一章-5
居城の中庭。
ガラス張りの温室の屋根にシンは降り立つ。
他のカラスに混じると色の違いが一目で分かってしまうので、極力距離を置いた。
温室の中には、兄弟の中の紅一点、末の妹ベルの姿が見下ろせる。
頬を膨らませて拗ねているベルの隣には、気遣わしげなチェリョがいた。
ベルはどうやら、一度爆発すると冷めるのに時間がかかるらしい。
温室の中の声は聞こえないが、チェリョはベルの機嫌を直そうと言葉を重ねているのだろうことは察しがついた。
拗ねたベルは、プイ、と覗き込まれるたびに顔を逸らし、何度も繰り返すうちに、勢いよく上を向いた。
目が合う。
驚きはしたものの、シンは狼狽えずに泰然と観察を続けた。
頬を萎ませたベルは、いつも通りのぽやんとした顔に戻って、じっ、と銀羽のカラスを見上げ続ける。
チェリョの言葉を聞き流すベルとの睨めっこに飽きて、シンが視線を外すと弾けるようにベルが駆け出した。
温室を飛び出し、外から屋根を見上げる。
「お兄ちゃん」
「え、ベル? どこにも兄さんなんていないけど……ああ、よく見るとあのカラス、シン兄さんと同じ色だね、珍しいな」
追いかけたチェリョも、ベルの視線を追って屋根の上のカラスに気づいた。
シンはベルに感心して、黙ったままに次の言葉を待つ。
ベルは手を大きく振って「シンお兄ちゃん」とカラスを呼んだ。
「ベル、色が一緒なだけであれは兄さんじゃ」
「まさか気付くとはな」
「う!? え!? カラスが喋った!?」
「知見が足らんな。喋るカラスもそう少なくないはずだが」
多くは悪魔の使い魔だが、喋るカラスはまあまあいる。
とは言えカイリティカ王城の周辺に魔族の使いがいるわけもないし、喋るカラスは生息していないから、まだ若いチェリョが驚くのも無理はないだろう。
シンは二人の前まで飛び降り、腰丈ほどの低木の枝に留まった。
「なん、で? その、カラスに?」
「ちょっとした秘密の実験の結果だ。戻れるから狼狽えずとも良い」
とは言え実際に元に戻るのは試していないので、うまく出来るかは定かではないが。
これも本能的な勘だったが、戻れる確信はあった。
「しかしベル、よくぞ見抜いたな」
「シンお兄ちゃんはシンお兄ちゃんだもん」
よくわからない理屈だが、ベルには感じるものがあったらしい。
ベルは口数も少なくぼんやりマイペースでのんびり屋な、掴みどころのない末の妹だ。
だが妙に勘が鋭く、他者への共感性が高い。シンが上手く隠したつもりでいた感情に、以前から勘づいている節があった。
ひょっとすると、常々諦めを求められているシンのことをわかっていたから、先の神王の決定に、シンに代わってとうとう怒り心頭に発したのやもしれない。
気遣いはありがたいが、正直シンはベルが苦手だ。
妹として可愛いとは思うが、この勘の鋭さにいつも言葉に困ってしまう。
その辺はチェリョが察しているのか、シンが困るとすぐに助け舟を出してくれた。否、不思議ちゃんなベルのことが苦手なのは、何もシンに限った話ではないから、チェリョからすればいつも通りにベルのフォローをしてるだけなのだろう。
互いをそばで支え合える良い双子だ。
シンにも片割れがいるから半身の大切さがよくわかる。同時に、共に在れる姿に憧れて、眩しく思う。
「まあいい。それより貴様ら、こんなところで油を売っていて良いのか? 自身の創世の準備はどうした?」
「それが……全然進んでません……」
痛いところをつかれたチェリョはぎこちなく呟く。
ベルはまた少し不満が戻ってきたようで、ムスッとむくれた。
「ベル、シンお兄ちゃんの試験が終わるまで待つ」
「と、まあこの通り、ベルが拗ねちゃって」
「チェリョだって、このまま進めるの嫌なくせに」
「そりゃあね。納得はしきれないけど……兄さんに気負わせたくないだろ」
そんな程度でシンはプレッシャーを感じないから、好きにすればいいと言いかけて、止める。
どちらにとっても都合のいい案を思いつき、愉快そうに「そうだな」と頷いて見せた。
「そこで提案があるのだがどうだろう? 貴様ら、幼馴染の天使が居たな。あれは貴様らの補佐に迎えるのだろう?」
「ユーリークのこと? そのつもりだけど」
「そのユーリークとやらを試験の間我が借りよう。貴様らにも悪い話じゃないだろう。エイザスとシリスの補佐にもすでに声をかけてある、先達から直に教えを乞える良い機会になるはずだ。貴様らもその間に必要な学習をすればいい」
監視の天使は人数上限以外、所属の指定はされていない。
まだ候補段階の補佐ですらない若者でも問題ないだろう。
若輩に実習の場を与えてやるのも悪くない。チェリョとベルの人手は足りなくなるかもしれないが、その分補佐天使が十分に育つまでの間ゆっくりと準備を進めていけば良い。
シンとしても、兄弟それぞれの補佐から監視役を連れてきた方が、誰に取り入っているわけでもないことをアピールできて都合が良かった。
思惑に感心し納得しながらも、チェリョは真剣に首を横に振る。
「待って兄さん。提案自体はとてもいいけど、ユーリークはダメだよ」
「ユー、シンお兄ちゃんが嫌いだから」
「彼の父親は、魔族の討伐に行って亡くなったから、魔族嫌いなんだ」
ますます都合が良い。
シンは「くく」と喉を鳴らして笑う。
「我とて王の力を継ぐ神ぞ? 貴様ら小童、それも格下の天使風情に噛みつかれたところで、痛くも痒くもない」
魔族を恨むその感情を利用しない手はない。
それらをねじ伏せ、改めさせて、初めて神の一員として翳りなく認められるのだ。
むしろ、そうでなければならない。
客観的で優秀な人材はもう十分だ。あとの一人は敵であったほうが刺激的。
シンはもう、魔族嫌いのユーリークを指名すると心に決めた。
忠告を聞き入れないカラス姿の兄に小さく息をついて、チェリョは「兄さんがいいなら構わないけど」と呟く。
ベルは不安げに眉を下げ「ユーにいじめられたら言ってね」とシンの翼をそっと撫でた。
「羽……つや、ふわ……」
「ぼ、僕も触りたい……」
「散れ貴様ら、触るな」
不躾に触られるのは許し難い。
逃げるように飛び上がり、シンは温室の屋根の上に戻った。
物足りなそうに見上げる双子に背を向ける。
「貴様らからユーリークに伝えておけ。我はもう行く」
返事を聞かずに、シンはそのまま飛び去った。