表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ううん

作者: quiet


 プールへ向かう渡り廊下の扉が開いていることに気が付いて、エリはカズミがこっちへ逃げていったのだと確信した。鬼は二人。隠れるのは十二人。クラス全員で行うかくれんぼの勝敗は、今のところ鬼の二連敗。自ら進んで買って出たとなれば、そろそろ一勝くらいは上げておきたい。

 古い校舎だから、毎日掃除していても窓枠には埃が積もっている。小学四年生の華奢な足が乗るだけで、板張りの床は悲鳴を上げる。木造の校舎なんて今時流行らないけれど、流行っていないからこそエリは気に入っている。それから、担任の藤尾がこの床板をいつ踏み抜くのかを楽しみにしている。自分の倍以上の体重があるのだから、きっとその日は遠くない。

 開いた扉の向こう、夏の葉々から緑色の風と明かりが流れ込んでくる。廊下の電気はいつも消してあるけれど、それだけあれば十分だった。

 エリは歩く。扉の前に立つ。いつも閉じられている棒鍵は捻じって開かれて、その向こうの黒い柵とコンクリートの小さな下り階段が校舎に向かって晒されている。少しだけ踏み出すのを躊躇う。廊下と言ってもほとんど外で、プールに行くときはいつも裸足だ。でも、今から昇降口に戻って靴を取ってくるのは面倒くさい。思い切って一歩踏み出せば、二歩目は簡単になる。学校もまだ終わっていないのに校舎の外に出たという解放感。むわりと襲いくる熱気。湿気。走り出してしまいたくなる。蝉がうるさい。これだけ騒いでいるなら自分ひとりがどさくさに紛れて叫び出したって何も構わないのではないかと思う。小さな階段を下りる。下り切る。陽が照り付けて周りの全てが昼の夢のように見える。上履きが真っ白に輝いている。自分のものではない。廊下脇のフェンスのすぐ傍。林の植え込み。そこから足首だけが覗いていた。

「み、」エリは言いかける。聞こえただろうか、と不安になる。見つけた、と口にして知らせるよりもずっと面白いことを思いついた。できれば聞こえないでいてほしい。二秒待つ。三秒経つ。上履きは動かない。幸運だった。

 足音を殺して近寄った。屈んだ。「わっ!」足首を思い切り引っ張った。

 ず、と腰のあたりまでが茂みから現れる。それ以上動かない。

「え、」慌てた。「だいじょぶ?」

 それ以上動かない。

 エリはもう少し力を入れた。腰を落として、綱引きの要領でそれを引っ張った。ざりざりと擦れる音がする。胴が出てくる。肩が出てくる。頭が出てくる。うつ伏せ。足を離す。ぱたりと落ちる。それ以上動かない。頭の方に回り込む。両手で顔を持って、引き上げてみる。

 カズミは目を瞑っている。瞼を引っ張ってみる。白目。瞼から指を離す。閉じない。それ以上動かない。仰向けに転がしてみる。それ以上動かない。

 蝉の声がやけにうるさい。

 本当にそうなのだろうか、とエリは思った。本当に、自分の思っているとおりなのだろうか。何かの手品が行われているだけで、周囲にはクラスメイトたちが隠れていて、自分のことをくすくす笑っているんじゃないのか。脇腹を掴む。それ以上動かない。生温かくて、ぐねぐねしている。放っておくとすぐに腐ってしまいそうだなと思った瞬間に、エリは自分が目の前のそれを認めていることに気が付いた。

 死んでいた。

「ほんとに?」

 エリはカズミの傍に屈みこんだ。顔の前に手をやる。よくわからない。ポケットからティッシュを一枚取り出して、手の代わりに置いてみる。鼻と口を塞いでみる。それ以上動かない。なるほど、息をしていないことは確かだ。

 手首を取る。保健の授業のことを思い出しながら脈のあたりに指を添えてみる。手応えはまったくわからなかったけれど、それが本当に脈がないからなのか、それとも自分が手に取っている場所が悪いからなのか判断がつかない。手首を下ろす。Tシャツの胸のあたりを見る。それ以上動かない。耳を添えてみる。何の音もしない。蝉の声がやけにうるさい。耳を離す。認めないわけにはいかない。

 何があったのだろうとエリは思った。周囲には何も怪しいものはない。血痕があるわけでも、包丁が落ちているわけでもない。熱中症だろうか。それとも、お腹のあたりに見えない刺し傷があるのだろうか。試しにTシャツの裾を少しめくってみる。お腹が潰れている。もう少しめくる。脇腹が潰れている。やわらかいペットボトルを足で踏みつけにしたようだった。

 自分がついさっき触れた場所だと気付くのにそれほど時間はかからず、それに気付いた途端、エリはそこに再び手を置かずにはいられなかった。脆い感触。体重をかければクシャリと潰れた。ペットボトルよりもずっとやわらかかった。潰れていない場所も同じようにしてみた。クシャリ。

 どういうわけだろう。もう一度手首を取った。握った。クシャリ。捻った。クシャリ。ぐるりと回してみた。クシャリクシャリクシャリ。千切れそうになる。怖くなって手を離す。パタリ。それ以上動かない。顔の上に敷いたティッシュが風に払われていく。まじまじとエリは見る。

