第三章 陰陽師姫の失恋と最後の戦いの話 五
伽羅大好きな兄実重
次の日、父と兄とともに久々に陰陽寮へ出仕した伽羅は、何だか居心地が悪い思いをしていた。
先ほどから兄の手伝いをするため、巻子や書物を繰っているが、伽羅にはいつも通りニコニコと話しかける兄の笑顔がたまにピリピリしている。
朝から何人もの若い官吏達がこの部屋に出入りし、チラチラと伽羅の方を見ている気配がする。
目が合うと、頬を赤らめそそくさと出ていくが、
その度に兄の笑顔が黒くなっていく気がする。
「なぁ伽羅、この部屋に結界を張ってくれないか。」
「え?結界ですか。出来ないことはありませんが、必要ですか?お兄様。」
「ああ、必要だ。」
伽羅は何故だかよく分からないが、小さな呪符を取り出し、部屋全体に結界を張った。
御簾の向こうで、「ぎゃっ!」とか「うおっ!」
とか叫ぶ男のこえがした。
「さ、これで落ち着いて仕事ができるね。伽羅。」
と、嬉しそうな兄に、隣に座っていた安倍次官が
「やりすぎです。天文博士様…。」
と、大きなため息をついた。
そして三人は黙々と作業を続け、今から八十四年前、弘順帝の時代に明け方西の空に大きな火球が現れたという記録を見つけ、本日は一旦作業を終えることとなった。
昼過ぎ、大内裏を退出した伽羅は、三条の屋敷へ帰る前に帰京の報告と様子見を兼ねて、二の皇子が住まう二条邸を訪ねることにした。
案内を断り、伽羅は裏庭の奥の林の中を進む。
昨年の秋、伽羅達が斃した餓鬼が閉じ込められ、密かに呪詛が行われていた倉庫のような建物は綺麗に取り壊され、その跡地に浄化の意味を込めて、伽羅は大賀玉の木を植えた。
まだ二尺ほどの小さな苗木だが、きっとこの土地に残っている穢れを清めてくれる立派な木に育つだろう。
伽羅は水を掛けながら呪を唱える。
何度か浄化を行っているが、四人もの人が亡くなり、鬼を屠ったこの地に染みついた穢れはかなり強い。
穢れとは、触れれば体調や物事に不調をきたすといわれるものである。
血や病などで、最も不浄だとされるのが人や動物の死である。
穢れをそのままにしておくと、悪い影響を及ぼすだけでなく、新たな穢れや悪しきモノを呼び寄せる不浄の場所となる。
特に殺されたり怨みを持って死した人の魂は強い穢れとなり人に害をなすモノとなる。
悪霊や怨霊といわれるモノがこれだ。
そうならないよう、伽羅達陰陽師や神や仏に仕える者達が穢れを浄化し魂を鎮めるために祓いを行い祈る。
「帰って来てたのか。伽羅。」
「あっ、二の皇子様。先日戻りました。」
「ま、茶でも飲んでいけ。」
二の皇子基康親王とは、あの事件以来、何度か浄化や怪我の祓いのためにここに通っているうちに、仲良くはないが、茶を飲む間柄ぐらいにはなっている。
二の皇子は左肩に大怪我を負い、その後遺症で左腕と指が以前のように動かすことができなくなった。
わずかに肘から下と指の何本かを動かせるのみだ。
その事により、一の皇子の東宮冊立が決まり、二の皇子の皇位継承順位は二位から三位に下がった。
帝ともなれば、穀物を捧げて収穫を感謝する新嘗祭などの神事や、邪を祓うために弓を引く儀式もあり、今の二の皇子の身体では無理だとされたためであった。
入れ替わりに、二位に上がったのは、先日伽羅が宣耀殿の廊で言葉を交わした男、一の皇子、二の皇子とは従兄弟になる中務卿宮是久王だ。
歳は伽羅と二の皇子と同じ十六才。
柔和な整った顔立ちで穏やかな人柄であったが、今まで特に目立つこともなく、かといって悪い噂も無く、翡翠と同じような境遇だったといえる。
去年の秋の事件で二の皇子がこの様なことになったために脚光を浴びるようになった。
そんな二の皇子だが、伽羅が見る限り、自分の境遇を嘆くでも無く、誰かを怨むでも無く、日々を淡々と過ごしているように思う。
「まだ肩の傷は痛みますか?」
「いや、もうほとんど痛みは無いが、元通りにはならなかったな。」
「でも諦めずに訓練をしていけばもう少し元通りになるんじゃないかと。」
「は、いいんだよ。このままでも。
人として罪を償え!って言ってたのは誰だ?」
「えっ、それは…。」
二の皇子の毒舌はそのままだった。
「まぁ、気長に何とかするさ。
必要があるまではな。」
「それよりお前は良いのか。
こんな所で油を売ってて。兄上のところは忙しいんじゃないのか?」
「それは…そうだけど。何となく、私は居なくてもいいかな。って…。」
「ふうん?まあ、俺には関係無いがな。」
何か言いたげな二の皇子の視線に、伽羅は気づかないふりをして、二条邸を後にした。
久しぶりの二の皇子 引きこもり中
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