第二章 陰陽師姫の初恋と受難に遭う話 七
嵐の予感…。
「何だ、この無礼な文は!!」
土器の割れるけたたましい音と共に、弘徽殿に男の怒号が響く。
「ちょっと目立ったからといっていい気になりおって。
あの若造め…!」
「父上、声をお控えなさいませ。
誰が聞いているかわかりませぬ。」
「遠慮なぞいらん!この儂を誰だと思っておる。
儂や中宮に楯突く奴には容赦はせん。
本当に忌々しい奴だ…。
こんなことならもっと早くにやっておれば…。」
「父上! もうそれ以上は。
今は我慢なさいませ!」
興奮した二人のやり取りに周りに居る侍女達は身の置き場に困ってオロオロしている。
「私も口惜しくはありますが、口にするのはお止め下さい。
もちろんこの様な仕打ちをされて黙っておりませぬ。」
「そうだ、あと少しなのだ。もう少しで…。
よし、人を増やそう。一刻も早く…。
儂らに楯突いたこと、必ず後悔させてやる…。」
中宮は隣りで頭を冷たい手巾で冷やし、頬に大きな薬草を塗った布を貼り付けて不貞腐れている愛しい息子を心配そうに見た。
そして今朝早々に届けられた淑景舎からの抗議の文を憎々しげに破り捨てた。
「源典侍、もう体調は大丈夫なのですか。」
二日ぶりに出仕した伽羅に真っ先に声を掛けたのは尚侍だった。
「はい。ご心配をおかけしました。
もう良くなりましてございます。」
「そうですか。でもあまり無理はなさいますな。」
どこまで知っているのかは分からないけれど、伽羅に向ける眼差しは優しい。
尚侍藤原 業子は藤中納言の娘で、歳は帝より幾つか下の顔立ちのハッキリした華やかな美女である。
後宮の多くの女官を束ねる長であり、大変な才媛であった。
この時代、尚侍は帝との御歳にもよるが、そのまま妃となる者も多く、中宮や皇后に立たれる方もあった。
藤尚侍も今上帝の妃の一人ではあるが、年齢とともに今は仕事の上の信頼関係の強い間柄となっていた。
藤尚侍は源典侍に対して、もちろんもう一つの仕事についても理解しており、控えめで勤勉なこの賢い少女を高く評価していた。
伽羅も、有能で厳しいが、母のように何くれとなく気遣いしてくれるこの上司を敬愛している。
伽羅は久しぶりに朝の膳を持ち、淑景舎の一の皇子の御座所へと入った。
「おはようございます。朝の膳をお持ち致しました。」
ややあって橘侍従の声がした。
「すまぬ。伽羅殿、そちらに置いておいてくれ。」
「はい…。」
少し前より感じている少しの違和感。
微かに感じる嫌な臭い。
それらは目に見える形で少しずつ増えていった。
明らかにお食事を残す量が増えてきている。
三日目、汁物以外ほとんど手を付けていない膳を見て、さすがに伽羅も久しぶりに顔を出した橘侍従に詰め寄った。
翡翠もあの日以来、姿を見ていない。
「侍従様、これはどういうことでございますか。
ほとんど手を付けていらっしゃらない。
どこか体調がお悪いのでしょうか。」
「それが私にもよく分からないのだ。
皇子様にお尋ねしても食欲が無いと。
疲れているだけだと。
特に身体の何処かに痛みとか調子の悪い所は無いと仰るけど、夜もよく眠れていらっしゃらないようで…。
正直、私も困っているのだ。」
「そうですか…。それは困りましたね…。
何かおかしなことが有りましたらどうか私にもすぐにお知らせ下さいませ。
実は、何か…少し嫌な臭いがするのです…。」
「それは…。」
伽羅も橘侍従も不安を抱えて眠れない夜を過ごすのであった。
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