一章-6
一旦自室から手鏡を持ち出して、やっと秘密基地へ戻ってくる。
吸血鬼と同じ能力が使えることは、極力知られたくないし、戻るのに失敗したところを見られたりしたら悲惨だ。
とは言え飛び回って疲れたので、ボロのソファーで羽を広げて休憩していた。
ドタドタとした足音が響き、ガタガタと乱暴な扉の開閉音。
耳慣れた音に「ああ、イツがきたのか」と思い、いつものことにあまり意識を向けていなかった。
バッと開け放たれた瞬間に、ハッとして失態を悟る。今はまだカラスの姿のままだった。
まずい。
爛々とした目が、こちらを凝視している。
先ほどまで「あーどこで落としたんだー?」とぼやいていた騒がしさが一瞬で消え、沈黙が包み込んだ。
「鳥肉だー!!!」
さすがは獣人族の人狼種。
素早い身のこなしでカラスに飛びつき捕まえる。
「えー!? なんでなんで!? なんで鳥肉がここにあるんだ!? シンのサプライズ!?」
貴様仮にも魔族の王子なんだから野鳥如きで喜ぶな。とシンは思ったが、捕まる等という己の間抜けを暴かれたくないので大人しくカラスのふりをした。
抜け出すために嘴でイツの頭を突く。
「いてっ、いっ。やめっ、てめーざけんな! 晩飯のくせにぃ!?」
腕を抜け出して飛び上がる際に神聖力を使ったからか、イツが驚きで後退する。
「フツーの鳥じゃないな? 使い魔的な……えっと、神どもは別の呼び方するんだっけ? でも、なんでここに?」
ひとまず、このまま噛みつかれる心配は無くなったので、ソファーの背もたれに降り立つ。
シン本人であることは気づかれてないようなので、このままやり過ごそう。
しかし、妹のベルはすぐに気づいたのに、自らの片割れこそは全く気付く様子もないのは、少し残念に思う。
イツがどうするのか観察していると、顔を近づけてきて鼻を鳴らした。
「すん……んーなるほど、シンの匂いがするな。だから入るまで気づかなかったのか。別の混じった感じはしないし、シンが尾行を撒けないはずがないから、お前、さてはシンの使い魔だな」
状況証拠から良いところまで推測はできているが、いささか惜しい。
とは言え、シンに変身能力があったなんて知る由もないのだから、思い至らなくても仕方がないのだろうが。
「そしてこっちには手鏡か。これはあいつの私物だな。成る程成る程、つまり俺と一緒でここに忘れたこの手鏡を回収するために、お前が使わされたってことだな! どうだこの俺の名推理! あってるだろ? 鳥肉クン!」
シンは素知らぬ顔でそっぽを向いてしまったが、イツは一人で納得して盛り上がっていた。
何か落とし物を探していた自分の要件は、綺麗さっぱり忘れていると見える。
「しっかし、使い魔持てるんだな、シンのやつ。やっぱ優秀だな。契約とか知略とかねちっこいこと得意だもんな」
弟妹同様にイツも無遠慮にシンを突いて羽を撫でてくる。
落ち着かないが、片割れの好きなようにさせてやった。シンなりに心を許している現れだ。
すると、イツの両手がシンの首をすっぽりと覆う。
そんなことはしないだろう、という信頼があったが、無意識に「絞められる」とシンは感じた。
「お前を殺したら、あいつは泣くかな」
純粋な笑顔。
無垢な悪意。
時折イツが覗かせる、実に魔族らしい側面だ。
「なーんて。シンが泣くわけないよな。お前の首折ったら絶対めんどくさい仕返しされるからなんもしないよ。あ、今の話お前のご主人にバラすなよ、鳥肉」
バラすなも何も、すでに知ってしまったが。
パッ、と手が離されたので、つん、と涼しい態度を返すと「この鳥肉、馬鹿そうな顔してるけどわかってんのかなあ」とイツがぼやく。
腹いせに手の甲を突いてやった。
「ンググお前それ以上突いたら丸呑みしてやるからな」
イツのことなんてちっとも怖くないシンは、飛び跳ねてイツの頭を踏み台に一層高くジャンプした。
そのまま翼を広げて、小屋の外へと飛び去った。
「鳥肉のくせに馬鹿にしやがって! ムカつくムカつくムカつく!」
