第二章 陰陽師姫の初恋と受難に遭う話 十九
それぞれの思い。
(一体ここは何だ?何かがおかしい…。)
右京二条にある広大な左大臣藤原師頼の屋敷の釣殿で、二の皇子こと基康親王は冷たく整った顔を不機嫌そうにしかめ、がちゃんと叩きつけるように盃を膳の上に置いた。
ひっ!と、脇で酌をしていた侍女が小さく声を上げ、思わず後ろへ下がる。
「もういい!皆下がれ。」
人が去り、がらんとした釣殿で二の皇子は腕を枕に横になり、あの日からのことを考えていた。
源典侍を助けてやろうとわざわざ牢まで行ってやったのに手ひどく拒絶され、腹を立てて帰ったこと。
しかもその三日後、遠流になるはずが帝の命で赦されてその後何処かに姿を隠したこと。
そして何よりも、毒に犯され明日をも知れぬ命と言われていた兄皇子が今も生きていること。
聞いた話には、父帝の計らいで腕の良い陰陽師がついたらしい。
まあ、人が病に罹ると医師や薬師とともに僧や陰陽師に祈祷させて治すことが普通であるため、特に珍しくはないが、よっぽど優れた術者だったのか後遺症も無く、再び朝儀にも出て以前と変わりなく過ごしていると聞いた。
「アイツなど早くいなくなればよいものを…。」
それでずっとムシャクシャしている。
少し前より母上が、そして兄皇子が回復したのと同時期に祖父が病になり二条の屋敷に臥せている。
それで俺は二人の見舞いを口実に後宮より出て来たのに…。
それが屋敷に来てみると何かがおかしい。
以前はこんな風では無かったが…。
屋敷の者達は皆、暗い顔をして何かに怯えているようにビクビクしている。
始めは屋敷の主人である祖父と宿下りしている母上が病に臥せているためかとも思っていたが何か違う。
それにせっかく見舞いに来たのに祖父は御簾の奥深くに籠っていて会うこともできないし、自分に会いたがるはずの母上も
「感染る病だから来てはなりませぬ。」
と、御簾の中に入れる事もなく、わずかに声を聞けたのみだった。
かといって、アイツが何かと持て囃されている後宮に母上を残して一人帰るのも癪に触るし、仕方なくこの二条の屋敷で毎日やる事もなく酒を飲んで過ごしている。
(くそっ。全く面白くない…。)
二の皇子はイライラをぶつけるように膳を払い除けた。
ひっそりとした屋敷に土器の割れる音だけが響いていた。
一方、後宮の淑景舎ではすっかり体力を取り戻した翡翠が精力的に真犯人を捕らえるべく行動を起こしていた。
後宮に居場所を無くし、三条の屋敷へ帰ってしまった伽羅は代わりに真白とかるらをこの淑景舎に残した。
もちろん一の皇子のお役に立てるように。
その間、伽羅も体力と気力の回復に励むつもりだ。
恋心とは別に、一の皇子様をお守りすることは伽羅にとっては自分に託された使命だと思っている。
そんなお方が初恋の相手であった翡翠様だったことにじわじわと喜びが湧いてくる。
実は解呪をした時、お命を救うためにやむを得なかったとはいえ、口移しで浄水を飲ませてしまったことを思い出し、ご本人は覚えてないだろうが身悶えするほど恥ずかしくて顔を合わせることができず、早々に退出して来たのだった。
翡翠は焦っていた。
自分を呪詛し、伽羅を嵌めようとした犯人はまだ何処かにいて、次の手を考えているかもしれない。
翡翠は冷静になって考えてみる。
今、自分が亡くなったら、得をするのは誰か?
そこまでの恨みを持つ理由があるのは誰か?
(欲しいのは帝位か。)
今まで何の権力も希望も持たない自分は、第一皇子ではあったが、帝位も望まず、侍従をしてくれている橘 光資には悪いが、これからも隠遁するようにひっそりと生きていくのだろうと思っていた。
それが何の偶然か、宮仕えに上がったばかりの伽羅と出会い、「神隠し」と呼ばれる事件を解決したことをきっかけに、宮中の表舞台に立たされ脚光を浴びることとなった。
それにより、今まで次の皇太子と目されていた二の皇子の派閥を刺激してしまったことは否めない。
(やはり左大臣か…。)
自分の命が狙われ、伽羅も害された今、もう後戻りはできない。
少しでも強く、賢く、力をつけなければ大切な人達を守ることはできないだろう。
だから一歩ずつでもいい、前へ進むのだ。
「真白、かるら、そこに居るか。」
「はい。」
すっと現れた二人に翡翠は告げる。
「二条にある左大臣邸を探れ。」
「承知。」
二人の姿が消えた後、空に昇った細い月を見上げる。
(伽羅もこの月を見ているだろうか…。)
不機嫌な兄弟たち。
こちらも分かり合えない…。
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