春の少年
春の色が世界を染めたのだと思った。
それがただの桜の花びらのカーテンなのだと理解するまでに少しかかった。
呆然と立ち尽くす沈黙に、吹き荒れる桃色だけが止まなかった。
この両目から流れる涙の意味は何なんだろうか。
少しして細い線のような両足が身体を支えきれずその場にへたりこんでも、少年は視線を真っ直ぐ前から離さなかった。
これは僕なのだと、思った。
少年は、退屈していた。
自分の意思とは関係なく眠りに落ち、目覚め、味のしない流動食を食み、たまの固形物に喜ぶ。
必ず幸せになって終わる読み飽きた絵本も、埃ひとつない真っ白な建物にも、のっぺりとした笑顔を崩すことの無い大きな人間にも。
ただ、退屈していたけれど、欲しいものも無かった。
記憶の奥底に霞む両親の姿もとうに消え、思い出し形作ることもできない。
四季が流れることもなく、絶望のない代わりに希望もない。
ただ挨拶を交わすだけの同じような子供たちがいきなり消えてしまっても、もう何も感じない。
どこかで子らは死は安寧への扉なのではないかとすら感じている。
息をするのも億劫な苦しみの中で、ただ恐怖に脅えて生にしがみついても、小さくて柔らかい手のひらの中には何ひとつ掴まれることはないのだから。
少年の体調は日に日に悪化し、何本ものチューブに繋がれていた。
痺れる手足の感覚が薄れ、熱に浮くように視界が霞む。
少年を見下ろしながら何かをメモする大人たちは、たった一言ですら励ましはしなかった。
暖かな言葉も、撫でて微笑みもしない。
冷たい手のひらがひどく心地いいと、少年は思った。
自身を貫く揺れが、徐々に弱まっていくのを感じた。
意識は薄れていくけれど、反対に根拠の無い熱が得体の知らない胸の奥から溢れてくるようだった。
一度警戒を強められてしまった少年の小さな城は、蝶の一匹も舞うことのできない寂しさがあった。
一定のリズムを機械的に刻む友達が、今日はどこか切なげな声を漏らし少年から目を逸らしている。
その日は雨だった。
ほんの数メートル先も見えないようなカーテンコール。
灰色の空はまるで鋼鉄の壁のよう。
壁越しでも雨が大地を穿つ音はよく聞こえていた。
少年は、何日ぶりかに落ち着いたようだった。
息を吸う音と吐く音、それに雨の音が混ざってなんだか幻想的だった。
ふと、見やった窓の外に、少年は春を見た。
微かに開いた真白のカーテンが、その存在を強調するかのように化物らしく揺れた。
重い身体を引きずりながら、命綱を引きちぎり、少年は窓辺へと身体を寄せた。
あの桃色は見間違いだったかもしれない。
けれど、少年は知ってしまっていた。
あれよりも紅く、簡単には消えない身を焦がす炎が自分にあることを。
鳴るはずの警音器は一言も喋らず、閉まっているはずの窓は開いていて。
少年は、走った。
打ち付けるような雨に、痛んだ肌なんて気にならなかった。
苦しくなる呼吸も、胸も、痺れる手足も、関係なかった。
辿り着いた春は、無残にも全て散らされて。
声にならないような嘆きがあった。
千切れてバラバラになった花びらが濁った水溜りに浮かんでいて、それを何度も何度も大粒の雨が打ち付けた。
少年は、力なくその場に倒れ込んだ。
灰色に染まりかけた花びらを両手で何度も掻き集めたけれど、あの艶やかな春は戻らなかった。
儚さも無かった。
切なささえ感じられなかった。
ただ、悔しさが胸を抉った。
濡れた頬から少しずつ色味が引いていく。
けれどそれは、意味を持たない白色でも、単純な門番の迎えの挨拶でもない。
知らなければ良かったと嘆いても、雨音が少年の全てを掻き消し、循環の輪の中に彼を引き込もうと笑っている。
もうあの日々は戻らない。
もうあの退屈は蘇らない。
もうあの白さに染まらない。
そうなるはずだった。
けれど、少年は初めてその胸を焦がした。
これまで願うことのなかった「もしも」だった。
あの、春を、もう一度。
そして 少年は 白になった。