9 負けてたまるか
しかしめそめそしても仕方ない。先ほど笹木が言っていたマインドセットというのを試してみるしかなさそうだ。
おまじない、何がいいだろうか。言葉で自分は大丈夫だと繰り返すのはあまり効果が無い気がした。テーブルに頬杖をついて目を閉じる。どうしよう、どうしたらいいんだろうというモヤモヤしたものが燻っている。
「コッコ」
またあの子だ。
「大丈夫だよ」
額に何かコツンと当たった気がした。笹木の指だろうか、いや違う、笹木はここにいない。でも昔こうして額に何か当たっていたような、そしてそれはとても安心する何かだった気がする。
目を開くと手で軽く額を押さえて摩る。本当に弱い力で、小鳥を撫でる位の力で。
「大丈夫だよ」
あの子の言葉が蘇る。大丈夫だ、大丈夫。自分でもそう言い聞かせ深呼吸をする。先ほどまで胸の中に渦巻いていた黒いものはまるで霧が晴れるようにすっとなくなっていくのを感じた。
見つけた、自分のマインドセット。いや見つけたと言うより、思い出したというべきか。
不安になった時あの子がいつも言ってくれていた、大丈夫だった。その言葉にいつも勇気づけられ前を向けた。それはきっと文字通りのおまじないだ、額に何かを当てていた。それが何なのか思い出せなら額を撫でることでその代わりにするしかない。自分を安心させてくれる存在。本当にオニワさんなのだろうかと疑問がわく。
少しすると笹木から資料が送られてきた。パソコンに転送して資料を開いてみる。資料は結論から先に書かれていてとてもわかりやすかった。そこには三人の名前が書かれていた。
「加賀、小谷、長崎」
全員五、六十代の男で警察と書いてある。十年前の事件を担当した刑事と言うことだった。中心人物は加賀と言う男でこの地域の警察の捜査一課課長と書かれている。
「加賀……」
覚えがあるようなないような、はっきりとは思い出せない。捜査を担当していたのなら琴音に事情聴取をしに来たはずだが、あの頃はいろいろな人が入れ代わり立ち代わり琴音を訪ねてきたので誰がどんな顔だったかははっきりしていない。警察など何人も話を聞きにきたし、おそらく事件のショックから意識がぼんやりとしていたこともあって毎日夢を見ているような感覚だった。事件のことを覚えていないが、意識が戻った後のこともあまりよく覚えていない。
そして読み進めると琴音は目を見開いた。そこに書かれていたのはどうも警察内部で隠蔽工作のようなものがあり事件を有耶無耶にしてしまったのではないかということだった。
さらにこの三人の出身地なども書かれており、三人は村の出身であることもわかっている。興信所の見解として何か都合の悪いことが事件によって明るみに出そうになったので、警察内で調査内容を捏造されたのではないかということだった。センセーショナルな事件だっただけに周辺ではあの事件はだいぶ騒がれた。警察の人数もかなり動員されたようだが、その後も新しい情報もなく事件を風化させないためのリマインドなども行っている様子は無い。
警察が何かを隠しているのなら必ず犯人がいるはずだと笹木は考えたのだろう。そしてそれは村の何かを隠したいからという線と、警察の不祥事や信頼に関わるようなことを隠したかったという線が挙げられている。笹木が推測していた通り村人が何かを隠そうとしていてその中にたまたま警察に勤めているこの三人も含まれていたのだとしたら、警察と言う立場を利用して都合の良いように事実をねじ曲げてしまうこともできる。
「まさか……」
先日から見ている白昼夢、思い出さなくていいんだよと言う声。あれを言ったのは隠し事をしたい誰かではないだろうか。この凄惨な事件の中に隠された重要な「何か」を琴音は見聞きしてしまい、それを思い出させないために忘れるようにと言ったのではないだろうかと言う推測が立つ。資料を読み進めると笹木の追加したらしい文章が入っていて、同じようなことが書かれていた。強制的に何かを忘れさせられている、それが鍵だ、と。
