第一章 陰陽師姫神隠しの怪に遭う話 十六
とうとう第一章 大団円です。
ありがとうございました。
あれから数日が過ぎ、やっといつもと変わらぬ日常が戻ってきた。
「おはようございます。
朝餉をお持ち致しました。」
「ありがとう。
そちらに置いておいてくれ。」
そう、あれからいつくか変わった事もある。
今まで気配さえ感じられ無かった一の皇子様が毎朝挨拶を返してくれるようになった。
まだ御簾越しではあるが、お元気そうなご様子に伽羅の心も跳ねる。
先日はこの度の「神隠し」の事件のことで労いの言葉も賜った。
それともう一つ。
伽羅が淑景舎へ赴くと、裏庭で橘侍従を相手に刀の手合わせをしていた翡翠が、伽羅の姿を見つけ手を止めて
「よお、伽羅!」
と、駆け寄って来た。
そうして時たま縁に腰掛け、たわいもない話をしたり、菓子のお相伴にあずかった事もあった。
翡翠はあれ以来、時々あの時知り合った大江秀正に進講を受けたり、平季通に弓を教わったりしているという。
あの後、例の琵琶は、次の朝見ると不思議なことに金色の短刀は消えていて、大きな刀傷のみが残っていたそうだ。
護国寺の僧達はそれらに恐れをなし、その後すぐにそのままの状態で一の皇子に献上されたという。
橘侍従も伽羅の姿を見て寄って来た。
「伽羅殿、次の十六夜の月の夜、一の皇子様がこの度の働きの労いを兼ねて月見の宴を開きたいと仰っているが、来て頂けないだろうか。」
「あ、はい。喜んで。」
そうしていよいよ十六夜の月の夜が来た。
伽羅はかるらに手伝ってもらい、この時期に相応しい桜がさねの袿をまとい、いつもより少し身なりを整えて淑景舎へ向かった。
通された部屋はいつもの庇近くの間だ。
あの時よりすっかり春めき、庭の散り始めた満開の大きな桜の木が見える。
部屋に入ると橘侍従がおり、御簾の向こうには一の皇子様もいらっしゃるようだ。
翡翠の姿は無かった。
東の山の端より遅い十六夜の月が昇ってきた。
「よく来たな。伽羅。」
御簾の中より声が掛かる。
少し低くて落ち着いた柔らかな声だ。
翡翠に何となく似ているような気がした。
「では、こちらを。」
橘侍従が錦の袋から恭しく取り出した物を見ると、何とそれはあの時の琵琶であった。
でもあの時とは違い、刀傷も無ければ、損傷の激しかった左下部分の男の姿があった場所も今までのことが無かったかのように綺麗に修復されていて、異国の武官の衣を纏った見目麗しい男の姿が描かれていた。
目を丸くする伽羅に、
「とても良い物だったので修理織で直させた。
今日はそのお披露目だ。」
と、御簾の中より声がした。
橘侍従が御簾の内へ琵琶を差し入れる。
しばらく調子を合わせたのち、当代一の琵琶の名手といわれている一の皇子が弾き始めたのは「想恋夫」だった。
嫋嫋と琵琶の音が響く。
高く低く、激しく緩やかに…。
あまり嗜みのない伽羅でも皇子様の弾く琵琶が類い稀な素晴らしさだとしみじみ感じる。
妻が遠く離れた恋しい夫を想い一人琵琶を奏でるというこの曲の切ない調べは美しい月の光と春の夜の甘い香りに溶けて行くようだ。
伽羅にはまだ、誰かを愛しいと思う気持ちはよく分からないが、ただ、今は琵琶の音に耳を傾け、心が温かくてふわふわする気持ちに浸っていたいと思った。
急に何故だかあの大きな温かい手と、深い緑の瞳を思い出し頬がほんのり熱くなる。
嫋…。
空気を震わす様な余韻を残し、演奏が終わった。
突然暖かな突風が吹き、桜の花びらを空へと巻き上げた。
「あっ!」
その時、伽羅は確かに見た。
十六夜の月の澄んだ光の中、異国の衣を纏った若い美しい男女が抱き合ってきらきらと輝き、空へ高く高く昇っていく姿を。
やがてそれは月の光に透けるように消えていった。
伽羅の小さな叫びに御簾の中から声が掛かる。
「どうした?伽羅。」
「先程の琵琶の音によって、彷徨える魂達は祓い清められ、天へ召されたようにございます。」
「そうか…。それは良かった。」
「これからもよろしく頼むぞ。陰陽師姫。」
ふっと笑う気配がする。
「はい。お任せくださいませ!」
伽羅もにっこり笑った。
春の夜は伽羅の心に少しの切なさと温かさを残して和やかに更けていった。
皆様のおかげで無事、第一章を完結することができました。
お読み頂きありがとうございました。
この後、ギャグ風の間話を挟みまして、
第二章 「陰陽師姫の初恋と受難に遭う話」
をスタートいたします。
ますます成長していく二人と恋の行方、命の危機に陰陽師姫の活躍をご期待くださいませ。
お読みいただきありがとうございます。
不定期投稿になりますがよろしくお付き合い下さいませ。




