようにゆらゆらと揺れる景色。その中央、目線の先に子供が一人立っている。逆光だろうか、黒い影のようになって男か女かもわからない。
「十月二十一日だよ」
まるで水中にいるかのようにくぐもった声だ。子供のはずなのに大人の声にも聞こえるし男にも女にも聞こえる。その子供から目が離せない。
「忘れないでね」
「ワスレナサイ、オモイダサナクテ、イインダヨ」
ぞわり、と寒気が走る。急に割り込むように入ってきた二つ目の声はどこから聞こえただろうか。優しい言い方の様で有無を言わせない強い意志を感じる。
ずきん、ずきんと頭が痛い。思い出さなければいけないことがあった気がする。忘れてはいけない、大切な事を。でも、忘れろとも言われた。そんな事、覚えていなくていい。思い出さなくていい、忘れろ。
がしり、と何かに頭を挟まれる。ビクンと体が大きくはねた。左右から同じ大きさの何かにぎゅっと挟まれ、少しずつ力が増していく。
「オモイダサナクテ、イインダヨ」
それはむしろ、思い出すのは許さないとでも言われているかのようで。頭を挟んでいるのは、手だ。頭を包み込んでしまうのではないかという大きな手。耳を塞ぐかのように、頭を包み込むかのように、左右からがっしりと手で包まれている。このまま頭を潰されてしまうのではないかという恐怖が生まれる。
「忘れないでね」
「ワスレナサイ」
二つの声が交互に聞こえる。一体何を忘れてしまっているのか、誰が思い出せ思い出すなと言っているのか。眩暈がする。くらくらする。
チリンチリン、と自転車のベルが鳴らされて周囲を見渡す。後ろから来ていた自転車を避けて改めて先ほどの場所を見たが誰もいなかった。
先ほどの体験はなんだったのだろうか。明らかに昔起きたあの事件に関係する事だとは思う。でも、一体誰が言っている言葉なのか。忘れないで、ははっきりと子供の姿が見えたので昔一緒に遊んでいた誰かだ。顔が見えずわからなかったが声に聞き覚えがない。いろいろな声が混ざっていてわかりにくかったというのもある。
ワスレナサイ、というあの声も全く聞き覚えがなかった。大人の声だとは思うがくぐもっていてよくわからない。優しく言われていたらまだ看護師や医者が励ましてくれたのだろうかと思えるが、あの恐ろしい雰囲気はなんなのだろうか。
事件を忘れないで欲しい人と、事件を忘れた方がいいという人。そこまで考えて、いや、違うと気付く。事件が起きた日は確かに十月二十一日だが、その日は全員殺されているはずだ。死んだ後に忘れないでと言えるはずもない。つまり十月二十一日は事件を忘れるなという意味ではない、何か別の約束だ。それを確かめようにも、もう誰も生きていないが。
気を取り直してカフェラテを買い一口飲む。相変わらず歯が溶けるのではないかというほどに甘い。疲れた時なんとなく甘い物を飲みたくなるのを考えると今精神的に疲れているのだろう。あの事件の事を考えたり思い出そうとするだけでストレスだ。はあ、と大きくため息をついて二口目を一気に飲んだ。