第一章 陰陽師姫神隠しの怪に遭う話 七
最初の被害者は語る。
次の日の夕刻、伽羅と翡翠、橘侍従の三人は中務寮の下級文官である大江 秀正の元を訪ねていた。
中務寮は後宮や帝のお住まいになる内裏を出て広大な大内裏の中にある建物の一つにある。
長い廊下を案内されて進み、ある部屋の前で止まった。
外より橘侍従が声を掛ける。
「失礼、大江 秀正殿おられるか。」
と、中へ入る。
あまり広くはないその部屋には幾つかの文机と、その上にも床にまでたくさんの巻子や木簡、反故紙が積まれており、若い男がそれらに埋もれるように何やら書き物をしていたが、三人気づき慌てて左手の筆を置く。
「あっ、少々お待ちを。」
と、床の上に散らばっていた物を脇に追いやり、三人分の座る場所を空けてくれた。
「改めまして大江 秀正でございます。
このような所に申し訳ありません。」
と、三人に向き合い挨拶をした男は、歳の頃は二十代前半か、痩せ気味で眼の下には隈のある実直そうな男であった。
大変優秀な成績で大学を出たと聞く。
目の前の若い翡翠と同じく女官の伽羅、橘侍従の組み合わせに少し不思議そうな顔をしている。
「こたびはわざわざすまない。
我らは一の皇子様の命により、そなたが遭った神隠しといわれる件について調べている。
その時のこと、詳しく聞かせてもらえないだろうか。」
と翡翠が口を開く。
「承知いたしました。」
そして大江秀正が思い出すように語り始めた。
「私が奇妙な体験をしたのは三月ほど前の十六夜の月の夜のことでございます。
仕事が立て込んでいてなかなか終わらず、大内裏を出たのはすっかり月が昇った頃でした。
七条にある自宅へと道を急いでおりましたところ、何処からか微かに琵琶を弾く音が聞こえてきて、その後のことは思い出せないのです…。」
と、深くため息をつく。
「ただ、途切れ途切れに覚えているのは、何処か異国の建物のような場所に居たことと、異国の着物を着た女がいました。」
「そして、その女を、見たことも会ったことも無いはずなのになぜかとても愛おしく思えて…。」
そこまで語り、力無く微かに笑った。
「私が覚えているのはこれだけです。
そこが何処だったのか、その女が誰なのか、なぜ私だったのか…。
今考えても分からないことばかりです。」
その後は連絡も無く帰宅しなかった息子を心配した大江秀正の母が検非違使に相談し、探してもらったところ、その二日後右京の下町で意識の無い状態で発見されたという。
家に運ばれてもずっと眠ったままで、衰弱し、一時は命の危険もあったが、その八日後にやっと目覚めたそうだ。
そこまでの話は一昨日に会った貞行卿に聞いたのとほぼ同じだった。
「それから一月程経ってやっと元の通りに出仕できるようになりました。
が、それからもずっと体が重く、頭の中がもやもやするような…。
特に夜、寝るのが怖いのです。
またあの場所に戻ってしまうかもしれないと思うと…。」
そう言って大江秀正は窶れた様子で肩を落とす。
しばらく沈黙が続く中、翡翠が口を開く。
「伽羅、どう思う?」
じっと見つめる眼を見返して伽羅は答える。
「少しですが、嫌な臭いがします。
やはり異なモノの仕業かと。」
「しばらくそのままに。」
伽羅は懐より一枚の呪符を取り出し大江秀正ににじり寄った。
口の中で小さく呪を唱え、それにふっと息を吹きかけ額の上にかざす。
一瞬、白く光りはらりと呪符が落ちた。
驚いた顔をした男三人に向かい、
「もう大丈夫です。悪しきモノは祓われました。」
と、にっこり微笑んだ。
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