 こんな顔だったっけ。

 頬に触れた。押すとへこんだ。元に戻そうとして別の場所を押しても、別の場所がへこむだけだった。五箇所ほどをへこませてから、これ以上は取り返しがつかなくなると思って手を離した。それ以上動かない。けれど、すでに取り返しがつかなくなっていたことは確かだった。

「こんな顔だったっけ?」

 エリはカズミの顔を思い出そうとした。けれど、何も思い出せない。どんな子だったか、何も。写真か何かを見れば思い出すかもしれないけれど、目の前にある顔がこれでは思い出すきっかけも何もない。六箇所目を押してみればやはりそこもへこんだけれど、すでに取り返しがつかなくなった後ではもう大した問題ではなかった。七箇所目を押した。へこんだ。八箇所目。九箇所目。十箇所目。そのうち、顔には押せるところがなくなったので、腕にした。腹にした。足にした。改めてエリはカズミを見た。

 こんな生き物だったっけ。

 自分の身体を見下ろしてみる。同じ生き物だったんだっけ。カズミのことを思い出そうとしても、何も思い出せない。陽炎の向こうに記憶は放りやられて、蒸発してしまったように思える。アスファルトの上に落ちたペットボトルの水滴が蒸発していくまでをずっと見ていた記憶だけは掘り起こせた。何の関係もないことだったけれど、思い出せるのだから悪くない思い出なのだと思う。

 なんだかもともと、こういう生き物だったようにも思えてきた。

 しばらくエリはそれを見下ろしていた。なんだかこういう生き物だったような気がする。でも、その記憶は確かなものなのか。自分こそ熱中症になって頭がちょっとどうにかしてしまっているのではないか。その疑いを自分で晴らすことができなかったから、しばらくそこに立っていた。

「あ、」

 すると、カズミのTシャツの裾から、一匹の蝉が出てきた。

 道理で、とエリは思う。さっきから蝉がうるさいと思っていた。当然だった。こんなに近くにいて、顔まで近付けていたのだから。蝉が飛び去っていく。エリはカズミのTシャツを少し持ち上げる。すると十数匹、続いて蝉が飛び去っていく。Tシャツを離す。ぱさり、とひとつの厚みもなくなって、地面の上にそれは落ちる。それ以上動かない。

 エリは踵を返した。

「あ、エリちゃん」

「ん」

 教室に戻ると、仲のいい友達が声をかけてくる。鬼の、ふたりのうちのひとり。

「もう全員見つけちゃったよ」

 彼女は胸を張る。エリはその場にいる人間の数を数える。一、二、三……十三人。自分を含めて十四人。

「すごいじゃん」

「でしょ。……エリちゃん、どこ行ってたの?」

「外。探しに行ってた」

「外にはいないよ。流石に」

「うん」

 エリは頷く。

「いなかった」

 かくれんぼは終わるし、昼休みも終わるし、一日も一年も小学生の時代も終わってしまう。中学受験に失敗し、高校受験に成功し、吹奏楽部ではフルートを吹いて、県大会で金賞を獲って、大学受験は推薦でそれほど苦労することなく切り抜けて、髪を染めて、一人暮らしを始めて、バイト先を一ヶ月で二回変えたあと結局文芸サークルの伝手で得た家庭教師に落ち着いて、その縁から不意にエリは教員免許が欲しくなった。

 卒業要件に関わりのない講義をいくつも取ることが苦痛であるとすぐに気付いたものの、就職について今から激しい心配を重ねる両親に「取る」と言ってしまった手前、もう後戻りはできない。教育実習先として選んだ母校の小学校は、以前とは名前を変えている。周辺の小学校がいくつも廃校になって、よりにもよってこの古臭い校舎に統合されていた。子どもの数は年々少なくなってはいたけれど、そのおかげもあって、今でも各学年には二十人ほどの子どもがいるという。

 採点業務とレポート作成を終えてエリは、喉が渇いていることに気が付いた。小学校の敷地の中に自販機は存在しない。けれど裏門を抜けた先の公民館のすぐ前には、ひとつだけ真っ赤なそれが置いてある。昼休みは始まったばかりで、夏で、烈しく陽が照り付けている。少しくらい外出しても、誰にも文句を言われないだろうと思った。席を立つ。職員室を出る。近道はどっちだったか、と考えながら歩いていると、不意に廊下のずっと向こう、プールへ向かう渡り廊下の扉が開いていることに気が付いた。

 開いた扉の先、夏の葉々から緑色の風と明かりが流れ込んでくる。すれ違う扉の棒鍵は捻じって開かれている。向かいの黒い柵を避けるように小さなコンクリートの階段を下る。フェンスのすぐ傍の茂みに、小さな子どもが立ち尽くしている。

「あ、」

 向こうもこちらに気付いて振り向く。知らない顔だった。けれど、向こうはこちらを知っているようだった。

「あの、」

 彼女は何かの傍に立っている。何かの傍だった。何かだった。そこには何かがいて、彼女はそれを見つけていた。エリにはそのことがわかった。蝉の声がやけにうるさい。彼女はまだ何かを言おうとしている。エリはそれより先に手を動かし始める。彼女の喉が動きを止める。エリはその間に人差し指を一本、唇の前に立てている。ひっそりと、内緒話のようにこう伝える。

 しー。

 今でもそこにあるのだと思う。



(了)



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 淡々と事実だけを記しているような不気味さに背筋が冷えました…面白かったです! [気になる点] タイトル。 最後の文章に対する『ううん』なのかな。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