第一章 陰陽師姫神隠しの怪に遭う話 ニ
夕刻、伽羅はその日の最後のお勤めのため淑景舎へと向かう。
相変わらずここには全く人の気配が無い。
第一皇子のお住まいだというのにひっそりしたものである。
一の皇子の母君である前の中宮がお亡くなりになり、その父君、皇子にとっては祖父に当たる式部卿の宮も既にいらっしゃらない今、一の皇子には父帝以外には頼るべき方はいない。
一つ違いの弟の第二皇子とその母君の今の中宮がお住まいの華やかに時めく弘徽殿とは雲泥の差がある。
そんな寂しい様子の殿舎だが、漂ってくる甘い香りに伽羅はふと足を止める。
草木の伸び放題の庭の奥に蝋梅が黄色い小さな花を咲かせていた。
春はもうすぐだ。
いつもの部屋の前まで来ると、御簾の中から大きな身体を折り曲げるようにして橘侍従が夕餉の膳を持って出てきた。
「源典侍殿、いつもすまないな。」
「いえ、橘侍従様。
一の皇子様は全てお召し上がりに?」
「ああ、ことの外この鳥肉と大根の羹がお気に召したようだ。」
「それは良うございました。」
と伽羅は空の膳を受け取りにっこり笑った。
橘侍従は歳の頃は二十歳過ぎ、がっしりとした武官の様な偉丈夫で、実際武芸も達者のようだ。
一の皇子とは乳兄弟であり、皇子の幼い頃よりお側にお仕えしている。
柔和な目元の人である。
その日のお勤めを終えた伽羅は宮中で自分に充がわれている曹司へと帰る。
父が三位という高位貴族の家柄のため、一人部屋をもらっている。
「あ、お帰りなさいませ。伽羅姫様。」
いそいそと侍女のかるらが出迎える。
「ただいま。かるら。大事はない?」
「はい。もちろん。」
かるらは伽羅の小さい頃から仕えている侍女である。
明るく、くるくると立ち働く様は小柄でまだ少女のように見える。
そしてもう一人。
「なぁーお」
と、一声、縁で昼寝をしていたらしい、真っ白で腹と尾と頭の部分に黒い毛のある大きな猫が伽羅に擦り寄ってきた。
「真白。」
と声を掛けると満足げに膝先に丸くなった。
かるらは伽羅を労うように白湯と干しなつめや米粉を固めた菓子を勧めた。
伽羅はそれらをつまみながら、今日女官仲間達から聞いた噂話、「神隠し」の件について話を始める。
「今、宮中では神隠しに遭ったという若君の噂があるようだけど、二人は何か聞いている?」
「はい。藤大納言家の若様だとか。
とっても麗しい若様で、新しい女君の処へ通い始めて間無しだったとの事で今その話で持ちきりです。」
続けてかるらは、
「十二日前の十六夜の晩より行方が分からなくなり、その四日後に右京の下町辺りで倒れていたのを見つかったとか。」
それを聞いて伽羅も頷く。
「ええ、今はご自宅で伏せっておられるそうよ。
その前の月には近衛府の武官が、その前の前の月には中務寮の文官が同じように神隠しに遭ったと言われているわ。」
丸くなって寝ていた真白も顔を上げ、考え込む様に金色の眼を細めている。
「神隠しか…。
調べてみる必要がありそうね。
何か…微かにだけど…嫌な臭いがする…。」
伽羅も美しい眉を寄せ、考え込む。
そんな二人をかるらがワクワクした顔つきで見ていた。
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