第三章 陰陽師姫の失恋と最後の戦いの話 一
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いよいよ第三章スタートいたします。
翡翠の立太子とお妃騒動に揺れる伽羅。
宮中を震撼させる事件と二人の最後の戦い。
そして二人が選んだ結末とは…。
ハッピーエンドを目指し、ラストまでよろしくお願いいたします。
大寒は過ぎたが、まだまだ春は遠い凍てつく冬の朝、後宮では色とりどりの袿に緋色の袴姿の女官達が白い息を弾ませながら朝の支度にきびきびと立ち働いていた。
その内の一人の女官が朝の膳を捧げ、いそいそと後宮の端っこにある淑景舎へ向かう。
壺菫色の袿に山吹色の小袿を重ねた艶やかな装いの美しい女官は、一の皇子のいらっしゃる庇の間の御簾の前に立った。
「おはようございます。
朝餉をお待ち致しました。」
「ご苦労。」
中から侍従の橘光資が声を掛ける。
そしてそのまま膳を捧げ持ち、御簾を潜り中へ入っていき、皇子の姿を見て大輪の花のような笑顔を浮かべてその御前に膳を置き、皇子の脇へと座り、その召し上がる様をニコニコと見ている。
「藤典侍殿…。」
男らしい目元に困惑の色を浮かべ、呼びかける橘侍従を無視し、そのまま一の皇子へ話かける。
「皇子様、本日も麗しくございます。
昨夜お待ち致しました、温かい御井酒はいかがでございましたか?
仰って頂ければお相伴に預かりましたのに。」
と、扇で口元を隠し、妖艶な笑みを浮かべた。
「藤典侍。」
「郁子とお呼び下さいませ。」
「御井酒については礼を言おう。
この後の朝儀の打ち合わせがあるから下がってはくれないか。」
と、幾分冷めた口調で翡翠が言った。
「まあ、でしたらまた後ほど膳を下げに伺いますわね。」
とにっこり微笑みながら藤典侍は御簾から出て行った。
「ミコサマ、我はアイツの匂いが臭くてかなわん。」
部屋の隅に置かれた籠の中から、黒とこげ茶色のしましまの小さな猫がぴょんと飛び出してきて人の言葉で言う。
先々月、翡翠が宴の松原で拾って帰って来た玄丸だ。
もちろんただの猫ではない。
時々子供の姿となり、淑景舎で小舎人童をしている。
「あぁ、そうだな。朝からあの匂いはきついな…。」
そう言って翡翠はそっと半蔀を上げた。
冷たい朝の空気が部屋の中に残るきつい麝香の甘ったるい香りを消していく。
そして微かに香る新たな仄かな甘い香に目をやると、手入れされた庭に白い水仙の花が咲いていた。
その白い凛とした花の立ち姿に伽羅の面影を重ね見て、翡翠の心は甘く疼いた。
年が改まり、翡翠は十七歳になった。
母譲りの濃い緑色の瞳に端正な顔立ち、背も伸びて今や匂うような貴公子ぶりである。
この正月の諸官を任命する除目で、一の皇子こと宗興親王は東宮の宣下を下され、春に皇太子として立つことになった。
昨年の秋に起こった一の皇子の呪詛の事件により、宮中の役職も刷新された。
病死とされた左大臣藤原師頼に替わり、右大臣だった藤原経信公が左大臣に、新しい右大臣には昨年の春に息子の貞行卿が神隠しに遭い、伽羅達が最初に訪れた屋敷の主、藤大納言藤原惟通公が就くことになった。
そして後宮の様子も今までとはガラリと変わった。
呪詛の事件で典侍の職を罷免された伽羅が後宮より去り、権勢を誇っていた弘徽殿の中宮も病という理由で出家し、都から遠く離れた山寺に隠遁した。
その息子の二の皇子基康親王は怪我の療養のため、主のいなくなった二条にある元左大臣邸を譲り受け、後宮には帰らず引きこもっている。
今や後宮に住んでいるのは、淑景舎(桐壺)に一の皇子、登華殿に故右大臣の妹であった帝の妃の一人である登華殿の女御と、凝花舎(梅壺)には帝のただ一人の娘である今年十四歳になる淑子内親王とその母の梅壺の更衣が、貞観殿には帝の生母である皇太后がお住まいになられている。
一時はひっそりとしていた後宮だが、今は別の意味で騒々しい場所となってしまった。
一の皇子が東宮に立たれることが公にされ、宮中はこの慶ばしいお達しに一気に沸いた後、次の関心事は誰が東宮妃になるのかである。
東宮となられ、後には帝位につかれるため、東宮妃として入内し、そのたくさんの妃の中から選ばれて次の中宮や皇后となり、男御子を産めばゆくゆくはその次の帝の母、国母となる可能性もある。
娘の産んだ子が帝となれば、帝の外祖父として太政大臣、帝が幼ければ摂政関白となり、位人臣を極め、栄華を誇ることになるかも知れず、娘を妃にする事は一族の繁栄の足掛かりになる重大な案件であった。
孫である二の皇子を東宮にしようと人の道を踏み外した故左大臣もそうであった。
そのため身分や財力のある家に将来の東宮と歳の釣り合う娘が産まれれば、家の命運をかけ、全力で娘を妃に相応しい女性となるよう育てる。
伽羅の替わりに典侍となった藤典侍、藤原郁子もそうだ。
亡くなった前々任の右大臣の娘で登華殿の女御の姪であり、歳は伽羅と同じく十六歳、この正月から後宮に上がり、淑景舎付きの女官になった。
東宮妃の最有力と言われている方はあと二名、新左大臣の娘と兵部卿の宮の姫で、他にも噂だけでも東宮妃を狙っていると言われる高家の姫君達は片手を下らない。
途端に騒がしくなった周囲に翡翠はふうーっと一つため息をついた。
あの凛とした黒い瞳の小柄な美しい少女は今はもうここにはいない…。
「父上、伽羅姫は元気でやっているのでしょうか。」
同じ日の朝、内裏へ出仕する牛車の中、伽羅の事が大好きな兄、源実重は父に似た優美な顔を心配そうに曇らせ、同乗する父に話しかけた。
この正月の除目で父、源雅忠は陰陽頭と兼任で帝の秘書ともいうべき蔵人頭を拝命した。
実重も陰陽寮の天文博士へと昇任している。
「ああ、真白もかるらもついているからきっと元気にやっているのだろう…。」
と、渋さを増した面に少しの寂しさを滲ませ、明るい日差しに白い息を一つ吐いた。
伽羅どこ行った…。
注 壺菫色 濃い赤紫
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