地団駄を踏みながら、イツも飛び出しシンを追う。
優れた身体能力と嗅覚を持つイツを撒くことは難しいだろうが、先に飛び出して一直線に空を飛んだシンは、目当ての泉まで追い付かれることなくたどり着いた。
羽ばたきを止め、落下しながら、変身した時と同様に神聖力を溢れさせる。
溢れ出た神聖力を操って、着地の緩衝材に利用した。
葉擦れの音が迫る中、鏡代わりの泉を覗き込む。
軽く見た感じ、元通りに見えて息をついた。
立ち上がったところで、後ろから強い衝撃がぶつかる。
「捕まえた! 観念しろこの晩飯鳥…………ぃ?」
「誰が晩飯だって?」
「シン!? な、だって匂い……いや、同じだからどっかで混ざったのか?? え、でもなんでここに?」
飛びつかれた状態のまま、シンは目を細め怪しく笑み、イツの顔面を鷲掴んだ。
強引に引き剥がすも、手はそのまま顔を握る。
イツは顔面蒼白でぎこちない笑顔を浮かべる。
「質問したのは我が先だったはずだが? 誰が晩飯なんだ?」
「ひゅっ……えっとぉ、美味しそうな野鳥がぁ、小屋にいたからぁ……」
「なるほど? で、我と同じ匂いのする野鳥とやらを食らおうと追いかけていたと? 我と同じ匂いのする野鳥を」
「に、二度言わなくても……」
「いくら貴様でもその意味がわからないほど愚かではないだろう、なあ? 我が半身イツよ」
シンとイツの力関係は明白だ。
シンの物に勝手に手を出したら酷い仕返しを受けることを、イツはよく理解している。直情的故にうっかり一線を超えがちではあるが、理解はしているのだ。
目を潤ませて、イツは「うぅう」と唸った。
「だ、だって、あの鳥肉が俺を突きやがるからぁ!」
イツお得意の泣き落としだ。
愛嬌があるから、シンでも少し心が揺れる。片割れへの贔屓目もあるだろうけれど。
顔面を掴む手が湿っぽくなってきたので、手を離してから、ピン、と指でイツの額を弾いた。
「いい加減泣いて済まそうとするのはやめろ」
「ふふっ、へへへ、でもシンは俺が泣いてたら放っとけないじゃんよ」
涙目のままにはにかみ笑い、イツは弾かれた額をさすった。
周囲の存在に甘えることに躊躇いがないところは、イツの美点だろう。
シンは「ふん」と息をついて、肯定も否定もしなかった。
「そーだ。それで、シンは何でここに?」
「この辺りでカラスの実験の最中だっただけだ」
嘘は言っていない。
堂々と告げたから、イツはもうすっかりあのカラスがシンだったとは夢にも思っていなかった。
「へー。そう言えば、あの鳥どこ行ったんだ? どこにも見当たんないけど?」
「貴様に食われるのが嫌で逃げたんだろう。当分は戻ってこないさ」
……嘘は言っていない。
イツの前では身の危険を感じるので、慣れるまでは変身は控えたい。
それに、奥の手というものは出来る限り隠しておく物だ。……まあイツにならいつか教えてやってもいいけれど。それは少なくとも今じゃない。
思案するシンを他所に、とうとうカラスを取り逃したとわかったイツは、悔しそうに歯噛みし、犬歯を覗かせた。
「次あったら絶対羽むしり尽くして丸焼きにしてやる……」
「鳥如きに熱くなりすぎだ」
「む、確かにレアの方が美味いもんな」
「焼き加減の話ではない」
ふっ、と呆れて笑みをこぼす。
シンが笑ったので、イツも気が抜けたようで「でもどうせ焼くならレアがいいだろ?」と口の端を上げた。
「ところでイツ、随分と長く此処に居るが、戻らなくて平気なのか?」
「げ、しまった。フィリアのお守りをどっかで失くしたみたいで探してたんだった」
「魔女フィリアステスの呪具か、興味深いな」
「わざわざ俺のために作ってくれた奴だからさー……失くしたなんて知れたら俺、絶対毛皮にされる……」
「やれやれ。……引き返した道中にはなかったということなら、やはり小屋の周辺か。匂いは覚えてるんだろう? 早く見つけるぞ」
「手伝ってくれるんだ?」
「当たり前だ」
あっさりとシンが返せば、イツは「へへ」と頬を掻いて笑った。