第一章 陰陽師姫神隠しの怪に遭う話 八
最後の男は語る
神隠しといわれている行方不明の事件の最初の被害者である大江 秀正に話を聞いた次の日の午後、伽羅と翡翠と橘侍従の三人は、神隠しに遭ったとされる最後の男、近衛府の武官 平 季通のに会うため大内裏の西にある広大な宴の松原を歩いていた。
この宴松原には松林が広がり、昔から怪異に遭ったとされる噂が絶えない寂しい場所であるが、今は早春の午後のうららかな陽気のためか、三人はとりとめもない話をしながら歩いて行く。
やがて右近衛府の建物が見え、三人が案内されたのは弓の練習をする射場であった。
その一番奥で、背の高いがっちりとした体格の若い男が弓を放っていた。
この男が平季通のようだ。
男は三人の姿を見つけ、弓を置き汗を拭いながら駆け寄って来た。
「お待ちしておりました。
このような所までかたじけない。
平 季通と申します。」
と、頭を下げた。
平季通は射場の隅に置いてあった床子を三人に勧め、自らは古い櫃に腰掛けた。
橘侍従が挨拶を返す。
「こちらこそ手を止めていただきかたじけない。
我らは一の皇子様の命で神隠しの件について調べている。
平殿の話を伺いたいのだが。」
「承知しました。
私が神隠しといわれる摩訶不思議な体験をしたのは、二月ほど前の正月過ぎの夜のことです。」
「その日の勤務は遅番で、大内裏を出たのは真夜中近く、十六夜の月が昇っておりました。
徒歩で、左京の六条にある家へと帰る途中でした。
供は子飼の童が一人。物騒な時勢ですがこれでも武人ですので…。」
と、疲れた様に微かに笑った。
「それからしばらく歩いていると、何処からか琵琶の音が聞こえてきて、気がつくと供の童の姿は無く私一人で、見たことない立派な異国の様な屋敷のあずまやのようなところに立っていたのです。
そこには若い美しい女が座っていて…。
…。
それからのことを全く覚えていないのです…。」
平季通はそこまで語り、考えこむように首を捻った。
「でも、それからが大変でした。
その夜から二日後に右京の下町の道端で倒れているのを見つけてくれたそうですが、私が目を覚ましたのはその四日後だったそうです。
たった六日間のうちに酷く痩せてまさしく精気を吸い取られたような有様に、妻には激しく浮気を疑われて、どこかの女とよろしくやってたんだろうと散々なじられました。」
そして顔をしかめ、
「違う!よく覚えていないと、正直に話したのに、妻はますます激高して泣き喚くやら暴れるやら…。
いやー、それから宥めるのが本当に大変で。
言葉を尽くして、掻き抱いて、隅々まで奉仕して…」
「うっ、ううん。」
橘侍従は妙な咳払いをする。
翡翠は美しい眉をひそめ、伽羅は少し顔を赤らめ俯いた。
「え?あ…失礼しました。」
「でも、本当に自分でも不可解なのですが、何というか、愛しいというか…。
顔もよく覚えていない女なのに…。
魂があくがれるように気がつけば心がここに無いみたいで…。」
「やっぱりこれは妻が言うように浮気しているのでしょうか…?」
と、平季通は筋肉の落ちた大きな体でうなだれた。
翡翠は伽羅に向き直り尋ねる。
「伽羅、これも同じと思うか?」
「ええ、同じ臭いがします。
魂がまだ囚われたままかと。」
「祓えるか?」
「はい。お任せ下さいませ。」
伽羅はいつものごとく小さな呪符を取り出し、口の中で小さく呪を唱え息を吹きかける。
ぽかんと見つめる平季通の額にそれをかざすと、白く光りはらりと落ちた。
「女官殿は陰陽師だったのか…!」
「はい。もう悪しき気配は消えましたが、ご気分はいかがですか?」
「あ、ああ…。何か頭の中がスッキリしたような…。」
気の抜けたような顔をした平季通に、小さく微笑む伽羅を見て翡翠もふっと笑いを漏らした。
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