考えてみれば矛盾が生じてしまうのだ。十年前何かを約束してしまった、しかしそれは忘れないでと言われているのだ。忘れてしまうのは琴音の為にもならないし約束をした相手の為にもならない。では琴音が忘れることで得をするのは一体誰なのか、何のために忘れなければいけないのか。
「忘れないでね」
「わすれないでね」
「思い出さなくていいんだよ」
冗談じゃない、とだんだん怒りが湧いてきた。なんで自分がいつまでも他人に振り回されなければいけないのか。怖い怖いと受け身になってしまっている自分にも腹が立つ。自分に味方などいない、親だって守ってくれなかった。だったら自分でなんとかするしかないと、自分だけの力で生きようと、自分が変わらなければダメだとがむしゃらに頑張ってきたというのに。
先程のおまじないが効いたというのもあるが、ようやくいつもの自分の調子に戻ったことが少し嬉しく冷蔵庫からペットボトルのミルクティーを持ってくると一気に半分飲み干した。まるでビールでも飲み干したかのようにぷはあ、と息を漏らして自分なりに時系列にまとめて今わかっていることを書き出してまとめていく。
笹木は笹木で推測や事件の整理をしていることだろう。自分は自分なりにオニワさんがいると想定した上で事件の整理をしていけば良い。後で笹木とそれをすり合わせたときに疑問があればぶつければいい、否定されたら思い出せる限りの記憶と情報をぶつければ良い。
なんだか「負けてたまるか」と言う思いがこみ上げてきた。それは十年前の事件、いるかもしれない犯人、そして冷静に考えてみると自分の都合ばかりを一方的に押し付けてくる笹木。すべてに負けたくない。やってやるという思いとともにわずかに口元に笑みが浮かんだ。
しかしふと気づく。オニワさんに対しては、負けてたまるかとかやってやるとかそういう気持ちが一切生まれない。そこにあるのはこのわずかの恐怖と懐かしさと、悲しさだった。その悲しさが一体何に対する悲しみなのか今の琴音にはわからない。
資料に書かれていた気になる事は先ほど笹木が言った通りこの三人が何か隠しているのではないかと言う情報提供してくれた人の詳細だった。
なんとそれは小谷と言う男の息子。長年この事件に関して父親が怪しいと思っていたそうだ。しかし相手が警察であること、この事件にそこまで自分が深く関わろうと思っていないことから疑念を抱くだけで特に行動していなかったのだそうだ。なぜ疑念を抱いたのか、ということに関しては興信所の人間にそこまで話す気はなかったのか言葉を濁されて終わったらしい。興信所も商売でやってる以上引き際が肝心なのでそれ以上探る事は断念した。
わずかに聞き出せた内容は、こいつだったらやるんじゃないかと思わせる人物に心当たりがあると言うことだった。その人物の名前を聞くことができなかったと報告にあるので、笹木はこの小谷の息子に会いに行ったのだろう。小谷と言う名前にもあまり覚えがない。そっちは笹木に任せたほうがよさそうだ。
犯人がいる説のほうは動きがあり着々と進んでいる。もしこのまま本当に犯人が判明して事件が解決したら、それはもちろん喜ばしいことなのだが琴音にとって一番重要なことが残ってしまう。十月二十一日、約束の何かを思い出さなければ食べられてしまう。その根本的な解決になっていないのだ。あっちはあっちで調査を進めているとなるとこちらはこちらでオニワさんについて調べを進めなければ取り返しのつかないことになってしまう。極論、笹木は拓真を殺した犯人がわかればいいのだ。琴音が死んでもいいとうわけではないだろうが、オニワさんに関して最後まで協力してくれるとは限らない。
このまま催眠療法の日まで本当に何もやる事は無いのだろうか。何の準備もせず過去を思い出すことに集中してしまって良いのだろうか。命がかかっているのなら変な意地をはらずできる事は何でもやってみなければ始まらない。